忘れえぬ街 その4

Katzu

2011年08月28日 00:30

日本人が造った街コロール
 パラオ共和国の中心都市で、1920年代、日本が南洋の
拠点として、近代的な都市を計画、市街地を形成した。
その街の骨格は現在も変わっていない。
現在人口は12,000人程度であるが、
戦争当時は軍属を除き20,000人が住んでいた。



 当時コロール1丁目~7丁目まであり、夕日が丘、本願寺通り、
芸者通り、港橋などがあり、その中には、
現在も使われている地名もある。

この町は戦前、南洋の東京とも呼ばれ、平和で美しい街であった。



現在の幹線道路は、23,000台が通過する渋滞もある道路だが、
信号はなく、交差点での一時停止はアイコンタクトが必要である。
裏通りは3間幅の、日本統治時代の面影を残す道路や、建物が残っている。
日本語表記や日本名も多く、日本語を話せる人もいる。
世界一の親日国と言われる所以である。

常夏の島で、朝夕1年を通じ、気温は27~29℃、湿度は60~70%である。
1日1回雨が降り虹がどこかで出る。
夕方、三線を弾いていると沖縄にいるように錯覚してしまう。
地理、自然、文化、歴史的にも、パラオは沖縄、東南アジア、
アメリカの中間的な位置にある。



 この日本人の造った街で、2年間街づくりに関する支援を行った。
当初は思い入れが空回りし、建設的な意見がでないことに
イライラが募った。
しかし、1年を過ぎた頃、彼らの心情が理解できるようになった。
それは、強国に囲まれた琉球王府の立場を考えれば、理解できる。

損得は意外にシビアで、商業の利権争いもある。
彼らは、温厚で時に日和見的な面もあり、
日本的だと感じることもある。

 朝から演歌を流していた同僚は、気を使ってくれているようで
嬉しくも、気恥ずかしかった。
でも彼はその唄が好きなだけだった。

ダイバーの多いコロールは観光地になり始めているが、
街角で互いが認識出来るようなスケールの、
昔のままの街であってほしい。

来月、1年ぶりにパラオに帰る。

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