白梅の塔、山形の塔、バックナー中将の碑
沖縄では8月12日は旧盆の
ウンケーにあたる。
盆は田舎に帰れないので、替わりにこちらで墓参りをする。
有名なひめゆりの塔に比べ、
白梅の塔を知る観光客は少ない。
ひめゆり学徒隊は第一高女、白梅学徒隊は第二高女の生徒で編成された。
塔の脇には、自決した鍾乳洞があり公開されている。
壕内の滴る水音と冷たさは、今も変わらない。
塔の西50mほど先には
山形の塔がある。
ほとんどの都道府県が摩文仁の丘にあるが、
山形の塔だけ離れているのは、理由があった。
沖縄戦の最後の守備隊として配備されたのは、
歩兵第32連隊、通称
霞城連隊と呼ばれる
山形を拠点とする部隊で、北海道、秋田の兵を含め投入された。
雪国の部隊は住民と意思の疎通を図る間もなく、
軍民入り乱れての戦闘の後、軍旗をここに奉焼した。
父は32連隊の軍人だったが、士官への昇級を本意で避け、
中国に留まった。
昇級していれば、沖縄か南洋に配属されていた。
その後、父は遺族会の旅行で一度沖縄に来ただけで、
中国には行かなかった。
父は死ぬまで、戦争の夢を見てうなされていた。
今日は、父の代わりに亡くなった方に、合掌した。
この丘から300m程西側に、
栄里の塔と並んで
バックナー中将の碑がある。
アメリカ戦史上、唯一、最高責任者が戦死したことで有名な丘である。
この死については砲撃説、狙撃説、陰謀説など諸説粉粉である。
つい最近、アメリカの史実を証明するように、砲撃した人とアメリカ軍が
保管していた砲弾が紹介された。
しかし、現場に立つと、疑問が湧いてくる。
2km先は丘陵で見渡せない。
しかも、残った数発の砲弾で、周囲の下士官に傷を与えず、
大将の胸だけを砲弾が貫くことができるだろうか。
この直後、周囲の集落民がアメリカ軍に殺戮されたこと、
後3か月間、山形の塔付近で第32連隊が抵抗したことを考えれば、
連隊の一兵卒の狙撃兵が行ったと見るのが妥当だろう。
この日訪れた観光客は皆無であった。
立派な公園や施設を整備し、記憶をとどめることは必要である。
一方、歴史環境を整えるということは、史実や現場を認識し、
平和教育とともに、心を繋ぎとめることが大切である。
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