長崎県端島(軍艦島)は、1810年の石炭発見以来、都市を拡充し、1916年にわが国最初の7階建ての
共同住宅が建設され、近代日本の最先端の工業技術、土木・建築技術の粋を集めた人工島であった。
初めて見たその景観は衝撃的だったが、この地ほど、調べ、聞き、見た3つの印象が違った場所も珍しい。
この島を、自分の中でどう解釈・評価したらいいかをずっと考えていた。
島の開発の歴史を調べると、明治、大正、昭和に渡る日本の都市づくりの歴史が、
この小さな島に凝縮されていることがわかった。
日本最古の中高層アパートは各戸にかまどがあり、当時は共同煙突がついていた。
周囲の工場・事務所は既に倒壊していているが、昔の配筋が多く機能しているためか、
隣の昭和初期に建てられたアパートとともにまだ残っている。
海底ケーブルによる送電、送水、海底採掘技術なども日本の工業技術の先駆けとなった。
廃墟を見ただけでも、赤土の石灰を混ぜたつなぎを使った、この島ならではの
アイデアのかけらが詰まった美しい擁壁であることがわかる。
この島は、当時どんな街づくりが可能だったかを、時代ごとに観察できる
日本の近代工業の生きた遺産なのである。
この島の土地利用の優先順位は
1、坑口・坑道
2、輸送インフラ
3、労働施設
4、住居施設・共同浴場
5、学校・遊戯施設・神社
6、病院・体育館・菜園
炭鉱の島は、坑口を心臓に、はしけと日給社宅の建設を皮切りに開発拡充されていった。
住居は空に向かい、岩肌に擁壁を這わせ通路を造り、護岸堤防を拡張し平地を増やした。
北側のアパート群は、島の命である坑口を守るため、防潮住宅として建てられた。
軍艦島と呼ばれるのは、その容姿だけでなく、都市構造そのものが要塞都市なのである。
炭鉱のための都市であるため居住環境は悪く、人口密度は当時世界一の
835人/haで、人と建物が密集していた。
目標とする住宅市街地の人口密度は約40人/ha程度なので、
その20倍近い人間が暮らす、極限状態の都市環境であったはずだ。
ハイテクを駆使しながら、健康、安全、安心な街からは程遠い、負の遺産の街でもある。
炭鉱の歴史を振り返ると、三菱財閥を築いた岩崎弥太郎と実弟の弥之助の名前が出てくる。
弥之助が旧鍋島藩主から端島を10万円で購入したのが1890年、
それ以来、三菱の私有地となり、黎明期の炭鉱の実態は一般に明かさることはなかった。
1974年の炭鉱閉山後、40年にわたり放置され続けた理由の一つはここにある。
当時、大陸からの多くの労働者が就労し、日本人以上に過酷な労働を強いられていた。
居住区も各国人が分かれ、日本人との接触もなかったという。
島を抜け溺死した者も多く、闇に消えた労働者の実態は知られていない。
地下1000mの海底にたどりつくまで、労働者は気を失うほどのエレベーターに乗り、
1kmの坂道を転げないように歩かなければならず、その先は湿度95%、30℃の職場であったという。
その劣悪な労働環境と就労形態を知る由もなく、廃墟とともに眠りについた軍艦島だが、
世界遺産の話とともに、島は200年の孤独から目覚め、今その歴史の語り部が話しだそうとしている。
しかし、もう時間がない。
構造物の修復・保存はかなり困難である。
5年以上の歳月をかけ、建設コスト以上の負担が必要であろう。
島内の鋼構造物はほとんどなく、RC構造物、石積、レンガだけが残っている。
外洋の波は激しく、破壊された防波堤を見ると大津波のことを思い出してしまう。
遺跡保存よりも朽ち果てる美しさとともに、もう一度前の島になるまで
見つめ続けるのも選択肢の一つであると感じた。
宿の欧米系観光客の感想は、Horrible(恐ろしい)、Fantastic(素晴しい) であった。
一方、アジア系観光客の感想は、Amazing(驚き)となり、日本が戦後に発展したことに興味を抱く。
日本人の持つ勤勉さ、がまん強さ、生産意欲、科学技術の応用力。
ここに来れば、陰の部分も含めて、日本がなぜ世界一流の工業国になったかがわかるだろう。