明和の大津波は、石垣島で9,000人の犠牲者を出したが、
わずか5kmしか離れていない竹富島の犠牲者は、
石垣島に出張していた27名だけだった。
竹富島が、『奇跡の島』と呼ばれる由縁である。
東日本大震災が起きるまでは、85mの津波が襲ったと言われる石垣島に比べ、
標高20mの竹富島の被害がなかったことが理解できなかった。
ヒロイックな伝説が、史実を針小棒大に伝えた例は多く、
明和の津波の史実さえ疑問視する人も多かった。
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サンゴ礁が津波を軽減したことは想像できたが、
サンゴ礁で有名な白保の集落は壊滅し、
隣の黒島と新城島も被害が甚大であった。
石垣島のバンナ岳から竹富島を望むと、その疑問はますます強くなる。
大震災後、島に渡り改めて島を見渡し、調べ聞くうちに、その理由がわかってきた。
それは、自然の摂理と人の生きる環境の必然の結果であった。
GODAC資料
1、外洋に突き出た幅の狭い白保サンゴ礁に対し、石西礁湖は竹富島の東側まで
延びており、リーフが重なり合い、 津波を弱めたと考えられる。
この海域は竹富海底温泉と呼ばれる熱水源泉や間欠泉もあり、
海底は複雑な地形となっている。
震源地は幾つか予想されており、 津波は東から来たということから、
今村説(1938)の方が近いのかもしれない。
いづれにしても震源から直接到達する位置にありながら、
津波高は白保の30mに対し、竹富島は5m程度だったと言われる。
琉大中村研究室
2、島の周囲は海岸林で覆われ、東西南北に東美崎御嶽、西美崎御嶽、
プサシ御嶽、美崎御嶽があり、海を鎮める神として信奉されている。
この杜は海風や海砂から集落を守るだけでなく、
高潮や津波で流されることを防ぐ役目がある。
3、島は標高20mの北の小城森、南のンブフル山があり、集落はその南側に、
島の中央の仲筋井戸を囲むように形成されている。
集落の標高は、13~15mほどであり津波は、集落の中央まで到達しなかった。
4、島の統治は、6人の酋長が争いを繰り返しながら、
独自の合議システムで運営されていた。
島の字切図を見ると、海岸から島中央にむけ各字が分断されており、
各種族は各御嶽を中心に海(職)と山(農住)を使い分けて生活していた。
つまり海で起きた災難から山に逃げるシステムを各集落で持っていたことになる。
5、島の生活は絶えることのない井戸により、粟、麦などの農業が可能であった。
震災後、多くの集落が廃村に追い込まれた他の島と違い、
竹富島は、農業による自給生活も可能であった。
一方、隣の黒島は、竹富島よりさらに平坦で、島の1/4の人が亡くなった。
黒島は造船の島であったと言われ、集落は海に近い所に分散していた。
津波後の竹富島の歴史は、必ずしも幸福ではなかった。
人口の減った石垣島に強制移住させられたり、西表島に移住した島民は
マラリアに苦しめられたり、相変わらず人頭税に縛られる生活は続いた。
島の中心にある仲筋井戸に行くと、今も絶えぬ水が湧いていた。
この小さなサンゴ礁の島で、塩分が少ない水の井戸は、非常に珍しい。
井戸の脇で作業をするおばさんに、この話をすると、
『この井戸が私たちを守ってきたのです。』 と語った。
こうして、小さな竹富島が、古くからの多くの歌や言葉とともに、
文化・芸能を育み、今も古い街並みが残されている。