沖縄と奄美の境界の島

Katzu

2013年09月03日 23:45

 沖縄と本土を隔てたのは与論島と辺土岬で、1972年の本土復帰以降、
現在も沖縄県と鹿児島県とを隔てている。
奄美は1953年に復帰しており、今年復帰60周年が祝われた。
琉球の範囲は時代により、また解釈により諸説あり、現代の領土問題まで
波及しているが、文化人類学的には北は沖永良部島までとなっている。



 戦後アメリカ政府はそのラインで復帰を決めようとしたが、沖永良部・与論2島の
強い復帰要請に答える形で、現在の鹿児島県が決められた。
この2島は、“奄美世”、“按司世”、“那覇世”、“大和世”と、7年間の“アメリカ世”に分かれ、
複雑な時代背景に翻弄され、沖縄以上にチャンプルーな歴史を刻んだとも言える。

 フェリーで本部港から北上すると、伊江島、伊是名・伊平屋島、
やんばるの安須杜を眺めながら、2時間で与論島に到着する。



与論島の周囲は、本島にはないエメラルド色の透明度の高い海浜である。
人口密度と車の数に反比例するように、海の透明度と色の深みは増す。
さらに2時間で沖永良部島の和泊港に着く。



 島の地形は北と南で大きく異なる。
北側は、平坦な隆起サンゴ礁の地形で、海岸線は浸食された針のような岩場が連続する。
南側は、沖縄南部のように鍾乳洞も多く、標高100m台の丘陵地帯が連なる畑地となっている。



動・植物類は沖縄とあまり変わらないが、人口規模、観光客数や開発度による影響が
少ないため、海の透明度は高く、ウミガメやエビなどの生態系が保たれている。





集落の街区形態は古い琉球と同じく、地形に合わせた円形を基調にしており、
入り組んだ街角には大きなガジュマル、フクギなどがアイストップとなっている。



 墓をみると、その地の歴史や文化が大体想像できる。
琉球時代の世之主の墓は、隆起サンゴ礁の多良間島と同じように、
岩盤をくりぬき、梁を設けた門構えのトゥール墓である。



一般の墓は、石垣は琉球風、墓石は御影石の大和風で、墓地形態は広く矩形、
水壺をそばに置き、十字架も一緒の、和洋琉混合形式であった。



 沖縄民謡には多くの沖永良部の歌があり、民謡の好きな人は身近に思うかもしれない。
しかし、沖縄に居ると、特に沖永良部島は、遠く知らない島のように感じてしまう。

 町の人口は半減し、産業経済が伸び悩み、商店街も疲弊する地方特有の課題が浮かび上がる。
町役場で、町の将来計画に関する話を聞くことができた。



 沖永良部の島づくりは、エラブゆりをテーマにスタートし始めている。
島づくりに必要なものは、若い人材や外部からの視点を必要としつつ、
島民の視点で将来ビジョンを作ることが必要である。

和泊町は、総務省の地域おこし協力隊の補助金に頼ることなく、
まちづくり協力隊という若い人材を公募していた。
町のマスタープランは、通常コンサルに任せることが多いが、和泊町では自前で作成している。



計画の作成を手伝っていた人間が言うのもおかしいが、戦略的なプランを人に頼むより、
はっきりしたテーマで、背伸びしない事業目標を、官民が理解する方向で進むことが望ましい。
多くの地域の課題を抱えつつも、このハンドメイドな島づくりが注目されている。

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