海はひとの母である

Katzu

2012年11月21日 22:09

 ベトナム戦争が終わり、沖縄が日本に復帰し、
学生運動も終わった時代にこの本に出会った。
この本のことはすっかり忘れていたが、先日、押入れを
整理していたら見つけ、読み始めると、引き込まれてしまった。
自分が生きる伏線として、この海にいることに身震いする思いであった。
 そこには、30年前に既に起きていた沖縄の開発問題、自然保護運動、
屋慶名の歴史、パラオとの関係、などが書かれていた。

 著者の故安里清信は、70年代に進められた平安座島の
CTS基地建設に反対した、住民代表の一人であった。
金武湾闘争は、当初ガルフ石油が着手し、三菱と国が進めた
石油備蓄基地開発に対して、『金武湾を守る会』を中心として、
座り込み闘争などで10年近く反対したものである。


 
 開発の結果、金武湾は海中道路と埋立て地によりさえぎられ、
開発による土砂流出や、オイルボールなどにより、サンゴ礁の海は死滅した。
現在では、回復の兆しが見え始めたものの、状況はあまり変わらない。
その海の変化をずっと見続けてきたのが、著者であり地元の漁師たちであった。
海水温度の上昇により地球のサンゴの70%が死滅したと言われる、
20年前の出来事であった。



 この本には、パラオのことが多く書かれている。
80年代、パラオはアメリカに、非核憲法をたてに独立運動を展開していた。
同時期に日本政府は、低濃度放射性廃棄物を
太平洋の6000m海底に投棄する計画を発表した。
この案に真っ先に反対したのは、近くのグアム・サイパンではなくパラオであった。
青年時代の私は、大国に異議を唱えるこの島国に、深い愛着と興味を持った。



その後、経済支援と非核憲法を引き換えに、
パラオは、ベラウ共和国として独立を果たすが、
その支援・共闘を表明したのが、彼を中心とする
『金武湾を守る会』であった。
当時、現在でも社会的影響力が絶大なパラオ婦人会のメンバー数名を、
会は屋慶名に招いて基地を案内し、会員もパラオに渡海している。

屋慶名とパラオの関係は深く、パラオから帰還した人が35名いると記されている。
集落にはパラオ食堂というのもあり、アンガウル島で育った唄者の
大城フミさんのインタビューも紹介されていた。

 パラオに居る時は、沖縄の存在は常に意識しながらも、
この屋慶名のことはすっかり忘れていた。
今、自分の近辺の歴史を聞き調べるうちに、
次々に遭遇する出来事に引き込まれ、一つのストーリーがつながってしまう。

 その後、そのCTS基地はどうなっただろうか。
沖縄石油の撤退で、石油精製は不要になったものの、
海に造られたシーバースは、タンカーのこない海の障害物となっている。



 石油備蓄基地のオイルタンクはどうなっただろうか。
先週、その1基の屋根が落ち、オイルがむき出しとなり流出した。



30年以上経ち、海水腐食による金属疲労が起きたことは明らかであろう。
平安座集落には異臭が漂い、ベンゼンの環境基準値をはるかに超え、
近くの彩橋小中学校では20数名の児童が体調不調を訴えた。
現在も、タンクが見える集落の上部では、オイルの匂いが漂っていた。
オイルの抜き取りには来月までかかり、近隣の飲食店は大変だろう。



 オイルショックの危機を、国家プロジェクトとして担い、島の振興を図った
というのは表向きで、当時本土では認められない公害施設を
日本復帰と共に押しつけ、海の生活を奪い、海中道路で島の若者を本島に流出させ、
迷惑施設を次の世代に残したとしか思えない。
米軍基地、原発と全く同じ構図とシナリオである。



 維持する管理能力のない日本には巨大施設、大規模開発はもう必要ない。
30年間、島の生活を支えてきたと胸を張る人達は、
これから30年、100年と失ったものの価値の大きさを知ることだろう。
30年前にこの本は、そのことを語ってくれていた。
現在は廃刊となり、著者は歴史に埋もれ、記念碑に刻まれる
ようなことはないだろうが、映画『ローカルヒーロー』のように
自分の中では、沖縄の重要な一人であり続ける。


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