沖縄の南城市で1億2千年前の人骨と石器が発見された。
今までは1億8千年前の港川人の人骨だけが発見されたが、
縄文時代までの間の繋がりがなく、港川人が暮らしていた証さえなかった。
今後、縄文時代と旧石器時代を結ぶ貴重な資料となるだろう。
そして、それは人類学により否定され続けた、日本(縄文)人の
南方起源ルートを裏付ける1つの証拠となるかもしれない。
土器や食物が見つかっている縄文時代の遺構は全国に散在するが、
弥生文化は本州西部から中央部に集中している。
縄文文化は北と南の複合文化か、2極化したのか、
弥生文化と縄文文化の結節点はどこか、が常に争点となってきた。
遠い縄文時代後期、狩猟・漁労中心の集落が全土に広がっていた頃に、
大陸から朝鮮半島を通って農耕中心の弥生文化が入りこんできた。
それは日本海沿いに北に広がって行った。
その結節点が出羽の国であったのかもしれない。
遺跡分布をみると、内陸部は圧倒的に縄文時代の遺跡が多く、
庄内地方は弥生~平安時代の遺物が比較的多い。
これは日本海側が対馬海流により暖かく、弥生時代に稲作が伝わり、
出羽・朝日山地により分断されている内陸地方は、雪深く寒く狩猟中心の
生活が続いた、という気候条件の違いによるのかもしれない。
地理的条件から歴史は繰り返される。
壇ノ浦の戦いに敗れた平家の残党は、全国各地に落人伝説を残した。
その多くは、日本海沿いに点在しており、出羽の国の庄内地方にまで至った。
さかのぼって、京文化と江戸文化。
京文化は北前船とともに日本海を北上して、山形庄内地方、秋田沿岸に伝わった。
一方、江戸文化は北関東から白川の関を経て南東北、山形県の内陸地方に伝わる。
その結果、同じ県内に江戸文化と京文化の結節点が生まれ、
現在も方言の圏域が異なる。
その間を地理的に隔てたのは、出羽三山という原始密教の地であった。
出羽三山に真言密教が伝わったのは、平安時代に坂上田村麻呂が
蝦夷を平定した時代だが、大乗仏教がインドから北上し、
アジア最北部に辿り着いたと考えられる歴史的経緯を持つ。
先週改めて、出羽三山の主峰月山に立ってみると、もう既に冬の世界だった。
南から辿りついた仏教が山岳密教となり、北の信仰の地になったのは、
歴史と地理の必然であったという、そんな深い感慨を持った。