白梅の塔、山形の塔、バックナー中将の碑

Katzu

2011年08月13日 12:39

 沖縄では8月12日は旧盆のウンケーにあたる。
盆は田舎に帰れないので、替わりにこちらで墓参りをする。



 有名なひめゆりの塔に比べ、白梅の塔を知る観光客は少ない。
ひめゆり学徒隊は第一高女、白梅学徒隊は第二高女の生徒で編成された。
塔の脇には、自決した鍾乳洞があり公開されている。
壕内の滴る水音と冷たさは、今も変わらない。



 塔の西50mほど先には山形の塔がある。
ほとんどの都道府県が摩文仁の丘にあるが、
山形の塔だけ離れているのは、理由があった。



 沖縄戦の最後の守備隊として配備されたのは、
歩兵第32連隊、通称霞城連隊と呼ばれる
山形を拠点とする部隊で、北海道、秋田の兵を含め投入された。
雪国の部隊は住民と意思の疎通を図る間もなく、
軍民入り乱れての戦闘の後、軍旗をここに奉焼した。

父は32連隊の軍人だったが、士官への昇級を本意で避け、
中国に留まった。
昇級していれば、沖縄か南洋に配属されていた。
その後、父は遺族会の旅行で一度沖縄に来ただけで、
中国には行かなかった。
父は死ぬまで、戦争の夢を見てうなされていた。

今日は、父の代わりに亡くなった方に、合掌した。

 この丘から300m程西側に、栄里の塔と並んでバックナー中将の碑がある。
アメリカ戦史上、唯一、最高責任者が戦死したことで有名な丘である。



この死については砲撃説、狙撃説、陰謀説など諸説粉粉である。
つい最近、アメリカの史実を証明するように、砲撃した人とアメリカ軍が
保管していた砲弾が紹介された。

 しかし、現場に立つと、疑問が湧いてくる。
2km先は丘陵で見渡せない。
しかも、残った数発の砲弾で、周囲の下士官に傷を与えず、
大将の胸だけを砲弾が貫くことができるだろうか。

 この直後、周囲の集落民がアメリカ軍に殺戮されたこと、
後3か月間、山形の塔付近で第32連隊が抵抗したことを考えれば、
連隊の一兵卒の狙撃兵が行ったと見るのが妥当だろう。

この日訪れた観光客は皆無であった。

 
 
立派な公園や施設を整備し、記憶をとどめることは必要である。

一方、歴史環境を整えるということは、史実や現場を認識し、
平和教育とともに、心を繋ぎとめることが大切である。




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