忘れえぬ街 その2

Katzu

2011年06月03日 19:34

ウチナーアメリカの光と影:コザ
 1970年のコザ暴動から、沖縄が日本に復帰し海洋博覧会が行われ、
ベトナム戦争が終わった1975年、交通規制が変わった1978年、

70年代は、沖縄の街並みが大きく変わった時代であった。
1974年に沖縄市に変わったが、学生時代に行った7.30
騒動時のコザは、まだ日本のどこにもないアメリカの街だった。



日本円に切り替わったとは言え、店のメニューは$表示が残っていた。
街並みの看板は横文字が多く、街なかの4車線道路も珍しく、
街並みの雰囲気はアメリカンだった。
ベトナム戦争後とはいえ若い米兵が、ライブハウスにあふれ、
戦争の記憶を忘れようと、もがき泥酔する姿があちこちにあった。



友人数人と徒党を組んで緊張しながら、ゲート通りを歩いた。
軟弱な内地の大学生には、十分なカルチャーショックだった。

 朝鮮戦争以来の景気に沸いたコザの繁栄は、どの歴史にも
あるように、一瞬の輝きと騒乱であった。
当時泊まった京都ホテルも、
新婚旅行で泊まったシェラトン沖縄も今はない。
忘れ去りたい過去が、人々をこの町から遠ざけて
いるようにも思える。

最近、沖縄市の商店街は、他の日本の地方都市と同じく
シャッター街となったが、新しいまちづくりを模索している。

かつての繁栄と賑やかさを、独自の音楽文化に求め、
コザミュージックタウンをテーマに、若者を中心に進めている。

全国的に、中心市街地活性化事業が行われている。
国交省主導の補助金や、各種交付金で行われるケースが多いが、
十分な効果がなかなか上がらない。
箱モノを作り、造った当初はいいが、維持費が掛かり、
継続することが難しい例が多い。

コザのケースは、音楽に情熱を持つ若者が多くいるだけ、まだ希望がある。
街の伝統と文化を、新しいシステムに溶け込ませるかがカギであろう。

沖縄市の都市マスの目指す都市像は、国際文化観光都市である。

商業圏が北谷に奪われ、市の重心が東に移動するにつれ、
都市計画の統一性が取れていないことが気掛かりである。



コザ広域都市計画を見れば、その最大の原因は、皮肉にも
コザの経済を支えてきた嘉手納基地であることは、一目瞭前だ。

カデナエアベースが出来た時点で、コザの都市計画は閉ざされた
と言っても過言ではない。

しかし、基地無き後のコザの街を想像できる人は、
どれだけいるのだろうか。

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