地図を前知識なく眺めていくと周囲にそぐわない地形に遭遇する。
大規模開発地だったり、出来損ないの大規模公共施設だったり、
廃墟だったりするわけだが、中には理解できないものもある。
春先寄ったタイ北部ラオス国境のチェンセ-ンはそんな街だった。
市街地の郊外にバイパスが通りその内側にループ状の道路がある。
都市づくりの可能性としては非効率な街区のようでもあるが、
写真は木々に覆われ、公園、緩衝緑地、土塁のようでもある。
チェンセーンは中国雲南とルアンパバーンの中間にあたり
メコン川沿いのプーアール茶の貿易港として栄えた。
現地の土地利用は、コの字型に川を結ぶ水郷と城壁の跡であった。
レンガ造りという点を除いて、見かけは日本の城郭と変わらない。
街は古さを感じない何の変哲もない住商都市と思われたが、
住宅地の片隅の至る所に寺院の廃墟があった。
歴史地区の指定を受け5つの城門、25以上の寺院が確認されており
その多くは廃墟となった経緯もわからず再興する気配もない。
世界遺産になったアユタヤやスコータイに比べ遜色ない巨大な寺院も
あるが修復中で、他の遺跡は閑散として訪れる観光客もいない。
国立チェンセーン博物館でこの都市の歴史を調べたが
何か釈然としないものが残った。それはこの都市が、
中国、ビルマ、ラオス、タイに囲まれた交通の要衝にあり、
攻防が絶えず占領、破壊が繰り返されたためだろう。
14世紀、ランナー王国の首都として栄えたチェンセーンは
王により火を放たれ歴史の表舞台から突然消え去る。
背景には元の侵攻、ビルマ軍の侵攻と統治の歴史があった。
その結果、新しい住民が居住し、住宅地に廃虚が残る街になった。
アユタヤ王朝を滅ぼし清の大軍を撃退したシンビューシンの王都インワ
戦いに明け暮れたビルマ王の都は、現在は巨大門といくつかの
寺院跡を残し、農地以外に人の生活した気配すら感じさせない。
忽然と人が消えた諸行無常のかつてのバビロンである。
韓国慶州の仏国寺は李氏朝鮮時代に仏教弾圧を受け廃墟と化したが、
日韓併合時代に再興が図られ、現在は石窟庵とともに
朝鮮の古い歴史を伝える貴重な世界遺産となっている。
大正時代
現在
石窟は白御影石で、最も精巧に造られた端正な如来像であった。
日韓併合時代、土に埋もれ壁が崩壊した石窟の工事を行ったが、
石像の配置を間違い、排水構造にセメントを使用したために
換気が行き届かなくなり補修が必要になったと説明文にあった。
日本の研究者は、配置は施行前の写真と同じで、終戦時は異常なく
移動展示の際に復元を誤り、再現できなくなったとしている。
その後、再築し補修を繰り返したが、余った多くの石材は
無造作に外に展示してあった。
対面の南山は、多くの寺社や石仏のあるトレッキングエリアであるが
廃仏も多く、ここにも仏教弾圧の歴史が残る。
アジアの廃墟の街は宗教的なものが多く、日本にも廃仏毀釈により
多くの廃寺を生んだ例はあるが、ほとんどの廃墟は放置されることなく
担保された土地は付加価値を生み、新たな土地へ更新されていく。
国内の廃墟の街は、鉱山の閉山により集落が廃棄された例が多い。
東日本大震災の住宅地の適地選定では、高台移転よりも
廃村利用の方が容易いと考えたが、住民はあの厳しい条件下でも
山に戻ることはすでに現実的な選択肢にはなかった。
宮古市田老鉱山
最近ではバブル時代のニュータウンや大型施設の例があるが、
今後、限界集落として消滅する集落は2000以上あると言われる。