奄美沖縄の離島には、島の歴史をよく知るお婆さんが必ず存在する。
琉球王朝の祭事は女性が司どり、南洋特有の女系社会の慣習が残るためである。
先日5日間滞在したトカラ列島の小宝島は、人口61名、周囲4.7km の
妊婦が寝たような形の小さな島だが、80歳以上の女性が3名いる。
村営フェリーが港に着岸すると、乗客は可移動式の到着ボックスに案内され、
荷揚げ作業が終わるまで中で待たなければならない。
出迎えに来た民宿の方と勘違し人は、島の教頭先生であった。
はしけの作業員と思われた人たちは、区長と学校の先生であった。
小宝島分校は小学生9名、中学生2名で本土からの山海留学生も含まれ、
学校関係者は6名であった。
若い先生達は、なぜかパラオで一緒だった小学校隊員に似ていた。
島の子供と家庭との信頼関係から、島特有の環境になじんでいる様子であった。
小宝島には、隆起サンゴ礁の島には珍しい露天の湯泊温泉がある。
海岸の温泉に浸かっていると、お婆さん、孫、ひ孫の3人が一緒に入ってきた。
このような状況は日本の社会では一生に一度あるかないかであるが、
この島では当然のように毎日行われる。
これが幸せと言わず、何を人生の喜びとすることができようか。
トカラハブのいる島には、畑は少なく牧場がある程度で、漁業従事者が多い。
牛の世話が日課の3食付き民宿のアキ婆さんから、毎食時、島の暮らしを聞くことができた。
息子さんは漁師で、台風が近づいているため、揚陸設備のない小宝島から、
わざわざ4時間かけて奄美大島に避難しているらしい。
島内には10の神社があったが、祭事が多く維持が難しくなり、小宝神社1か所に集約されたという。
各神社のお祭りでは神歌を歌ったが、その中に平家の落人を歌ったものがあり、
平清盛の墓と長老から伝え聞いたものは秘匿されている。
神社裏の海岸は、風葬跡と記載されているが、岩礁のポットホールに遺体を置き、珊瑚で塚を盛り
波風が洗骨し、後で拾い上げるから風葬とも土葬とも違う、民俗学上も興味深い話の内容であった。
滞在4日後、細かい人間関係にまで話が及び、同じ話に飽きてきた頃、
島のほとんどのことが解りかけた。
通常、我々は島の調査をする際に、役所の出先機関か区長にあいさつに行き、
調査の旨を伝えるが、今回はプライベートでもありその必要は全くなかった。
このあと10人ほどから話を聞いたが、在島している世帯数とほぼ同数であった。
最後の夜、夏休み最後の島のバーベキュー・花火・スイカ割り大会があり、
宿のアキ婆さんに呼ばれ参加させてもらった。
話せなかった在島の人から話を聞く機会を得たが、
もう一人の島のミヨ婆さんから貴重な話をたくさん聞くことができた。
沖縄久高島のエラブ海蛇を巡る、小宝島と琉球のノロ同士の関係を初めて聞いた。
息子さんが持ってくる缶ビールを3本ほど飲むほど達者で、話は戦時中の話になった。
特攻機が何度も島の近くを渡っていったが、それも減り、ある日何千というB29の編隊が
島の上空を飛んで行った話しから、パラオに行ったコロールの親戚やその居所、山形市鉄砲町の
小林という特攻隊員が不時着し見送った話、戦時中、神戸の日本郵船で働いた親戚がいることなど、
自分に関わりのある驚くべき内容であった。
神様が、自分のために語り部を送ってくれたかのような思いがした。
今思えば、狭い島社会で変わった旅行者である私のことを、だれかから伝え聞き、
関わりのある話を思い出して用意しくれたのだろう。
この島の魅力は、何もないからではない。
360度に輝く満天の星空を見上げながら、そう思った。
この島は、島の歴史を知るお婆さんと子供たちが結びつき、
芽生えつつある若者のエネルギー、大人の命をつなぐ生業が機能しながら、
きっと最も理想的なコミュニティを実らせる可能性のある唯一の島なのだ。と
小宝島は、小さな島ゆえに過疎化が深刻である。
住民が親戚同様の緊密性ゆえに、誤解と差別化を生じる危険があるが、
同時に、いざとなれば、助ける・守る・協力するという意識が高い。
今後はインフラ整備を進めるだけでなく、島民が自然や文化歴史を理解すると同時に、
若者が島づくりに参加することがカギを握る。
それゆえ、島の歴史を語り継ぐストリーテラーの存在が必要なのである。