沖縄には、織物、漆器、陶器、ガラス、金細工、木工など
多種多様な工芸が、いっぱい街にあふれている。
日本、中国、東南アジアとの交易により、独自の文化を生んだ
琉球王国の産業工芸が、そのベースに受け継がれている。
80年頃から、一通り見て回り感じたのは、伝統工芸を生業として
引き継ぐことの難しさがあり、工芸技術者の育成につながる
芸術系教育機関・研修所の成果が見えてこない現実があった。
伝統を守らんとするがゆえ、観光と創作のはざまで芸術家のかかえる
パラドクスが、見る側、使う側にも見えてしまっていた。
それが若い人による沖縄のデザインアートが花開いた、と感じる
ようになったのは、つい数年前のことである。
伊計島は3年前に島の最大企業であるリゾートホテルが倒産し、
同じ年に伊計小中学校も廃校となった。海中道路で観光客は来るが、
文字通り一番遠いイチハナリの端でUターンして戻っていく。
車で渡れる離島でありながら、日帰り客を足止めする術がなかった。
何もなくなった島に、廃校を利用したイチハナリアートプロジエクトが
立ち上がって今年で4回目を迎える。
地元に住んでいながら1回目は見逃してしまい、昨年行って見た印象は、
若い人のアート感覚には伝統の殻に取らわれない発想があるということだ。
集落で最も大きな旧小中学校の建物は、この日島の中心として甦っていた。
2階に上がり、ディスプレー越しに窓の外を見ると、サトウキビの畑の先には
よく潜りに行った流れのある北東海岸があった。
展示はこのメイン会場を中心に、伊計島だけでなく平安座島、宮城島、
浜比嘉島各島に30ほどの会場があり、ワークショップも開かれている。
伝統のトレースの時代を越え、技術が習得されると、次の時代は
伝統を外さないオキナワンアートというものが目標になる。
たとえば、このダチビンとカラカラの合いの子のようなこの陶芸作品。
抱瓶はもともと腰にまいて屋外で使うもので、いかついものが多く、
お土産としても重く実用的でなかった。
一方、カラカラは高価な古酒が流行り始めた頃から増えはじめ、
(70年代にはガラス玉なんか入っていなかった)、
燗をしない口の細いお銚子という感じで、口が欠けやすい欠点があった。
この作品は、デザインだけでなく双方の利点を合わせたキラメキがある。
沖縄らしい柔らかさは曲線か球面で表される。
この自然木を利用した水差しは、マングローブのヒルギの芽を想起させる。
陶器の水差しは、自然界にある植物とは相いれない堅さがある。
この水差しを見ていると、強烈すぎる琉球伝統工芸から、一旦自然に帰り
工芸の教育や育成の成果として、新しい芽が息吹き始めたものを感じる。
島のリゾートホテルの改築も進み、再開の目途がついた。
会場の駐車場は100台近くで満車に近く、活況であった。
また島に人が戻り、学校に子供の声が響く様子を想像してみたくなった。