【PR】

  

Posted by TI-DA at

2018年04月21日

3.11の花蓮

 3月11日、台湾を左回りに一周し花蓮市に着いた。東日本大震災時には台湾から多くの義援金が寄せられ、その後、台南地震や今回の花蓮地震には日本から支援と募金が呼びかけられた。



地元では震災の中間報告が行われ、台北でも学生による震災慰霊が行われていた。志し同じく、自転車で感謝と慰霊の意思を伝え台湾を一周する日本人がニュースになっていた。花蓮には過去3度訪れお世話になったこともあり、気がかりであった。

 2月6日、マグニチュード6.4、震度7の地震が起きた。前後してペルー沖、アラスカ、ジャワ、パプアニューギニアの大地震が連続し、太平洋のRing Of Fireが活発化していた。この海岸北部は世界最大の海底山脈の断崖とも言われ、三陸地域の津波や平野部での液状化なども危惧された。
その都市型地震の被害はどの程度だったのだろう。




地震直後の災害対策の優先順序は、

1.人命救助、避難施設の確保

2.火災、電気、ガス漏洩の確認

3.交通・情報施設の確認

 実際は各管理部署により同時に進行する。
都市インフラの被害状況をいち早く知る方法は、構造物のジョイント部をチェックすることである。特に橋梁のジョイント部は地盤調査、構造計算、交通条件などの厳しい検証をクリアした土木構造物の中にあって、都市交通の集中する弱点部でもある。橋梁の伸縮装置、沓座拡幅、落橋防止などの構造設計を行った者は、その重要性に気付いているはずだ。
地震発生直後、花蓮大橋の車道は路面が隆起したと報じられた。市内の国道はすでに回復しているが、林森路の歩道橋台部の沓座は大きく損傷し歩道は通行止めになっていた。




目立った歩道部の段差は、埋設物が混在し歪みが集中する交差点部と建物出入口付近に多く見られる。歩道は、ブロック舗装 ⇒ インターロッキング舗装 ⇒ アスファルト舗装の順で破壊が進む。皮肉にも、最も単価の高い自然石ブロック舗装は一番先に壊れ、裸足同様で飛び出した避難者には危険である。




 南に100km離れた瑞穂郷では地震の被害はなかった。花蓮駅前に立つと、依然の街の姿と変わらない。サイクルショップで被害状況を聞くと、店舗には全く影響がなく、むしろ観光客が減ったことが痛いと嘆いていた。以前お世話になった日本人が経営する馨憶精緻民宿は、ほとんど影響なく営業していた。主人の話では、突き上げ、横揺れがほぼ同時に起きたが、それが本震だとわからず、さらに大きな地震の情報が入り、余震の不安が強く眠れぬ夜を過ごしたと語った。予知に関しては日本同様に情報が錯綜し、、台湾気象局の地震予知センターの立場も厳しい。




 台湾では日本統治時代の建造物が多く残され、良く整備・維持されている。花蓮の松園別館は戦時中に作られた将校、士官の招待所で、70年以上経った現在も琉球松に囲まれ落ち着いた観光施設である。



庭の管理人から日本語で声を掛けられ、地震の様子を聞くと「ここは日本が作ったので大丈夫。」とテレビのCMのような答えが返ってきた。彼は、むしろ地下壕の方を今の日本人に見て欲しいと言った。そこにはここから旅立った特攻隊員の資料が展示されている。ガラスの展示台が唯一被害を受けた施設と説明され、寄付金が募られていた。




 演歌が流れる将軍府と日式家屋群。民生社府のコミュニティが管理する大正時代の木造家屋で、歴史的建造物となっている。花蓮市内で最も古い木造家屋なので倒壊は免れないと思っていたが、被災した様子はなかった。
川を挟んだ病院の裏が倒壊したホテルであり、木造平屋とコンクリート中層建物との対比が印象的な光景だった。




 台湾の新しい建築技術より、日本の古い建築技術の方が優れていると言うつもりはない。熊本地震では死荷重の大きい古い構造物の被害が大きく、阪神淡路大震災では最新のスレンダーな橋脚が崩壊した。その責任は、未曽有の災害ということで問われないが、過度の価格競争から経費削減を行ったゼネコンだけでなく、新しい設計技術とコスト削減を指導した国交省や会計検査院にも非がある。



 地震はプレート境界型ではなく、震源は10kmと浅い横ずれ断層型だった。幸いにも津波や液状化はなかった。今回の地震でも気になったのは、ネットをはじめとする情報の拡散がデマや風評を生むことである。地震直後、ホテルの倒壊した映像だけが情報発信された。阪神淡路大震災のイメージがあり、あたかも街全体が壊滅したかのように印象付けられた。不良建築物で亡くなった方には申し訳ないが、必要なのは市民の安否を気遣う人への情報で、メディア側は街の被災状況を正しく伝える良心が必要だったと思う。



 避難計画は日本と同様に避難場所が指定され、街にも案内板が設置されている。避難路沿いには倒壊したビルがあり、避難路は機能しなかったばかりか危険路となった。日本でも、避難路沿いの建物の危険度チェックや耐震構造物指定などの法規制を見直す時代になった。  


Posted by Katzu at 16:15Comments(0)大震災

2018年02月05日

空手と三線とジュゴン

沖縄を読み解く三つのキーワードとして語られてきたもの。
島の精神性を伝え、島を救うキーワードとさえ言われてきた。



 東京オリンピックの正式競技となり、以前に増して注目される琉球空手。それは相手より優位に立つ前に、自分をよく知り相手を見て受ける行為を身に付けることから始まる。琉球空手はK1的なフルコンタクトの格闘とは違い、型を何度も何度も繰り返す鍛錬が重要となり、その型は先制攻撃に対する受けと最後の一撃を食らわすための隠れた技と気迫を表現することが求められる。
5年前に半年だけ習っただけだが、今も我が身のためになったものは計り知れない。久しぶりに胴着をベランダに天日干しし、袖を通し三戦(さんちん)で風を切る音を出すだけでまた身が引き締まる。



 琉球空手は薩摩により武器を禁じられた島民が身に着けた平和的な解決手段で、黒人奴隷が踊りを模して秘匿したブラジルのカポエイラ、宗教的解釈により武闘化した少林寺拳法などにも通じるものがある。空手はEmpty Handと説明されるが唐から伝わった手(てぃー)が基になっている。今のご時世、インドの格闘技が起源と説明する流派もあるが、文化大革命で過去の歴史を封印されたものより、むしろグローバルに発展した琉球空手として確固たる地位を築いたと見るべきだろう。



空手道は道半ばでも一度習った流派、師匠は変えられず、その師弟関係とコミュニティは続いていく。空手に興味を持つ外国人も増え、英語でコミュニケィトする先生も増え、今や道場はグローバルな場となっている。上地流の開祖上地完文は本部出身でその住居跡が八重岳の中腹にある。空手の聖地になっていると思いその地に行ったが、宗教施設の一角の海を遠望できる平穏な地に指標だけが残っていた。





 はじめて八重山に行った時、月明かりの砂浜から歌三線のトゥバラーマが聞こえてきた。自然の中の音と感性が交わった初めての体験で、今もあの感動は忘れられない。何度も八重山を中心とした島を訪れる度に、三線を教えてもらった。幼い頃からその音に接している感性と経験値から、うまい下手・年齢は関係なく全ての地元の歌者は先生であった。それはレッスンや学校教育とは関係のない、体で覚えた弾き方、楽譜、三線の扱いに至るまで個人個人で異なり、プロアマの境界もよくわからなかった。




島の祭りや民謡大会に接するとさらに、島の自然と生活と音楽との関わりがあまりにも美しかった。島の歴史や催事を辿り世界を巡ると、このような唯一無二の歌と踊りの豊かな島々は他に類を見ないことが分かった。

沖縄本島に移り住むと、その事情は少し違って見えた。戦後疲弊した人を癒した心の糧は民謡と舞台であり、そのシンボルは唄とリズムを奏でる三線であった。沖縄民謡界は多くのヒットとスターが生まれ、生業としての音楽が成立し、各団体としてセクト化して行った。




歌は世につれ、世は歌につれ。
いつしか、都市生活の中での三線の役目は変わり、教育と観光のバックグランドに追いやられた。人口浜となった海辺から毛遊びは消え、祭事以外に自然の中で三線の音は響かなくなった。聞こえてくるのは、初心者の観光客程度で、駐車場の車の中で練習する地謡さえいた。しかし、旧盆や豊年祭に聞こえてくる三線の音は沖縄そのもので、そのアイデンティティは失われることはない。

三線を暖かく湿った海辺とは真逆の、寒く乾燥した雪原で弾くと、音は澄み響きすぐに消え去るという不思議な感覚を体験した。同じ亜熱帯の東南アジアの各地で三線に似た音色を聞いた。サンパウロでは伝統と血統を守り伝えようとする人々がいた。
沖縄民謡は明らかに外の世界に向かっている。




 ジュゴンは、沖縄を北限とする国の天然記念物で、主に宮古・八重山地方と本島の辺野古から古宇利島にかけてのやんばる地域に数頭確認されているのみである。クジラとともに海の生態系の哺乳類の頂点に君臨し、琉球王朝時代から特別の存在として崇められてきた。
八重山のパナリ島ではザンという名で祀られ、聖域の神社は現在も立ち入り禁止となっている。石垣島星野ではジュゴンが明和の大津波の時に現れ村人を救った人魚伝説が残っている。
沖縄のジュゴンは、全国にある各地域の街づくりのシンボルとしてのタンチョウ、クマタカ、トキ、コウノトリ、カワウソ、クロウサギ、ヤマネコなどと同じか、それ以上の神格化した存在である。




図らずもジュゴンが沖縄の海の環境を守るシンボルとして再び注目されたのは、辺野古の埋め立て問題である。沖縄の特異な歴史と環境を顧みれば、島民の心に響くのは当然のことであろう。

環境アセスメントの評価では、生態のわからない動物の保護などコンサルタントが提示できる訳がなく、工事が進めば貴重なアオサンゴのサンゴ礁だけでなくジュゴンの餌場が失われることになる。

 名護に住んで感じるは、体制のいじめと差別の構図の中で、基地は反対だが生活は豊かになりたいというのが多くの市民の本音であり、決して基地問題が解決したわけではない。このままでは、日米安保が国指定の天然記念物のジュゴンを絶滅させたという事実とともに、長い目で見れば、過去と同じ遺恨の歴史を残したことになるだろう。 (名護市長選の翌日に)


  


Posted by Katzu at 17:11Comments(0)沖縄

2017年11月15日

ミーニシと小夏日和

台風22号が去り、ミーニシ(新北風)が吹き始めた10月31日、名護の最低気温は20℃を切った。次の日、その寒さに驚いた市内屋部川沿いのサクラが咲いていた。




内地では小春日和の狂い咲きと言うが、沖縄では通常の季節のルーティンであり、気候変動により開花が早まった結果でもある。
山のヒカンザクラの芽は心なしか赤くなり、もう開花まで2か月を切っている。




 沖縄では四季の移ろいは乏しく、山の紅葉も見られず、4寒3温の体感だけが冬に近づいたことを知らせてくれる。秋の晴れた日、沖縄では最高気温が25℃を越える夏日は小夏日和と呼ばれる。


やんばる国立公園に続く名護市の里山に行くと、最後の夏を惜しむようなオオシマゼミのケーン、ケーンという金属音が耳うるさく響いていた。




秋の風情は、へゴやアカバナの色と景観に打ち消される。




湿気も虫も減り静かになった沢に降りると、夏にはない快適さに驚くが、水面に落ちる枯葉は茶色で、死を迎える冬を前に艶やかに色づくこともない。





道端には旅する蝶で有名なアサギマダラがいた。これは越冬を控えたリュウキュウアサギマダラか、7月の蔵王にもいた渡り蝶のアサギマダラなのかはわからない。




森に分け入ると日本最大の蝶オオゴマダラが数匹、木の葉の裏側に集まり交尾しながら、忙しく飛び回っていた。




 この森の魅力は、物珍しい個体の多さにあるが、同じ景観や希少動物に見あきても、いつも違うディテールを見せてくれる。





奇怪で淫靡な寄生植物や虫には驚かされる。けもの道には20cm近い日本最大の蜘蛛、オオジョロウグモが巣を張り行く手を遮る。




森の色が少ないのは、多くの生物が擬態と保護色を使っているせいでもある。
木の裏から瞬間移動するキノボリトカゲは緑色のはずだが、見つけたトカゲは茶色でなかなか確認できなかった。リュウキュウルリモントンボは、アオとキイロの雌雄別色なのと同じ理由かもしれない。



どこにでもいるようになった要注意外来生物のアフリカマイマイは、石のように固く重い殻を背負い木にも登る。その近くには数ミリの準絶滅危惧種のアオミオカタニシがいた。




森の木をコツコツと叩く音がする。この付近にはノグチゲラはいないが打撃音も小さい。木陰で見えづらかったが、同じキツツキの仲間のリュウキュウコゲラだった。




 森のディテールの極め付けは、葉の上に咲く不思議な花で、春に博物館員から教えてもらった。『琉球花筏』という粋な名前で、ハナイカダの固有種だという。別名『嫁の涙』という意味深な花である。
秋になっても、この花はアニメキャラのような形になり、まだ咲いている。




やんばるの里山は、冬を迎えることなく春の準備をするもの、春を求め海を越えて来る者、営みを終え最後の夏を謳歌する者。雪囲いも冬着への交換も急ぐことなく、ゆっくりと冬に向かう生物たちの姿がある。




  
タグ :里山の環境


Posted by Katzu at 17:25Comments(0)里山の環境

2017年10月25日

台風とダブルレインボー

 台風21号が去った22日の朝、完全な形のダブルレインボーを見た。通り雨の多い沖縄でも、海上以外ではなかなかお目にかかれない。カメラを取りに戻るとティーダアミ(狐の嫁入り)になり、レンズの滴を拭くのも願いをかけるのも忘れ5分ほどで消えた。




虹は太陽の反対側の雨滴が反射されて写るため、北か東から雨雲が移動し通り過ぎた時に太陽が出ると起こりやすい。この条件が揃うのは秋から冬にかけての日本海であるが、今回の場合は沖縄本島の東側を台風が通過した後、台風の海老の尻尾の吹き返しを受けて北東から雨雲が押し寄せ、背後の暗雲が安定したスクリーンとなり、東から太陽が上がった時に発生した。
台風がもたらしたダブルレインボーだった。



南洋の生活を思い出した。パラオでは毎日のようにスコールがあり、その前後にどこかで虹が出た。ダブルレインボーも年に数回見ることができた。

 沖縄の夏は先週ようやく最高気温が30℃を切り終わったが、今年は台風の影響が少なく総雨量は少ないが、雨の降り方は南洋のスコールに似た断続的な通り雨が多かった。1時間後の雨雲予想も役に立たない結果になることもしばしばで、天気予報は、晴れ時々曇り一時雨が一番正解だった日が多かった。




 1週間たった昨日、パラオとグアム間に台風22号が発生した。遅い発生の台風であるが過去の10月の台風は東に大きくそれるが、これは日本に接近する予想になっている。


 今年の台風の経路を例年の月別コースに重ねてみると、大陸側に向かう台風(ムラサキ)は例年通りであるが、北に向かう台風(アカ)は例年と異なり、沖縄本島を迂回し、日本本土に上陸するようになった。
この違いは台風の発生場所が異なったためとも理解できる。


    気象庁台風の経路図ベース

台風はパラオ北方近海(キイロ破線)で発生することが常であった。グアム方面から西に向かった熱帯性低気圧がパラオ近海で台風になる場合がほとんどであった。今年の台風はそれ以前に発達し、グアム近海で発生するケースが増えた。
ちょうどピッチャーが投げる玉の離れる位置が後ろになり、打者の前に大きな空気の塊があるため、スライダーとツーシームを投げ分けているような感じである。




今年の北太平洋の海水温は高く、太平洋高気圧の影響が強かった。
発生後2~3日間の台風経路の予測精度は格段に進歩したが、3日以前の発生予測や降雨の短期的局地的な予測にはまだ対応しきれていない。
過去のデータが変わり予測モデルが更新される以上に、気候変動が加速している証拠でもある。
ティーダアミにダブルレインボー。次はどんな自然現象を見せてくれるのだろうか。



  


Posted by Katzu at 17:26Comments(0)地球環境

2017年09月26日

台風が去った海

 935hPaの台風18号は宮古島を直撃し本土に向かい、九州・四国・本州・北海道すべてに上陸した初めての台風となった。沖縄本島には上陸せず甚大な被害はなかったが、台風の目から最短300km以上離れても、海は三日三晩しけ続け、強風と波の音で窓を開けて眠れなかった。
雨が止み海岸に出ると、離岸堤が隠れるくらいの大波が押し寄せ、防波堤より高い波濤が砕ける、普段からは想像できない光景が広がっていた。



次の朝、人工海浜の砂は沿岸道路まで覆い、海岸線も後退し公園の海浜地形も変わっていた。



多くの漂流物が打ちあがり、水面にまとまって漂っていた。
再生したサンゴ礁は、消波ブロックによる潜堤に守られているとはいえ、6~7mの高さの波を受け続けた結果、海底はどんな影響をうけたのであろう。



 波が収まった日に砂浜から潜ってみた。
かき混ぜられた海水は濁りがあり、浮遊物も多かったが台風前に比べ海水温は低くなっていた。
岩礁の一部が砂で覆われ、多くのエダサンゴ類が折れ、漁網やロープが残ったサンゴに絡まっていた。



見た目には、白化の進んだテーブル状サンゴ、折れたエダサンゴ、砂に覆われたイソギンチャクなど、幼魚の群れも格段に減り壊滅的な状況に思えた。




その時、背後から大きなもののけの気配を感じた。一瞬ヒュッと音がして肌に風圧をうけ、体に無数の小魚がぶつかり追い抜いて行った。
見上げると何万匹というミジュン(カタクチイワシ)の群れだった。



あとからコバンアジとダツが追って行った。海人はこのことを良く知っていて、前日には浜から投網を投げていた。



自然のサンゴ礁の替わりに、人工リーフが入江を作りかろうじて稚魚を守っていた。
リーフ内は弱肉強食でサンクチュアリ(禁漁区)ではないが、サンゴは災害や敵の攻撃から守るシェルターとなり、生きた褐虫藻が共生する集落を構成している。
海水温の上昇で一変するリーフは、小さな地球環境そのものである。




 1週間後、晴れて白い貝の波紋の残る浜には家族連れが戻り始めた。



海の中では、かぶった砂からはイソギンチャクが顔を出し、カクレクマノミが戻っていた。



人の持ち込んだものが自然を変え、それが原因で人の作ったものが壊れ、人工構造物を維持管理できなくなっているのが現在の都市の姿である。これだけ地球の気候変動に対応できない様子を見せつけられると、小さな造礁サンゴの自然治癒力の方が神がかって見えてしまう。


  
タグ :海の環境


Posted by Katzu at 20:56Comments(0)海の環境

2017年09月19日

沖縄の観光を取り巻く環境



 沖縄の観光業界は好調に発展し、新しいリゾートホテルの開業も目白押しで、その中心にいるのは海外からの観光客である。沖縄の複雑な歴史と特別な環境は、新しい解釈がなされ再生されていく。ハクソーリッジ、旧核ミサイル基地、やんばるの森からガマ、御嶽に至るまで観光スポットとして次々に注目され続ける。県民の多くはその詳細を知らず、突然の騒動に驚くのはむしろ地域住民の方である。



7月よりワルミバンタが立ち入り禁止になった。集落付近は元の何もない作業場と住宅になっていた。やはりというか、今まで沖縄の人でさえ知らなかった(入れないと思っていた)所がなぜ観光客が押し寄せるようになったのか不思議でもあった。

備瀬の岬は観光客が相変わらずで、その多くは外国からの観光客である。シュノーケリングポイントとして一度発信されると、5年前の情報でも美しいサンゴ礁と期待されてしまう。実際、サンゴ類は踏みつぶされてしまい、数年前と比べるとさらに痛ましい。



もっときれいなスポットもあるが、シャワー、駐車場、道路が整備されていない。ダイビングだけでなくシュノーケリングでさえ観光の名がつくと、本部のゴリラチョップのようにコンクリートブロックで囲んだ公園を整備したうえ、シャワーのある施設が必要になってしまう。




 備瀬の集落を走ると、ワルミの看板を見かける。観光業者が新たな観光スポットとして紹介してきたことがわかる。観光業者と地元地権者との話はどうなされたのだろう。地元の観光施設のオーナーにその話をすると下を向いて黙ってしまった。

 沖縄の観光の歴史は、環境の切り売りの歴史でもある。開発者と土地所有者が時代の流れの中で、いつも沖縄の海岸線を変えて行った。本土返還、海洋博、サミットの開催、リゾート法の制定、世界遺産の登録、様々な時代背景が工事を後押しして行った。



一概に開発業者が悪いのかというと、観光経済を牽引した面がありそうばかりとは言えない。沖縄には70年代の離島ブームの当時から、観光客が集まるとその土地の入場料を徴収したり、有料駐車場を建設するという悪い慣習がある。石垣島で民地のサガリバナが有名になり観光客が集まると、途中のあぜ道の土地所有者が通行料を取るということがあった。なぜか太平洋の島々では、同じような事例に何度か遭遇した。


   ポンペイ・ナンマドール遺跡

 どうするべきか、答えは二つに一つである。個人の土地として立ち入り禁止にするか、公共のものとしてのインフラ整備、入場料の徴収、祭事など特定日の設定、入場数の制限を行政機関、地権者、観光業者が三者調整を行い入場させるか、である。その調整役を担うのが観光コーディネーターであるが、日本では認知されていない。
ワルミバンタの例は、良心的な口約束があまりに多くの観光客が押し寄せたために招いたもので、営利に走らなかったことが救いであるが、当面は出入り禁止にして方策を検討していくというのは良い選択だったのかもしれない。




ごみのポイ捨てなど、直接の原因を作ったのは外国人観光客であるが、彼らがどの観光地や店に集まるかを知る方法はたやすい。Googleマップで施設を探し内容や評判を見て、中国のウェイボーで沖縄の観光情報を検索するだけで、今どこに外国人観光客が集まっているかがわかる。今や日本人向けのガイド本や食べログではなく、小さい不確かな情報が独り歩きする時代である。地域に知れた老舗の有名店よりも、隣の店情報を提供した店の方に外国人観光客が集まる様は滑稽でさえある。これを逆手にとれば自ずと、その情報源に近づける若い人の方が成功する確率が高くなる。ただ、ワルミの事例のように経験や調整能力がないと問題が起きる。


      浦添ハクソーリッジ付近

外国人観光客のマナーの悪さばかりがクローズアップされるが、彼らから教えられることもあり、いずれは理解されると考えている。むしろ、不動産の買い占めがこれ以上進むと、次の規制緩和や社会の変化をきっかけに沖縄の観光と環境が大きく変わってしまう事を懸念している。






  


Posted by Katzu at 18:31Comments(0)ビジネス環境

2017年09月02日

北の夏・南の夏



 8月22日、標高1500m地点の蔵王山(ざおうん)は夏のワタスゲの季節を過ぎ、いつもは秋の最後に咲く エゾオヤマリンドウが既に花をつけていた。



時折晴れ間の見えた空は、予報通り正午に雷が聞こえ突然降雨になった。今年、東北は冷夏で仙台では観測史上初めて36日間連続で雨が降った。このままでは、日照時間が少ないままに夏は終わってしまう。



アサギマダラは渡り蝶として有名で、2006年8月、蔵王スキー場でマーキングしたアサギマダラが11月に2,200km離れた与那国島で見つかった記録がある。これからこの弱々しい蝶が同じ沖縄に向かうのかと思うと感動すら覚える。





 飛んで沖縄。数日間30℃を超える晴天日が続き、弱い通り雨はあるが、何よりも紫外線が痛く肌に刺すように強い。夜の最低気温は27℃以上、湿度60%を超える熱帯夜が続いている。
目の前の海岸は川にも近く、海水は暖かいと感じたことはなかったが、海に入るとかなり暖かく、3m潜っても水層の変化は感じられない。縦に伸びる岩礁にはサンゴが張り付いているが、2か月前に比べかなり白化が進んでいる。



コモンサンゴ、エダミドリイシ類だけでなく、ソフトコーラル類は減ってしまい、イソギンチャクの住処のないクマノミがサンゴの間をさまよう姿は寂しい。



アクアリウムビジネスでは近年ポリープが揺らぐソフトコーラルの人気が高まり、amazonでも簡単に買えるほど一般的になり、盗掘されたのかもしれない。外国人観光客が増え、折られるようになったと嘆くご婦人がいたが、彼らにはこの浜のいきさつを教えると理解してくれる。




 沖縄近海の水温は、30℃以上の日が続いている。沖縄以南の太平洋上の水温の高い海水域が広範囲に及んでおり、8月の雨量も例年の30%以下で、台風は沖縄を避けるように15号までは上陸していない。このままでは海の資源だけでなく、農産物の生産にも影響が出てしまう。


  気象庁:日本近海の海水温8月31日

雨が多く涼しい東、北日本、晴れが多く暑い西、南日本。この2極構造は際立っているが、どちらも都市と山間部の間に不安定な大気の流れが起き集中豪雨の被害をもたらしている。
気候変動が常態化すると、以前は降雨量50mm以上なんて、一部の設計者や管理者しか知らない知識も、一般的にニュースで流れる時代になった。
アサギマダラがやってくる秋には、台風は上陸しているだろうか。  


Posted by Katzu at 15:43Comments(0)地球環境

2017年08月09日

富士山を体感する

 日本人の好きなものは、桜、富士山、和食と言われるが、海外での日本のイメージは相変わらず、桜、富士山、侍、芸者、ハイテク、アニメとなる。いまだ富士山を知らず、海外の人にも説明できないので、海から歩いてすべてを体感することにした。



自然・社会環境
 富士山は成層火山で、ユーラシアプレート、北米プレートに接するフォッサマグナにフィリピンプレートが接する三重会合点に当たる。
8万年前の噴火から幾度も噴火を続け、溶岩流と山体崩壊により裾野が形成されてきた。



地震や津波の危険度が高い地域であり、駿河湾沿いの吉原宿は二度の津波で壊滅的な被害を受けた。現在も東海地震の発生が危惧されており、田子の浦港近くに避難タワーが建っていた。



たび重なる噴火活動は地下空洞を作り伏流水となり、駿河湾の良港に多くの繊維産業、製紙工業を生む要因となった。



津波避難タワーから富士の裾野を概観すると、戦後復興は富士山と駿河湾の自然条件が与えてくれたものと理解できる。しかし、その代償は高度成長時代に駿河湾のヘドロ化という公害を生む結果になる。



 富士市は東西の鉄道軸に対し海沿い集落から放射状に広がったため、市内の道路軸は旧態依然として自然渋滞が各所で起きていた。
市内を5kmほど北に行くと、扇状地は勾配を増していく。富士川が急流であるのは富士山の形成と大きく関わっている。標高300mを越えると宿場町以外の集落はほとんど姿を消し、観光以外はお茶や林業が主産業となる。


      6合目より愛鷹山、水ヶ塚駐車場 

 富士山の前山のように鎮座する愛鷹山は、富士山の造山活動により生まれたものでなく、富士山より古い存在感のある山である。
このため東名高速道路は南に大きく迂回する形となり、御殿場に続く国道469号はそのバイパスとなっている。さらに廃棄物処理業、林業などの大型車の割合が高い産業道路でもあり、産業の振興が従来の修験の道を様々な意味で分断してしまった。


       富士山3776ルート縦断図より

 富士山のリゾート開発は、2合目から3合目にかけての標高1000m付近で行われた。リゾート法の成立も後押しし、バブル時代の置きみやげでもあり、静かな高原の雰囲気を残している。現在は朽ちた建物も散在し、別荘の中古物件は1千万円程度からある。



周囲はスギ、ヒノキ、コナラの2次林の他ブナの原生林も残り、ニホンシカが路傍に見られた。近年はクマの目撃情報も多い。
有料キャンプ場はアウトドアブーム全盛期をすぎても、居住スペースを移しただけのオートキャンプが人気で、芝生から見る富士が雄大だと感じる以外に富士の魅力を伝えることができたらさらに良いと感じる。



 3合目の水ケ塚からは、良く整備された自然歩道のある樹林となり、ウラジロモミ、コメツガ、カラマツの針葉樹林帯となる。湿気が多く苔の生えるミドリの世界で、木漏れ日の多い下草地にはキノコが多く生えている。標高が高いわりには比較的樹高が高く深い森である。



富士山にはハイマツの低木帯がなく、5合目を過ぎると一気に火山荒原植生となる。


      6合目より頂上を望む

富士山は登り口が4か所あり、いずれも5合目まで自動車で登ることができる。特に富士宮ルートは標高2300mまで道路が建設された。高山病の影響が現れ始めるのが標高2400mと言われることと、気候が変わる植生限界が道路を維持管理できる限界点でもあるためである。



富士山の登山としての魅力が少ないのは、高山植物がほとんどないせいでもある。砂利混じりの河川に適合するイタドリやオンタデが花を咲かせる程度であった。標高3000mを越えるとほとんど岩と砂と雪の世界になる。


      9合目付近

歴史・文化環境
 富士山は山岳信仰の対象とされてきた。浅間大神を祭る浅間信仰とも呼ばれ、富士宮市の富士山本宮浅間大社が総本宮となっている。なぜ浅間なのか、今の浅間山との関係はなどと考えるとまぎらわしいが、もともと大きな火山をあさまと呼び、あの阿蘇山も同じ呼称であったという。


        影富士

富士山という呼称は、現在の基本的な山容が形成された貞観大噴火の起きた平安時代と推定される。
浅間神社は富士山周囲に多く、各登山口には各浅間神社が置かれている。



さらに集落から富士を日常的に拝む下方五社があり、富士市の富知六所浅間神社は浅間大社の別表神社である。コースの都合上こちらを参拝したが、道すがら日吉浅間神社、今宮浅間神社があった。




富士山の各合目には古い石垣で築かれた山小屋があり、古い鳥居は壊れても今なお信仰の対象となったものもある。




十合目には浅間大社奥宮の鳥居が待ち受けている。70歳以上は記念の扇子がもらえ、挙式を挙げるカップルもいる。



火口を回るお鉢巡りは不浄な左を見せないチベット仏教と同じく時計回りが基本とされるが、登山としては強風、濃霧の時は危険なので控えるべきだろう。


 富士山に詣で入る参道は村山口、大宮口、須走り口、須山口とあるが、地元では古道再編を行っている。富士市のルート3776はその一環であり、ルート上にはのぼりがあり現道を辿ったものでわかりやすい。



しかし、古道はようやく村山口が紹介されたにすぎない。須山口は世界遺産にも登録されているが、もともと宝永山の噴火ですたれてしまい、辿るのは容易ではない。現在は有志によりルートファインディングが行われているが、現道との交差も多く、従来の地図にないため道に迷うこともあり、整備されるべきだろう。




 富士山が日本の象徴たる由縁は、富士山を生業とする人の数が多いことである。富士の恵みは戦後の工業、農業、観光を支えてきたことも確かである。一方、富士山の中山間地開発が本来の山の魅力、信仰の道筋をうばってしまったことが世界文化遺産の登録で、際立ってきた。



 富士を望む都には、本山に参拝するかわりに多くの富士塚がある。下山してから品川神社の富士塚に無事参拝の報告に行った。板垣退助の墓所としても有名で、富士山をイメージさせる築山は都心にあって不思議な空間であった。ここからの富士山は望むべくもないが、富士への思いと憧れは遠く東京からも思い知ることができた。



  


Posted by Katzu at 18:21Comments(0)山の環境

2017年07月14日

再生される海と失われる海

名護市の西海岸線を歩いていくと、コンクリート護岸と砂浜の入れ替わる箇所に出会う。片や港湾施設の高潮対策で作られた5mの高さの防波堤施設で、片や多自然型の人工海浜でコンクリートの防波堤はなく、宅地までは3mほどの高さしかない。



漁港の海岸保全区域として事業認可された違いはあるが、同じ住宅地に接し堤内地を守るという同じ目的を持ちながら、両者の設計思想の違いには大きな隔たりがある。



日本の公共構造物は、その時代時代で節操なく構造基準が変わる。特に近年の災害が多発する自然環境と、政権が交代する毎にインフラ整備の方針までが変わるためである。



 この城海岸は、戦前よりイルカ漁が盛んであったが、沖縄返還後、海洋サミットを前に海外からも批判をうけていた。その頃から護岸事業が始まり、浜は消波ブロックとコンクリート護岸で整備されて行った。港湾の高潮事業が完成したのが10年前であった。
その後、第一次安倍政権の時に『美しい日本』というあいまいな方針のもと、建設省や業界もこれに応えるべく多自然型の構造物が氾濫した。デザイン的に貧弱で自然になじまない白いガードレールは、茶色を基準とする旨の通達が出され、あるメーカーは製造ラインをすべて茶色にした。しかし、それは目立たないことにより安全性が失われるという、基本を忘れた本末転倒の設計方針でもあった。



コンクリートに対する焦燥感や自然回帰の意識は設計者も同じで、折りしもバブル期でグレードアップされた二次製品、自然素材を多投した。この多自然型の海浜公園が完成されたのが5年ほど前で、その時代差が港湾設計の大きな違いとなっている。
震災後はこの設計基準もまた変わり、現在では津波を考慮した防潮堤が検討されるであろう。



 この5年間、人工海浜公園の自然回復に大きな興味を持って見つめてきた。当初は台風が来るたびに砂が道路だけでなくマンションのベランダまで堆積した。設計者の意図とは裏腹に海岸線も後退し、砂浜は狭くなり水深が深くなり元の岩盤が露出し始めた。
一方、植物はグンバイヒルガオなどの海浜植物が繁茂し始め、クワデーサー、タコノキなども根付き留鳥も住み始めた。




潜堤は流砂防止となり波の弱いリーフを造った。ブロックにはサンゴが付き始め漁礁となり、小魚は護岸で守られた砂浜付近の元の岩礁に住み始め、小さなサンゴ礁となって再生した。



コンビニやファーストフードの店の裏に、クマノミの根がたくさんあることを知る人も少なく、このまま静かに見守りたいが、白化現象が進む近海にあってこの生命の再生する力の強さに驚いている。



ここは海水浴場ではないので泳ぐのも溺れるのも自己責任だが、週末は外国人を中心ににぎわい始めている。
手を加えすぎても、成果を急ぎすぎてもいけないのが海岸整備の難しさである。




 一方で、名護市には失われようとしている海がある。反対側の東海岸線は集落も少なく、地形も複雑で所々に砂浜が点在する。
図らずもウミガメやジュゴンが確認されたのは住民の入れない辺野古の浜で、ジュゴンが発見される前からウミガメの産卵が確認され、海浜での米軍の訓練を自粛する要請を行っていた。



今ここにフロートが設置され護岸工事が始まった姿を見ていると、同業者のアセスメントの間違いを指摘するまでもなく、2,100万㎥もの土砂を海に投棄する行為自体、大浦湾とここに運ばれる山は元には戻らないという事実に茫然自失となる。周辺環境の悪化だけでなく、人工島や干拓地自体、地震や津波にいかに脆弱かは、阪神淡路大震災や東日本大震災ですでに証明されている。他の海上空港との違いは、地元に利益を還元する交通施設ではなく、戦争になれば先に標的になる軍の施設である点である。沖縄戦で米軍が上陸した読谷飛行場、伊江島飛行場は真っ先に狙われ激戦地となったことを、地元の年寄り達は経験的に知っている。



環境や街づくりに関わった者なら故国のこの現状を悲しみ、学校で環境教育を受けた親達は国を守るという方便以外に子に伝える術がない。5年以上続くこの建設は明らかなまちがいで、いらないもの、とりのぞくものとして、工事が続く限り認識され続けることになるだろう。



  
タグ :海の環境


Posted by Katzu at 18:09Comments(0)海の環境

2017年06月30日

自転車の街へ



 先月、名護市と今治市は、『自転車を通じたまちづくり交流協定』の締結を行った。今治市はすでに街を挙げて自転車の街に取り組み、自転車専用道のあるしまなみ海道は、サイクリストの聖地となっている。



名護市は28年に渡るツールドおきなわの歴史のある街で、市民レースの最高峰レースとして国内外に知れ渡っている。市民の認知度も当然高く、市街地でも交通規制のある大会は、年中行事として市民の協力の基に開催される。



郊外には羽地内海の島々、太平洋と東シナ海の海岸線、やんばるの森を抜ける変化のある魅力的なコースが多い。台風と北風の強い日を除けば、1年中走行可能で、国内では最も自転車の街にふさわしい都市であるかもしれない。




 過去に行った自転車の街や自転車道の計画を振り返ると、残念ながら絵に書いた餅であったり、一部整備されても維持できずに消えていった例が多い。その理由は、事業展開の遅さや継続性、理解度の不備から利用者の低迷に至るものだが、とりわけ日本の交通慣習である二輪車としての位置づけのあいまいさに因るところが大きい。



アメリカ型の車社会の歴史のある沖縄では、なおさら自転車の位置づけは低い。本国の自転車の認知は、ほんの十年前の健康バイクブームに始まったにすぎない。


季節と気候という自然環境の影響も大きい。夏は快適な自転車環境でも、雪国では冬は利用困難になる。一年を通じ温暖な沖縄でも、冬は北風で乗れない日が続く。




平地で渋滞の発生する都市では自転車は有効な交通手段であるが、マナー無視の利用者側の問題も大きい。沖縄の自転車利用率は全国に比べ低い。数年前まではロードバイクの認知度も低く、クラクションを鳴らされることもあったが、バスのクラクションに驚き幼児が引かれた事故以降、最近はなくなった。






市内の幹線道路に自転車の路側マーキングが増えた。道路構造令を語るより、視覚的に二輪車が走行できる安心感がある。もう一歩踏み込んで、ネットワーク化することと利用者が増えることが求められる。
 
道路を計画、設計、供給する立場の者は車椅子と自転車で街に出ることを勧める。危険個所の発見だけでなく、子供の視点やロードバイクのスピード感を知れば、交通弱者も強者もないノーマライゼーションの大切さに気が付く。




 サイクリストの立場で街を走ると、街路の危険個所やマニュアルの矛盾点が見えてくる。例えば、新しく国道のデッドスペースに設置された一方通行の自転車専用レーンは、安全で快適であるが、交差点間隔が長いため逆走車も現れる。歩車道境界ブロックは2cmの段差でもリム打ちパンクの原因になり、出入り口の5cmの段差は転倒の危険性がある。するとロードバイクは依然と車道を走ってしまう。




交差点は用地確保の関係で路側帯を狭くする設計が多く、二輪車にとっては危険である。諸外国では二輪車の停止線を車の前方に置くが、50cm以下の路肩では車の前に出れず、後ろから巻き込みの危険を感じつつ車両の通過を待つか、降りて歩行者となるしかない。




自転車レーンに駐車する車の追い越しは最も気を遣い、上の例では先の交差点の視認性に欠け、車が増えれば巻き込みの危険がある。オランダでは、反則切符はおろか、すぐに逮捕されてしまう。





那覇に比べ田舎の子供たちは自転車に乗っている。
なぜ目立たないのだろう。
彼らは歩道だけでなく、細い道を通っているからである。
子供の通る道を一緒に行くと、街中には幹線道路以外に安全な街路があることに気付いた。本来は街の歩行者ネットワーク計画を作るべきであるが、有る無しに係わらず、安全な道が認知されるべきなのである。




地図にマーキングしながら郊外を走っていくと、『ちゅらまーい』というマークを発見した。これはもっと知られるべきサイクリングルートと思ったが、新しく始まったレンタル小型電気自動車の推奨ルートだった。通過交通のない農道は、鼻歌交じりのポタリングにはもってこいなのである。



これからの交通の将来は、車の自動運転だけでなく、セグウェイ、観光カート、人力車、キックボード、トゥクトゥクなど多種多様な交通機関と連携しながら、生活道路レベルのサービスを認識することにある。



最近、市内には新しいサイクルショップや駐車場にサイクルラックを設置する店舗も増え、外来者も利用するようになったが、それを継続するのは、地元の生活者が一時の興味だけでなく生活の術にすることだろう。




  


Posted by Katzu at 18:15Comments(0)まちづくり

2017年06月18日

島にゆがふを運ぶ鳥



 沖縄本島固有の鳥は多く、特に天然記念物のヤンバルクイナ、ノグチゲラ、ホントウアカヒゲなどが有名で幾度となく山に観察に出かけた。これらはその地を住処とする留鳥であるが、住居の周囲にもそれ以外の見慣れない鳥が多く生息することに気付いた。それは渡り鳥であったり、本土にいる鳥と微妙に異なる亜種だったりする。



森に入ると、すぐにヒヨドリ、シジュウカラ、ウグイスの順に聞こえてくるが、これも本土のものとも鳴き方が少し違う気がする。
海に行くと、イソヒヨドリをよく見かけるが、困り者の本土のヒヨドリとは全く異なり、小型のツグミ科である。



 朝は波の音で起こされるより、鳥の声で起こされる方が幸運である。鳥の声は天気も安定しすでにエサ取りか巣作りの活動に入っている証拠であり、波の音は低気圧が近づいてうねりがあるか、天気が悪く波が高いかのいずれかである。車の音で起きた時はすでに寝坊している。
美しい声は画眉鳥かだれかが飼っているものと思っていたが、それは南西諸島限定のシロガシワと言う鳥で公園の木を根城にしていた。



連休頃から、キュルルルーという声が加わった。アカショービンであった。家の周辺を捜したが街の中にその姿は確認できず、オリオンビール工場の上の沢から聞こえてくるようであった。



名護という街は極めて魅力的な都市で、山と海が近く、ビールや泡盛の醸造ができるほど沢の水も豊富なのである。



アカショービンは名護城公園のシンボルであるかのように、この時期はいつも沢沿いから聞こえてくる。近づくとそれらしき影の動きはあるが、いまだにじっくりその赤い姿を確認したことがない。



500mくらいの縄張りがあるらしく、いつも同じスポットにいるが、赤く目立つ姿は外敵の恰好の標的になるはずなので、余計に警戒心が強いのかもしれない。


カラスは人間同様に鳥からも嫌われる。沖縄のカラスは街中よりも山中で見かけるが、虫や爬虫類、鳥の雛を食すためである。




 先月のバードウィーク、野鳥の会の観察会に同行した。専門の方は鳥の種類だけでなく、見るポイントや時期、天候など周りの自然を含め感心すべきこと、学ぶべきことが多かった。いつも通り過ぎる大浦湾の汽水域から谷筋、羽地の田園にもバンやヨシゴイなどの陸鳥、カワセミなどがいることを知った。
ベニアジサシを探すために屋我地島から古宇利島に向かった。



周回道路から300mほど先の枯れ木に、大型の鳥が一羽木にとまっていた。コウノトリであった。国内では豊岡市が有名で街づくりや観光のシンボルとなっている。

     国内のコウノトリ分布

 1月に初めて沖縄で観測され、その後もとどまっている。大陸から渡ってきたものと思われ、もう一羽来るのをずっと待っているという話であった。この孤高の一羽のことが気になり、毎週末にロードバイクで出かけるようになった。



古宇利島は恋の島というキャッチコピーで、ハートロックには海外からも多くのカップルが訪れる。赤ん坊を運ぶコウノトリのイメージが話題となり観光にも一役買うことになろうが、一方SNSで発信され人が集まれば逃げてしまうことを危惧している。
幸か不幸か、もう3週間姿を見ていないので書き留めておくことにした。



 渡り鳥のセグロアジサシが増え始めた。屋我地スコウジョウ(かってに命名)から見える松島には、白い姿が見えたが人の帽子だった。
環境省は屋我地島周辺の営巣地の島には近づかないように指導しているが、釣り人は後を絶たない。



アジサシは営巣地を毎年変えるという。昨年営巣していたこの島には今年はいなく、そのことを知ってか知らずか、子供たちが磯遊びしていた。




今年は釣り人が登れない、大橋からも見えるノッチの岩礁に巣作りをしている。



先週から名護港にも、セグロアジサシが2つがい飛ぶようになった。水面すれすれを滑空する流線型の姿は、最も美しい鳥の飛型であり、突然ホバリングしながら水に飛び込み小魚を捕る様は、ゴール前でパスを受けたストライカーを思わせる。




沖縄の渡り鳥は季節の変化を告げ、島にゆがふ(幸福)を運んでくる渡来人のイメージにも重なる。
今朝、古宇利島を走っていると背後から1m以上の大型の白い鳥が、音もなく追い抜いて行った。


  
タグ :里山の環境


Posted by Katzu at 23:15Comments(0)里山の環境

2017年06月10日

森のエメラルド

 雨の後には白い花が咲く。
そう思うようになったのは、沖縄の梅雨の頃に咲くのは白い花が多いせいであろう。どんな理由の生物学的な色彩遺伝かどうかは知らない。米軍の上陸前に咲いた白百合の花は、白梅・ひめゆり学徒隊のイメージにも重なり、戦後に多くが移植されたものと勘違いしていた。
多くの白百合は自生しており、嘉津宇岳の山頂にも咲いていた。




やんばるの森を埋めつくしたイジュの白い花は、梅雨入りとともに落花しはじめたが、陽の光を浴び白いコンロンカのガクが開いた。






ゲットウの花は、白い実のような花から、徐々に黄色い動物のような顔をのぞかせ始める。




 梅雨の沖縄が良いのは、連休が終わり観光客が少ないせいもあるが、風雨が毎日続くわけではなく、その合間の晴天が適度に清涼で心地良いためである。



名護岳の渓谷に入ると、すでに忙しく動き出したのは一部の巣作りの鳥たちと、夏の暑さが来る前に雨を浴び大きくなり始めた両生類、軟体動物たちである。水たまりにはオタマジャクシが、木には陸貝やナメクジが観察できる。



沖縄には侵略的要注意外来生物であるアフリカマイマイが繁殖している。肺臓ジストマの中間宿主で触るのもいけないという人もいる。沖縄では戦後の飢餓の時代に食用として移入されたため、食べることに抵抗のない人もいる。東北でも同様に最近までタニシを食す人がいたが、肺臓ジストマの病気にかかったという話は聞いたことがない。
沖縄にはナメクジはもとより、海や川に住む様な形の貝が木に貼りついた、いわゆる陸貝も多く興味を注がれる。




カタツムリは本土と異なる種類が多い。なかでもアオミオカタニシは、眼が胴体にあり別に触覚が伸びるカタツムリの原型といわれ、準絶滅危惧種に指定されている。数年来、一度は自然の中で目にしたいと探し、ヒアリングしていたが、『その辺にいるはずよ。』から『最近見ないねえ。』に変わってきていた。アオミオカタニシは『森のエメラルド』とも言われ、その愛らしい姿が人気となり虫ハンターの採取対象になっていることは容易に推測できた。もう探すことをあきらめかけていたが、先週ついにご対面することができた。



霧雨の降りはじめた山道のわきの木に、オキナワキセルガイとヤンバルマイマイが仲良く張り付いていた。さらに目を横に移すとエメラルド色の小さな貝を発見した。ほんの5mmほどで手に取ると閉じてしまいカタツムリらしい目は待っても出なかった。



元に戻してあげたが、大きくなって再び目にする機会はあるのだろうかと不安になる。
アカショービンの鳴き声が響き、先の道をマングースが横切って行った。




 広義の生物ホットスポットとは別に、『やんばるの森の生態スポット』と自分かってに呼んでいる場所がいくつかある。専門の人は、植物は植物、虫は虫、鳥は鳥、とそれぞれ探していくが、なぜかその場所が不思議に重なってしまう。トータル的に環境を見ていくと、生物連鎖の法則は一つの街が計画的に形成されていくかのように進んでいく。
家の近くでアオミオカタニシをよく見るというハルサーからの情報もある。貴重鳥類の市街地への移動の傾向と同じで、やんばるの森の中では今何かが起きている。
昨年から北部やんばるの林道では、車の夜間乗り入れが禁止された。やんばるの世界遺産の登録は進むであろうが、人間と生物の住み分けがさらに難しくなるだろう。



今朝、森に行くとサンシャワーが暑いくらいにまぶしく、カタツムリは姿を消していた。
街に紅いホウオウボクが開花し入道雲が立ち上がった。
白い花が紅い花に変わり、台風が発生すれば梅雨は開け、間もなく沖縄は夏になる。


  


Posted by Katzu at 18:49Comments(0)里山の環境

2017年05月29日

インバウンドからアウトバウンドへ

 沖縄を訪れる観光客はまもなく年間1,000万人に達し、数字上は海南島、ハワイに並ぶ世界的な海洋リゾート地になることが確実視されている。特に海外からの観光客が増え、沖縄の日常生活の中にも、中国語もしくは英語の会話が聞こえてこない日は少ない。観光地ではすでに大半が外国人だから当然ではあるが、ここ数年来マンションや街角やスーパーでも聞こえてくる。
当初は違和感があったが、グローバル化が進んだ東南アジアの他の大都市と比べれば、むしろこれが当たり前である気がしてくる。



 先日、関西で観光ボランティアを兼ねるTさんと備瀬のワルミバンタに出かけた。海を割くモーゼの十戒を思わせるようなこの景観ポイントは、半年前まで知らなかった。それもそのはず、狭い道路奥の集落の御嶽であったのだが、いつの間にかGoogleMapにも載っていて観光客が訪れ始めていた。昨年、自転車で探して立ち寄ってみたが徐々に観光客が増え、今回は5台ほどの駐車場は満杯でピストン送迎するほどの賑わいだった。
彼は外国人グループに次々に声をかけていった。半分くらいは中国人・台湾人・タイ人で、彼らはSNSでここを知ったらしくパワーストーンと言われる石に手をかざしていた。



確かに中華系の人は風水や運気を重んじる人が多く、団体のツアーガイドがこの類のストーリーを作るケースはよくあったが、今は個人旅行が増えSNSで旅情報は拡散されていく。撮影するポジションを教えてあげると歓声を上げ、日本人を含め順番待ちするほどになった。
彼らは少なくとも日本に興味を持って、好き好んで来ているのだから、これからリピーターになるように話を聞いてあげている、と言う彼の姿勢は正しい。



現在、日本に来ている中国人は、上から10%の所得層を対象にその10%の約1,000万人が来ている程度なので、統計学上はこれから100倍のインバウンド効果があるという計算になる。
しかし、海外で観光客同士が一緒に盛り上げる姿に接するうち、このまま国内で海外観光客が増えても打ち解けられず、何か殺伐とした営利関係だけが進んで行っていいのだろうか。閉塞的な日本の慣習、日中関係、日韓関係、テロ等準備罪の施行がそれを邪魔することも確かだが、いびつな一方通行には違和感を感じる。



 インバウンドが浸透しないのは、アウトバウンドの経験不足によるものである。
最近、アジアの若者達に接して感じるのは、かつての優越感どころかその態度と国際感覚に驚いてしまう。年寄りばかりの日本は間もなくおいて行かれるというのは本心で、危機感さえ感じている。だから『ウェルカムでインバウンド』だけでは片手間で、『相手を知るためのアウトバウンド』が必要なのである。



 日本人の海外への旅行者数は年間1,600万人で、20年前からあまり変わらない。その内容は、個人旅行が増えたとはいえ、依然として日本人向けパッケージツアーが多く、業者がトラブルを避けるためにローカルに接する機会も少ない。これからは団塊世代の個人型旅行の需要が拡大し、アウトバウンド効果が予想できるが、むしろ重要なのは若者の方で、外的志向が助長されなければ、ますますアジアからも置いて行かれるのは大人以上に深刻だ。




 沖縄にいると次の時代のアジアの姿がおぼろげに見えてくる。
昨日、古宇利大橋の上で、のんびり歩くカップルがいた。珍しく英語の通じない韓国の若者で、代わりに『ガンバレ』と言って送り出してくれた。海外で出会った韓国人の多くは高学歴で英語が堪能だったが、日本以上に学歴社会の韓国では大多数の若者は生活が厳しく、近くの南の沖縄にハネムーンに来たという構図が浮かんでくる。

  


Posted by Katzu at 22:04Comments(0)ビジネス環境

2017年05月15日

雪国のサクラデザイン



3月13日、名護に戻るとまだサクラは咲いていた。
ヒカンザクラの開花は、実に2か月続いたことになる。



2日後、山形ではまだ真冬に咲くユキヤナギの花が川原に咲いていた。
雪国の桜は雪が消えると、待ちわびるように一気に開花し、約2週間で開花期間は終わる。10年ぶりに開花から散花までをすごした、郷里の馬見ヶ崎川のサクラデザインを振り返る。



4月10日、朝、窓から見える川原のサクラは一気に開花して、冬ごもりは終わった。



春一番を告げるイヌノフグリの花もサクラに合わせると美しい。



春一番のツクシも同じく春らしいデザインである。



シバザクラとソメイヨシノの組み合わせもいいが違和感を覚える。


 何となくこれらの風景は春らしいと感じるかもしれない。しかし、通常はイヌノフグリ⇒ツクシ⇒ソメイヨシノ⇒シバザクラの順に開花(土筆は胞子蒔き)するので、今までは同時に開花するという印象はなかった。今年は冬の平均気温が高く、春の寒気の到来が一気に開花を促した結果であり、これも地球環境の変化がもたらしたものである。



1km続く満開のサクラのトンネルは、早朝を除き自然渋滞が発生する。




歩道のサクラのトンネルは更に見事である。建築限界の車道側を伐採した結果、川側に枝が垂れ下がる。しかし、根が張り路面は凹凸し、夜に走るのは危険である。さらに観光としてのデザインを考慮すれば、ガードパイプが残念である。安全な法面の上でさえガードパイプを設置するのは、日本の管理行政の最も醜い例である。
桜の寿命、道路河川の維持管理はもうこれが限界で、その最後の輝きを見ているという感慨に至る。



実はとうに寿命を迎えた下流側の古木にも味がある。
ソメイヨシノの寿命は50年程度で、下流の昭和初期に植樹されたソメイヨシノは既に寿命で、徐々に上流に植樹されていった結果、現在勢いのあるサクラは60年代に植樹されたもので、サクラの隆盛は年々上流に移動している。



宴会場を設けなくても、カモの流れる河岸には自然に花見客が集まる。



幼少の頃は川原を歩けば必ず知り合いに会い、夏休みは毎朝ラジオ体操に出かけたものだ。年齢層もインフラの形もすっかり変わったが、変わらないものがある。

サクラデザインの美しさは、サクラ単体のみならず借景で決まる。



対岸のプールわきの公園にはヒガン桜が混じっており、里山の借景を意識した設計者の意図が感じられる。昔はこれによく似た山桜が自生していたが、ソメイヨシノ全盛の現在はむしろ作為的なものを感じてしまう。




福島の花見山が最も日本の里山らしい風景と感じたと同様に、山形のサクラが最も雪国らしい風景と感じるのは、川、サクラ、雪山の3点がセットになっているからである。


サクラの花はつとめて、横から光が差し込む頃に映える。



     西の朝日連峰



      北西の月山



       北の葉山



   東の北蔵王連峰の雁戸山

時を失したが、東の蔵王山系は夕日に映える頃が良い。

四方に名だたる百名山を望めるサクラスポットを意識する地元市民は意外に少なく、むしろ観光のキャッチコピーとしては海外にも十分アピールできるだろう。ソメイヨシノの回廊デザインは、派手で栄華の一瞬を表し人を引き付ける魅力がある。



町内を歩くと、歴史的に松原の地名の語源になった古い松林に咲く近所のサクラが、緑の背景に浮かぶ最も安定したサクラデザインである。


       夜の桜はさらなり

車窓から見る夜桜のトンネルも有名で、開花期は自然渋滞が起きる。
夜店と駐車場がないと家族、若者が集まらないだけで、桜自体の美しさは変わらないはずだが、歩行者は車のライトが夜桜見物の邪魔になる。




市内の夜桜は霞城公園が有名である。
隣県の高田の夜桜は、ライトアートとして海外にも人気がある。


      2016 高田公園

桜の散る姿は、日本人の死生観に訴えるものがあると言われるが、海外ではむしろ楽しむ姿を目にする。サクラが散る姿を見る時間は短かく、今回は車窓から見ただけだった。


夜桜はライトに照らされ、流れ星のように散って行った。



雨がしたたり落ちる満開のサクラから 
4月28日には一気に花びらが落下していた。


       雨うち降りたるつとめて


    サクラの道にはワダチができていた。

  


Posted by Katzu at 20:35Comments(0)環境デザイン

2017年05月03日

非武装中立地帯の街づくり

 都市計画は軍事理論から派生したものだが、戦後の日本では戦争に加担する科学や知識・技術は否定され、有事を見据えた街づくりなど考慮する人すらいない。



北部ベトナムを旅すると、寺院に比して墓地が多いことに気が付いた。ベトナム戦争での死者数は、ベトナム人800万人、うち民間人は450万人、その後の枯葉剤による死者や行方不明者を加えれば、戦争前の人口が4千万人程度なので約20%の国民が亡くなったことになる。太平洋戦争での日本の死者数は310万人で国民の5%が亡くなっていることを考えれば、沖縄戦並みの局地戦が全国で起きたような凄惨な戦争であったといえる。



アメリカ軍による北爆は、223万トンの爆薬と1000機以上の航空機の損失という史上最大の無駄使いであった。ハノイは北爆の目標ではあったが、インフラ破壊が第一で、ソ連の支援による対空防御が強固で米軍の航空機の損失が多かったと言われる。



その爪痕はハノイの軍事歴史博物館で見ることができる。国威発揚とは言え、ベトナム戦争の歴史だけでなく庭には米軍機の残骸がそのまま展示されている。特にベトナム戦争の象徴とも言うべきUH-1ヒューイは、米軍の中心的ヘリコプターで、その多くが撃墜され放棄された。



ラオス国境近くのホーチミンルート沿いには、戦争の痕跡が今も残る。DMZ近くで激戦となった米軍のケサン基地は、撤退当時のヘリや輸送機が残り屋外博物館となっている。



戦闘壕は土嚢だけでなく、内側は鉄板をI型鋼で抑えていた。




 北爆下で人々はどんな集落を作り、生活していたのだろう。
戦時下の村が、フエ北部のかつての非武装中立地帯(DMZ)近くに残されている。ベトナムのDMZ(De Militarized Zone)は北緯17度線のベンハイ川沿いの地帯である。現在DMZと言えば、主に南北朝鮮半島の国境地帯のことを指す。




 ピンモック村は旧国境の17度線の少し北側にある漁村で、敵の上陸と爆撃に備え、村から海岸までトンネルで通じている。そのトンネルの配置は網状というより、人々がすぐに1か所に集まり、四散できるような構造になっている。



地上の移動は塹壕が張り巡らされ、実際歩いてみると、かくれんぼの時のように敵の鬼の動きがよくわかる。



この村は爆撃がある時は地下に潜り、長期生活が可能であった。地上に住家はなく、出産や教育も戦時中は壕の中で行われた。
トンネルの高さは高さ170cm、幅1mほどである。つまり、6フィート以上の太ったGIは通れない。



ここは地下の都市空間でもあり、通路や集会所も含め、地下3階構造になっている。この複雑な地下空間を短期で構築できたのは、粘土層の地質のため柔らかく手掘りできたためである。
同じく地上戦が行われた沖縄でも地下空間を利用した自然のガマがあるが、琉球石灰岩は鋭利で堅く、手掘りでは自由に掘削できない地質であった。



 このDMZの村から学ぶべきことがある。
都市の基本は、防御と避難である。
その意味においてこの村はよくできている。
少なくても、敵が来ても集まれず、逃げる場所もわかない平和日本の街より、システム上は強くできている。



ベトナムの街は、間口が狭く奥に長い、いわゆるウナギの寝床の宅地形状に、1、2階建てのモルタル・レンガ造の家が張り付き、家の間には所々に狭い小路が通っている。背後に田園の広がる農村も同様で、家は狭く違和感をおぼえる。その理由は社会主義的な最低限の統一仕様とも、東からの台風対策のためでもあるが、外敵から身を寄せ守り、裏の農地や防空壕に逃げ込むにはこのシステムが一番強いことに気が付いた。これも戦争から得た知恵かもしれない。




 日本の都市は、戦後の高度成長時代から経済的に大量に土地を生み出すことを目標に、格子状の道路に矩形の宅地を効率よく供給してきた。国や公団のマニュアル通りの計画が間違いだと気付いたのが大震災で、多くの計画屋は外敵(津波)から守り、一堂に安全な場所に避難するという街づくりを怠ってきた。



津波対策にしても、高台移転、宅地のかさ上げ、大防潮堤、国道の高盛り土は、地域によっては必要であるが、津波(敵)が来たら、公園の山(防空壕)に避難するという防御・避難の街づくりを基本にするべきだったと思う。



 街の中心のシンボル公園を中心に扇形に街区を設計したことがあるが、道路は曲線となり街区点が増え、実施に至るまでは多くの説明と理解が必要であった。ヨーロッパの中世都市のように、敵が近づけば城塞で守り、街の中心広場に最短の道で集まり合議し、四散する道を確認できる都市構造は、防御と避難に強い街なのである。



日本でも城を中心とした城下町の街づくりシステムが見直される時代が、いずれ来るかもしれない。

北朝鮮のミサイルが発射されても実感がなく、最も安全であるはずの地下鉄が停止し、メディアに右往左往するだけの今の日本は本当に平和なのか、憲法記念日の今日、想う。




  
タグ :まちづくり


Posted by Katzu at 19:29Comments(0)まちづくり

2017年04月28日

被災者の街づくり

 大震災後7年目の現在、震災避難者数は全国で11万9千人、そのうち福島県は3万7千人にものぼる(復興庁H29.3.13現在)。



福島市の桜の開花は4月10日頃で、県境付近の山々はまだ残雪が多く、ひと足早い宮城県側ではミズバショウが咲いていた時期であった。みちのくの春を待ちわびる桜はどこも情感漂うが、なかでも福島市の花見山は最も美しい日本の春山風景である。




たおやかな稜線の里山には、近景のナノハナ、レンギョウ(黄)から、小川沿いにモクレン(白)、ハナモモ(赤)、サクラ類(ピンク)の織りなす花木畑のグラデーションは見事で、日本昔ばなしの桃源郷を思い起こさせる。




 ここから東にひと山越えた20km先に飯舘村の虎捕山がある。北に流れたセシウム汚染の広がりを受けとめたこの山は、震災後、毎年のように訪れ見てきたが、多くの人が関わった山津見神社の再建には強い祈りの力のようなものを肌で感じていた。



周囲の農地や宅地は除染作業が進み、昨年7月12日に避難指示解除準備区域の指定は既に解除されている。しかし、農民の姿は見えず、山道の途中からは維持管理ができない為かロープが張られ、周辺の線量は1.2μSv/hとまだ高い。除染は汚染土を動かすだけで居住エリアが限定されることは、5年前から専門家が指摘していた。



避難指示区域解除の意味は、当初予定の除染作業のプログラムが完了したと言うだけで、以前の住める環境を取り戻したので住んで良いという意味ではないとすれば、一体これからどんな街づくりを進めればいいというのだろう。



 さらに南東に50km、3月31日に居住制限区域が解除された浪江町、その帰還困難区域に面する地区に、かつて地域の桜の名所として知られた丈六公園がある。



すでに桜の開花の時期にあったが、管理されない公園というのは悲惨なもので、花の勢いだけでなく人が一人もいない物哀しさだけが残る。公園の線量計だけは稼働中で、まだ0.45μSv/hを示していた。



自己責任で帰れと言った前大臣の発言は言うに及ばず、インフラの整わない街に戻れというのは、順序が逆ではないのかと、現場を見た人間なら誰しもが思うはずだ。政治家や取り巻く官僚のレベルがこの程度で、地方の尻尾切りがあからさまな状態では、人を呼び戻し街を再生する方法も、どんな街づくりを進めて良いものかも、正直考えてもわからない。



ただ、それを打開するキーワードになるのは、移民定住策、廃炉リノベーション特区、空家利用と対策、外国人の地域ボランティア、である。
なぜなら、この先の帰還困難区域のゲートは、国内にある国境線だからである。




 陸前高田市は、震災後1か月の間、唯一入れなかった都市であった。市内全域に及ぶ被害の甚大さからボランティアセンターの立上げはおろか、自衛隊による捜索と国道45号をつなぐ工事が長く続いた。



そのため、工事と医療関係者以外は市街地に近付くことさえできなかった。
高盛土した土地にあるセンターのオープンも間近で、街の全貌がようやく見えてきた。



同時に、震災の痕跡を記憶にとどめるインパクトも、新旧構造物の対比と高盛土の意義として同スケールで教えてくれる。



 震災後ボランティア拠点となった旧矢作小学校はニ又復興交流センターとして活動を続け、現在も簡易宿泊所として運営されている。



宿泊は教室を間仕切りし個室として利用し、食堂もゲストハウス形式でおのおの食事ができ、地元スタッフや客同士、震災と復興に関する話を聞くことができる。



もともと陸前高田は海と山の学校区に別れていたが、海側の中学校が津波で流され、現在では廃校の憂き目にあった山側の校舎を利用している。地元の運営している方は、海と山の子が一緒になり、三陸と県外の方も一緒に活動して良いこともあるんですね、としみじみ語った。



宿泊日は遅い積雪があり広い教室はヒンヤリとして、静かで深い夜を過ごすことになった。





 被災者の街は、高台移転による新市街地整備と、既成市街地での区画整理などによる従来事業を選択する事業に大別される。
被災者の生活する住宅については、一時避難のための仮設住宅と災害復興の公営住宅に大別される。



仮設住宅の耐用年数は物理的には20年でも使用可能だが、目的年数は基本2年で、最大7年までに達すると、公営住宅にするか、仮設住宅を再び設置するか選択しなければならない。被災地の多くの仮設住宅はその選択時期を迎え、同時に被災者が選択しなければならない立場に追い込まれている。それを紋切り型に進めていけないのは、被災者に耐用期間はないということで、むしろ10年住めば生存する権利が発生する。




一方、災害復興公営住宅は、市町村が主体となる開発事業の場合が多く、従来の民主的合意形成を前提とする区画整理に比べ早く、開発の先陣を切るケースもある。被災地に即効型の上モノ整備を行うことは自治体の負担は大きいものの、街に灯る最初の灯りが果たす復興の証しは、人の温もりを感じる。




避難民の街づくりは、マニュアル的に決まるものでなく、インフラ整備の優先性、利用者のニーズ、利用する期間が、互いにスケジュール化された中で進行していかなければならない困難さがある。




  
タグ :街づくり


Posted by Katzu at 02:25Comments(0)まちづくり

2017年04月18日

避難民の街づくり

 日本人でつくづく良かったと思う瞬間は、平和を噛みしめた時と入国審査の時である。カンボジア入国の即日ビザ申請は長蛇の列となり出来上がるまで待たされるが、最初に呼ばれたのは、なぜか自分の名前だった。日本人はほとんど事前申請して問題がないためか、外務省の長年の努力の賜物なのかわからないが、少し優越感を感じた。国境であるはずの入国審査では、外国人の中には何度も再提出させられウロウロする人や、別室に連れて行かれる人もかなりの割合でいる。



世界中には入管エリアだけでなく国境を漂う人々がたくさんいる。なかでも国を追われ避難する人々は1040万人、関連するキャンプは128カ国にのぼる(UNHCR・2016)。そのうちシリア難民は500万人、タイには10万人のミャンマー難民がいる。



金正男暗殺事件に揺れた先月、バンコクのドンムーアン空港の入国審査は1時間ほど待たされた。チェンマイで乗り換えたKAN航空はAirline Ratingにもない地方航空会社で不安ではあったが、2時間遅れの出発で渡された軽食になぜか安心した。



 この季節、タイ北部の山域は晴れた日も霞がかかる。光化学スモッグのようでもあるがPM2.5は50μg程度で、隣国昆明の3分の1にすぎない。この霞は、春先の野焼きの煙が主因で工業系煤煙ではないが、大規模火災のみならず空中の二酸化炭素の層は地球環境にも影響を与えている。



30分後、12人乗りのセスナは、山脈越えのエアポケットに驚きながらメーホンソン空港に到着した。




街の中心の湖のほとりにあるワットチョンカムに行くと、聞き覚えのある鐘の音が風に乗って聞こえてくる。ここからミャンマーの鐘の鳴る白いカックー寺院までは、わずか200km、同じ文化圏に入ったと意識させられる。



 市内から北西に約30km、ミャンマー国境近くには人口12,000人のMai Nai Soiの難民キャンプがある。GoogleMapで見ると、乾いた山林地帯の一本道の先に突然稠密な独立住宅集落が現れる。集会所か学校のグランドらしきものもある。



ミャンマーは多数のビルマ族と、西部のロヒンギャ、東部のカレン族・カチン族との間に民族問題をかかえる。もともと山岳少数民族はミャンマー、タイ、中国にまたがる地域に住んでいるために、国境が民族を分断した結果とも言える。カレン族はサルウィン川のダム開発による強制移住と迫害を受け、ミャンマーからタイの山岳地域に逃れてきた。経済発展の名のもとに少数民族の土地がうばわれ、不毛の土地に追いやられる悲劇の構図は、どの大陸でも繰り返されてきた。タイ国内にある9キャンプの中でも最大のメラキャンプには、47,000人の難民が住んでいる。




 難民キャンプは、防御、食糧、医療、教育に関する基本的な生活支援が、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)と海外NGOにより行われている。住宅は難民自ら建てる場合もあるが、その適地は政府の指示に従うことになる。難民キャンプは仮設の位置付けではあるが、UNHCRの計画基準に合わせる必要がある。グロスの計画人口密度は220人/ha(一人当たり45㎡)標準で、最低330人/ha(一人当り30㎡)で、都市の住居地域と比べてもかなり稠密である。



住居は一人当たり3.5㎡を基準としている。
住区計画は16家族を1コミュニティ単位として、16コミュニティを1ブロック基準とし、4ブロック合計5,000人を1セクターに、さらに4セクター合計20,000人を1住区としている。
学校は5,000人に1校、ヘルスセンターは20,000人に1か所としている(UNHCR Emargency Handbook)。
つまり、日本で認知されている近隣住区理論の2倍の居住密度ということになる。




カレン族の難民キャンプは過去にビルマ軍から攻撃を受けたこともあるが、近年の脅威は大火事と土砂災害、水害である。重機もインフラも整わない地でどんなメンテナンスをしているのだろう。



 メ-ホンソンの国連事務所に、立入り許可の為の資料を持って出かける。所長が不在で翌日再び出向くが、予定の通訳兼務のタイ人が来られなくなったこともあり、バンコク事務所でしか受け付けないと一蹴される。最後の頼みだった日本人の所長はすでに退任していた。
替わりに、住居や集落形式は難民キャンプとほぼ同レベルのカレン族の古い集落を教えてもらった。



街の市場で行き方を尋ねるが、関わりたくないのか村自体の存在を知る人も少なく、トゥクトゥクを見つけ交渉する。彼の示す観光リストには目的の集落はあったが、あまり浮かない顔をしている。あとでその理由がわかった。



途中、竹橋で有名なSu Tong Pae Bridgeに寄る。この橋は自然景観の中にある橋としては、竹なので違和感なく自然に溶け込んでいるが、構造的には鉄パイプと波板で支えた新しい橋であった。



1時間ほど走ると、Long Neck Villadgeの古い板看板があった。何度かUNHCRのRVとすれ違うが、やがてトゥクトゥクでは登れない坂に差し掛かる。近くの村の青年に頼んでバイクに乗り換えNai Soiのカレン族集落に向かう。
その途中に難民キャンプの入口がある。ここからはタイ国内の国境でもあり、民間人は特定のNGO以外は入れない。



 赤カレン族に属するパドゥン族は首長族とも呼ばれる。追いやられた痩せた土地は農作物が育たず、現在はミャンマー各観光地や、チェンマイ近郊の民族村に移り住み、特異な意匠を公開しわずかな観光収入で生計を立てている。彼らの処遇に悲哀を感じ、ファインダーを覗いたら、手織りのデザインと技術に見入り尊敬し、ストールを支援購入すべきだろう。



 Nai Soiのカレン族集落はかつて観光村だったが、チェンマイ近郊の観光村に客を奪われ、今は訪れる客もなくひっそりとしていた。竹・木造の独立住宅が街道筋に10戸ほどあり、集落の行き止まりに粗末な学校があった。



タイはバレーとサッカーが人気で、グランドにはバレーネットがあった。難民キャンプの普及活動にも日本の元サッカー選手が一役買っている。遊具もあるが平地が少ないので、学校の隅に置かれていた。



村人は総出で家の梁を補修し屋根を葺いていた。恐らくキャンプ内でも専門の建築屋がいるわけでもなく、自分たちで協力して建てているのだろう。



谷間の村は排水溝もなく、家の背後に河積が残っているだけで、住宅は高床式であることから、雨季には小河川は氾濫し周囲は浸水してしまうだろう。この集落の6km先の難民キャンプの生活は、定住の保障も現金収入もないこれ以下の生活を想像すると、UNHCR やNGOの支援がなければ、娯楽のない食べることに特化した生活が見えてくる。



 タイ、ミャンマーの国境地帯は、先の大戦の亡霊が今も安住の地を求め徘徊している。ミャンマーのシャン州やタイ北部のメ―サロンは、中国の国民党が共産党から逃れ移り住んだ地としても有名である。
カレン解放軍(KNLA)の軍旗の半分は旭日旗である。この地域はインパール作戦の旧日本軍の敗残兵が最後に辿り着いた地でもあり、中には民族独立運動に身を投じた者がいたためと言われる。
難民の悲劇には常に戦争が付きまとう。



  
タグ :まちづくり


Posted by Katzu at 00:10Comments(0)まちづくり

2017年04月05日

ファランがつくるアジアの街



 タイ人は西洋人、特に欧米系白人を総称してファランと呼ぶ。日本では日本人以外は、ひとくくりに外人と呼んでも特に差別意識はないが、このファランという言葉はちょっとニュアンスが違う。ベトナム戦争を含め戦後住みついたアメリカ人の退役軍人がファランだった時代から、現在はバックパッカーやリタイヤ移住組がファランと呼ばれている。



仮にファランに交じり一緒に酒を飲んでいても、タイ人からすればセルビア人やコロンビア人はファランでも、あなたはコンイ-プン(日本人)よ、ということになる。外国人はファランと日本人に分かれ、最近はそこに中国人、韓国人が加わったという。日本は戦後もタイに大きな影響力を持ってきた訳で、良い意味でも悪い意味でも日本人は特別な(変わった?)人種であると認識されている。



 確かに都市のインフラだけでなく、バブル期までのバンコクのパッポン通りやパタヤなど夜のイメージを作ったのは日本人で、そのため後ろめたさもありスクンピッド界隈の日本人社会にも今まで接点がなかった。東南アジアというと、未だにいかがわしいイメージで捉える人は、最近のアジアの発展を知らないだけで、むしろモラルやタブーは宗教感のない日本の方が崩壊している。


 

 東南アジアには、ファランがたむろする街が各地に存在する。
ファランの多くは都市部の長期滞在者だが、魅力ある地方には長期旅行者、バックパッカ―が集まる。人の集まる人気の街は、すたれながらも移動していく。そのスタイルは、昔は長髪ヒッピー、現在はタトゥ―ファッションの若者たちが多い。



彼らの選ぶ街は、自然に囲まれある程度の居住環境が整った小規模の街である。タイは外国人居住に寛大で、多くの企業誘致も積極的で、同じく観光ビジネスも発展してきた。開発の専門家が外国人の居住適地を探す前に、ファランが心地いい宅地を探して住んでいるという解釈もできる。



4年前、チェンマイの内陸環境が日本的でリタイア組の居住地として注目された。しかし今や都市化が進み、大気汚染、車の渋滞、地価の高騰、観光客の増大により、都市部ではのんびり静かな環境を取り戻せそうにない。旧市内に無数に増えたゲストハウスも頭打ちで、ナイトマーケットも以前の雰囲気はない。

彼らは何処に行ったのだろう。



 彼らのトレンドはさらに山道で3時間、北西140kmにあるパーイの集落に移っていた。パーイ川の流れる盆地の中心にあり周囲を山に囲まれミャンマー国境にも接し、シャン族、リス族などの少数民族の割合も高い。観光といえばバイクツーリングとトレッキングと温泉くらいであるが、標高550mの土地はバンコクにはない朝夕の涼しさがある。
大都会を逃れ避暑に行くのはタイ人も同じで、州北部のメ-ホンソンの丘にあるワット プラタートでは雲の上の朝日を見に来たと、バンコクから来た学生が言っていた。




 街の川沿いには竹.木造の洒落たバンガロー型ゲストハウスが連なる。決して高級ではないが、昼は静かで木々の中で田圃が残るアジア的農村風景が裏手に広がる。




その後、増えるゲストに合わせるように、街は飲食店、土産屋が増え、コンビニ、ATM、ツアーデスクが現れ、定期的なナイトマーケットが開催されるようになった。アジア各国のナイトマーケットは、日本全国を回るテキ屋と同じで地域の個性が薄れ、国内観光客はすでに興味を示さない。通りを歩くのはほとんどが外国人観光客であった。




パーイの夜間人口は3万人だが、昼間人口の半分以上は外国人だろう。一方、インバウンド効果で海外観光客が増えるとインフラが必要になり、旧日本軍が造ったパーイ空港を整備し、一時途絶えた定期便が乗り入れするようになった。
ファランが歓迎されるのは経済効果をもたらすためだが、街の自然な発展とは合い入れない側面がある。



 計画的な街と違い、交通インフラと街のルールが整わない場面が多く見られる。河川の整備がなされないまま河岸にゲストハウスが立ち並び、雨期には浸水被害が顕著になった。ファラン達の昼の生活は、癒しの景色と静養に飽きるとレンタバイクで郊外に出るようになる。



彼らはかなりの割合で足に包帯を巻き松葉つえを突く者もいる。道路の陥没や未舗装路での転倒事故が絶えない様子で、集落に大きな病院は1院しかない。街中では夜遅くまでミュージックバーが営業し騒ぐため、規制がないままに静かな集落の相隣環境も一変している。




 ファランの語源は、ベトナムのフランス人(ファランセ)からきたという説もあるが、ベトナムの古都ホイアンもファランが作った街の典型である。世界遺産の街は古都の名の下に、外国人がプロデュ―スした観光地であることは計画する立場からみれば直ぐに見透せた。

その計画手法は

・ 街並みを同じ建物形式・同じ色で統一する。
・ メインの歩行者動線を歩専道にして通過交通を排除する。
・ 歴史的建造物と休憩エリアを同一スポットにして集客する。
・ 古い建物の更新、改築は新しい文化芸術の発信基地となる。



・ ウォーターフロントの開発。
・ ライトアップによる夜の街の演出。



・ 名物と食文化の拾い出し。
・ 教育機関とボランティア活動の連携。
・ 住人と街の統一的なイメージづくり。




この街が自然発生的に出来上がり、長い歴史を経て残され住民が保存したというのは表面上の話で、その背後には西欧の計算的な街づくり手法が取り入れられている。

ホイアンはこの街を訪れその魅力に気付いた観光客のファランと、この街を研究し世界遺産の指定を支援した研究者のファランと、この街を整備しコーディネートしたファランがいて、はじめて、地元の力を突き動かしこの街が出来上がったと見るべきだろう。





   


Posted by Katzu at 22:49Comments(0)まちづくり

2017年03月30日

進むアジアのネット環境

 正月にはじめてスマホを買った。ブログなんてやってる割にはネットに無頓着であった。日本の携帯電話の成長に2年間遅れたこともあるが、高すぎるスマホ代に対する疑問と抵抗でもあった。
通信費を月1万円に抑えるべく徹底的に見直しを行った。その結果、固定電話とAUのキャリアメールは失くすことができず、ルーターは田舎に強いYmobile、スマホはRmobileのSIMフリーの組合せで、定額オーバーはテザリングすることにし、結果3キャリアの電波を使うはめになってしまった。



 3年前、指の大きな黒人には普及しないだろうとタカをくくっていたアメリカでも、貧困層の労働者がバスなかでスマホ賭博をしていた。4年前までは路上電話だったミャンマーでも、スマホは若者に確実に普及していた。色々な国で聞いた話を総合すると、普及の理由は月30ドル程度というのがグローバルな価格であると認識した。1台で1万円を越えるなんて世界中で日本だけが異様に高かった。
昨年、日本のグローバル化を遅らせた要因でもあるSIMロックの縛りもなくなり、格安SIMフリーの時代にようやく突入した。




アジアの観光地では、どこでもだれでもスマホをかざして歩く姿が常態化している。治安の悪い所ではターゲットになるが、それだけアジアの治安とネット環境が整ったためでもある。


 香港では中国本土に比べGoogleが繋がり、WIFI環境も整っているので、今までも不便を感じたことは一度もなかった。

ベトナムでは都市部を中心に4G・LTEが普及しはじめており、田舎でも3Gで途絶えることなく速度も遅いと感じたことはなかった。日本に比べ電波が複雑に込み合っていないせいかもしれない。



キャリアは最大手のViettelが全土を網羅しており、Mobifoneが追随している。ハノイ空港に着きViettelの看板を見つけプリペイドSIMをセットしてもらう。先客がなく、この間5分。SIMカードをコンビニで購入し、自らSNSで番号をもらいAPNをセットしチャ―ジすればさらに安く済むが、ツーリストSIMはスマホの言語を英語にセットして店員に渡すだけなので、ネット音痴でも助かる。

親切この上ないこのブースは、ツアー会社も兼ねていた。というよりツアー会社だった。翌翌日にホアビンかホアル―に行く予定だったがその料金が予定の半額なので、ついでに予約してしまった。店員もホイホイとニコニコ顔になった。



その意味がわかったのは宿に着いてからで、宿のツアーはさらにその半額だった。つまり現地ツアーは日本人ツアー予約の1/4になるということだ。この黄金律は他の国にもあてはまる。
総額にSIM代が含まれていなかった。店員には通話なし10日間2GB程度と告げたが、同社のSIMは30日3GBで10ドル程度なので、ツアー代金込みでサービスしてくれたのかもしれない。




 カンボジアはSMARTとMetfoneがツーリストSIMを提供している。ベトナム同様4G・LTEが提供されており、プノンペン、シェムリアップ市内は問題なく使えた。さすがに40km離れたベンメリア遺跡では3G、トンレサップ湖ではつながらなかった。



シェムリアップ空港で購入するつもりだったが、迎えを待たせるため市内のショップを探した。ナイトマーケットの先のバイクレンタル併設店で5時の閉店間際だった。同じくツーリストSIMをセットしてもらう。1週間2GBくらいと告げると、これしかないと通話付き3.5Gで10ドルだった。
さらに同社には文字通りSIMフリー(ただ)、という3日分のツーリストSIMもある。キャッシュサービスも疑わしくサラリーマンの月収が3万円ほどの国で、このネット環境は数年前の日本と同じレベルと考えると、ものすごく進んでいるように感じた。





 タイではAIS 、DTAC、TrueMoveが3大キャリアと言われる。ドンムーアン空港のTrueMoveのツーリストSIMは7日間3GBで299バーツだった。同程度のものをセブンイレブンで購入し、自分でセットすれば100バーツくらいでできるらしい。



タイの4G・LTEのサービスエリアは、日本同様、ほとんどの都市部を既にカバーしている。前回はマクドナルドでWIFIが繋がらず、約束の時間が近づき泣きそうになったことが懐かしく思えてくる。



この国の面白いところは、平均年齢が若く、オープンにネットライフを楽しんでいることである。そのライフスタイルは宗教においても同じで、中にはタブレット端末を持つ神様もいる。その背後には亡くなったプミポン国王の遺影が飾られているというのに。



東南アジア3カ国を1か月近く、SIMフリースマホと3枚のツーリストSIMを使い、快適なネット環境を確保できた。他人任せの総額20ドルのSIM料金は、海外ローミングや空港でのWIFIルーターレンタルのたった1~2日分に相当する。
ツアー旅行では、空港で各個人がツーリストSIMの設定のために並ばれては、団体旅行が成立しないので、高いWIFIルーターレンタルを勧める流れになっている。



 日本の旅行ビジネス環境に目を向けると、さらに悲しい現状が見えてくる。てるみくらぶの倒産は、ツアー旅行の行きつく先を暗示するもので、リスク管理も含め、旅の予約は自分でするのが基本である。

スマホが今のシステムになったのは、先陣を切ったDoKoMoの責任か、3大キャリアの忖度(そんたく)か陰謀かは知らない。しかし、携帯は自分で機種を選択して、通信量がなくなれば課金して使うのが多くの国の常識で、キャリアの勧めるままに選択の余地なくiPhone7を購入するのは日本だけである。



訪日外国人の目には、スマホデビュー、海外旅行にレンタルルーターを、という広告は奇異に映るだろう。
モノ作り日本のメーカーが、アジアの他のメ―カ―に遅れを取ったのは自明の理なのである。

アジアのネット環境は、若い国の方が経済発展も、変化するスピードも速いと教えられた気がする。


  


Posted by Katzu at 16:48Comments(0)ビジネス環境

2017年03月23日

忘れえぬ街 その9

戦後復興の観光地 :シェムリアップ




 カンボジア内戦が終わってもポルポト軍の残党がまぎれる北部は、地雷が残りまだ戦争の匂いがしていた。子供達の多くは親を失い、笑うことを忘れ無表情であった。10年前、アンコールトムのバイヨンを訪れた時、出口に子供たちが陣取り、抱えた水頭症の赤ちゃんを見せ金をねだってきた。あまりの唐突さに驚き、誰に向かっていいかわからない怒りをおぼえ、その場を立ち去った。後ろからののしる声と小石が飛んできた。子供達は生きるための観光という手段を知り、ようやく喜怒哀楽の怒りの部分を表現するようになってきた時期だった。



 一日歩き疲れ腰に違和感を覚え、宿に帰り相談すると、近所からマッサージ師を呼んでくれた。やってきた女性はあまり慣れてないらしく 徐々に痛みに耐えられなくなり、もういいからと飛び上がると、彼女は手を合わせひた謝りながら、他に何もできないので、と今度は唄を歌い始めた。恐らくそれ以外のサービスを求める日本人男性客がいるのだろう。その人間的な所作と子守歌のような唄にホロりとなった。

働くこと、学ぶこと、奉仕することが人も物もまだ発展途上だった。



 街の北8kmにあるアンコールワットは既に世界の観光地になっていたが、空港と国道と遺跡が結ばれている以外はインフラが未整備だった。
街は汚く異臭がし、マーケット以外は街灯や店も少なく、夜歩きは危険だった。街の魅力は乏しく、郊外の崩れ行く遺跡の持つ焦燥感と夕日の沈み行く無常感の対比が際立って美しかった。



この頃私は宅地の価値を生み出すだけの日本の街づくりに辟易としており、人間が本質的に生活するための街を見直すべきだと思うようになっていた。むしろ、ここで一個の地雷を除去し、一歩の木を植え、一本の水路を引き、一本の道を結ぶ方がよほど、人の為、未来の世の為になるだろうと思考が逆転した思い出の街だった。




当初はこの街の計画にも携わりたいとの思いが強かったが、その後パラオの案件がありこの街に関わることはなかった。しかし、その後都市計画の案件もなくなり、街はどうなっているかずっと気掛かりであった。



 アンコールワットは、ユネスコ始め多くの先進国の機関が遺跡の整備に協力し世界有数の観光地となった。その起点となるシェムリアップは同様に発展していた。シェムリアップ川の東側にあるサクラハウスから市内に向かう道は街灯一つなく夜はこわかったが、今では観光客向けバザールとなり川はライトアップされていた。



オールドマーケットは市場周辺を除けば10年前の面影はなく、まるで欧米の観光地に似せた観光客向けのパブストリートとなっていた。以前は国際電話の使える電気店をマーケット内で探したが、今回はモバイルSIMを求め郊外まで続く商店街を500mほど歩いた。



街は信号制御の必要な車社会に突入していた。
シュムリアップ州の都市部の人口はこの10年間で70%増加し、市の人口は18万人に達していた。表面上は、物乞いも減り市民生活も豊かになったかに見える。一方、アンコールワット遺跡の観光客は毎年10万人単位で増え続け既に400万人を越え、総量は今後も増え続けるだろう。



市内の商店街は中国・韓国など海外資本の商店、海外観光客向けローカルの土産・飲食店が増え、市民の生活感のない観光の街に変わってしまった。ローカルの土産店は、品ぞろえの少ない同じ種類の店が何十店も軒を連ね魅力に乏しく、同じ店へのリピーターは望めそうにない。中国人観光客が大半を占めるアジアの他の観光地も、同様の構造的欠点を持っている。



2月からアンコ―ルワット遺跡群への入場料が2倍近い37ドルになっていた。隣国のバンコクやホーチミンからの交通費と変わらず、隣国からの観光客の伸びは期待できない。それでも世界遺産の観光地はリピーターが増えなくても、他の地域から新たな客が押し寄せて来る。
シェムリアップから北東40kmにあるベンメリア遺跡に、2時間近くトュクトュクに揺られ向った。この遺跡はアンコール遺跡群から離れており、前回は地雷かサソリを踏むからと入場できなかった。



 ベンメリアは『天空の城ラピュタ』の題材になったと噂され、近年日本人観光客が増えたという。ドイツの調査団が長年修復を行っているが、再築をあきらめこのまま保存しようと園内通路を整備している。現在は中国人の観光バスが押し寄せていた。



アンコールワット以前に造り始めた同規模の遺跡で謎も多く、城壁が崩壊した廃墟の姿は口や絵では説明できない憎しみによる破壊力を感じた。この破壊の意味はタプロ―ムを始めとする他のアンコールワットの遺跡のように、時とともに朽ち果て忘れ去られた遺跡でも、アユタヤのように宗教上の破壊でもなく、ポルポト軍が宗教遺跡に係わらず陣地として利用破壊したためであった。




 帰路、運転手は嵐が近付いていると、雷の鳴る暗雲を指差して、集落間の近道を通った。砂埃の舞う未舗装の凸凹道で、昔ながらの農村風景が広がっていた。観光には無縁の農村は地雷がなくなった以外は大きな変化は感じられない。



途中、突然の風雨で大木の下に避難し、市内に戻ると街は浸水で大変な騒ぎになっていた。商店主は路肩の排水溝のゴミを取り除いている最中だった。



乾季にこれだけの豪雨は珍しいが、この短時間のスコールで宅地が浸水するほどの降雨量でもなく、その証拠に河川の水位は低かった。つまり道路の排水が機能していないのである。排水整備計画を行ったJICAの報告では、建物移転を伴う河川の整備が都市災害を軽減させたことになっているが、浸水の原因は地球環境の変化だけでなく、住民の意識向上と都市整備が急激な都市の膨張に追いつかない結果であることは疑う余地がない。



日本をはじめ欧米の各機関は、この遺跡の歴史的価値を住民に教え保存活動を行いながら、自立するための教育・インフラの支援を行ってきた。一方、観光計画だけでなく住民自ら、インバウンドに対応できるように街の美観と衛生の向上に務めるべきだった。
インフラ整備を進め住民のルールを育てる前に、初期投資の少ない目先の観光収入に飛びついた結果がこの街の現在の姿なのである。
住民が遺跡の価値に気付くと同時に、世界遺産の商業的価値を国内外の観光ビジネスが飲み込んでしまった結果とも言える。




 宿泊施設や飲食店、土産屋など観光に従事する労働者はほとんどが10代20代の若者で、すでに外国人客とコミュニケイトできる会話能力を身につけている。
川に目をやるとゴミだらけで夜以外はきれいではなく、その川岸にいる家族の姿は貧富の格差が広がった都市の疲弊を表しているものの、悲壮感のない子供の笑顔が戻ったことがせめてもの救いであった。






  


Posted by Katzu at 23:56Comments(0)忘れえぬ街