活火山のまちづくり

Katzu

2013年10月04日 19:13



 最近の桜島の噴火活動は2010年以降活発化し、噴煙が5000mまで到達した8月18日を
ピークに10月3日時点で、今年694回の爆発を確認した。


                                      詳細クリック

先月訪れた際も、約20分おきに大きな噴煙が上がっていた。
鹿児島市内には、2週間前の降灰が残り、篤姫の銅像前にも
水の流れ集まる個所には黒い筋状の灰が残っていた。



 桜島の爆発による、9月の鹿児島市の降灰量は、906g/㎡を記録した。
1985年には5000gを超えたこともあり、これを厚さに換算すると、
1cmに満たないが、湿ると10kg/㎡相当になる。
20cmも積もれば、木造住宅は崩壊することになる。
火山灰である関東ローム層が10mにも達することを考えると、
日本という国は、危うい大地にしがみついて成り立っているのである。



 桜島に渡ると、いかに降灰が日々の生活に与える影響が大きいかがよくわかる。
雨が降る毎に、ごみ収集車と同様に、清掃車と作業員が雨水桝の灰を上げる作業が日課となる。
民家の屋根も降灰により排水管が詰まるため、雨どいのない屋根を多く見かける。



雪と火山灰は廃棄物として共通しているが、雪国では克雪・利雪という言葉があるように、
火山のある地域では、克灰・利灰という言葉が、まちづくりのキーワードになっている。



漁師が潮汐を、農民が雨に気を配るように、火山のまちでは風向きが重要となるため、
テレビでは必ず風向き予報がでる。

噴火災害の歴史をひも解けば、過去に起きた4つの大きな噴火による溶岩流の分布と
現在のまちの成長を重ねると、一つの特徴が見えてくる。



大規模な噴火は約100年のペースで繰り返されてきた。
溶岩台地は徐々に植物が繁茂し始め、砂防事業が繰り返され、林になるまで50年ほどかかる。
その後、人々が噴火の恐怖を忘れ再び戻り始め、まちができるまで100年がかかる。
桜島のまちの歴史は、この輪廻を繰り返してきたともいえる。



 熊本から有明海を渡り島原半島を望むと、壮大な悲劇の舞台となった雲仙普賢岳の
姿が生々しく目に飛び込んでくる。
今なお噴煙を上げる雲仙普賢岳と、山頂から延びる溶岩と土石流によりできた台地が、
なだらかな放物線を描き、海に到達した歴史の姿がよくわかる。

2009年に島原半島一帯は、日本で初めて地球科学的な自然遺産として世界ジオパークに認定された。
島原の人々は、繰り返される災害と向き合い、山の伏流水や温泉、有明海の幸を利用しながら
『活火山と人との共生』をテーマに観光と防災のまちづくりを進めている。



雲仙岳災害記念会館は、雲仙岳の土石流を浚渫した土砂を用いた埋立地に建設された。
この施設は、1990年の平成の噴火から火砕流とその後の土石流まで、
記録に残し、災害を疑似体験できる教育の場でもある。



この近くから、土石流対策として大石や大木を止めるスリットダムと言われるハの字型の
導流堤が、幾重にも造られている様子が確認できる。



 有明海をバックに、東日本大震災の女川の津波の高さが記されたパネルを重ね見ると、
日本全国どこでも災害の起きる可能性のあることを思い起こさせてくれる。



 防災やまちづくりについて、火山のあるまちから学ぶべきことは多い。
このような教訓を活かせず、30年後にオールドタウンを造ってしまい、
大震災に成す術もなかった我々の責務は大きい。
その反省と経験から、30年後の震災復興団地の姿を思い描くシナリオは、
果たして、想定されているのだろうか。

関連記事