まちづくりのスーパースター

Katzu

2013年09月23日 08:28

 都市を計画し創った天才、有名な建築家、政治家は多くいるが、必ずしも成功したとは限らない。
あのガウディでさえ、生きた田園都市づくりは成就できなかった。
むしろ、ミラノでペストが蔓延した反省から、防御と安全性に優れ、
周囲を衛星都市で囲んだ、ダヴィンチの理想都市の考え方の方が説得力があった。
国内では、様々な計画論を配し造られたニュータウンは、
生活志向や産業構造の変化により、その多くはオールドタウン化しつつある。



長い目で見ると、発展し完成した都市というのは皆無である。
なぜなら、オリエントの時代からバビロンは繁栄しながら、多くの犠牲を払い、
崩壊を繰り返してきたからである。むしろ、地域が持つ特徴を活かしながら、
生活の場を自然とともに築いてきた農村の方が、長く継続している。



 長崎県平戸から熊本県天草にかけては、キリスト教文化が根付いた土地で、
現在も多くの宗教施設が独特の街の景観を作っている。
あの戦国時代に異教が定着したことは驚くべき事実ではあるが、その理由は一重に、
真摯なキリスト教徒を通して、生活を向上させる西洋文化が入ってきたからに他ならない。
日本と西洋文化の結節点は、長崎からであった。
キリシタン迫害の歴史が、さらに特殊な環境の中で受け継がれた。

先日、長崎外海地区を案内してもらった。
この地区は、長崎の教会とキリスト教関連施設群の世界遺産候補地域となっている。
急峻な地形に作られた農村は、棚田と石積み風景が印象的であった。
この石積みの特徴は、平らな結晶片岩が積み重ねられていることである。



出津集落の狭い土地のなかには住居や教会が点在していた。
もっとも有名な出津教会堂は、白壁と2つの尖塔が特徴的で、
明治15年に建てられた県指定文化財である。



その巡回教会にあたる大野教会堂は、特に印象的な教会であった。
それはなぜか、アンデスの山中に建てられた村の小さな教会を想起させた。
インカの石積み技術と、西洋の建築技術が融合した教会に似ていたのである。



大野教会堂の壁面は、ド・ロ壁と呼ばれる石灰を目地にした壁と、
瓦屋根を融合させた和洋建築物であった。



瓦屋根の鬼瓦には十字架の印があった。



旧出津救助院は、工場、福祉施設が混在した建物で、石塀と瓦屋根の美しい建物である。



 これらを設計したのは、フランス人のマルコ・マリ・ド・ロ神父であった。
神父は市内の大浦天主堂の司祭であり、敷地内の大浦神学校を設計している。



神父は外海地区に赴任のち、原野を開拓、出津救助院、工場、教育所を創設し、宗教関係の絵画、
装飾品、音楽だけでなく、土木・建築・医療・紡績・印刷・マカロニ、ソーメンなどの食糧製造など、
当時の西洋技術に精通し、自ら設計.施工しながら村人を指導し、生活再建のためのまちづくりを行った。

まちづくりにスーパースターはいらない、と思っていた。
しかし、私財を投げ打ち、村人とともに働き、村の生活を豊かにするための指導を惜しまず、
死ぬまで村で暮らした神父は、村人の尊敬を受け続けた。

現在も地元でド・ロ様と呼ばれる彼は、まぎれもない稀有のまちづくりのスーパースターだったのだろう。

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