震災半年後
一昨日、那覇でO先生と飲んでいた時の話。
沖縄では震災の映像を見て、マブイ(魂)を落とした年寄りが
たくさんいたと言う。
近所の婆さんは腰を抜かし立てなくなって、泣いたあと気を失ったとか、
驚いて声を失い、それ以後テレビを見れなくなったとか、
純粋に傷ついた方が大勢いたらしい。
多くの人が亡くなった沖縄戦を経験したから、なおさらなのであろう。
かく言う私は、2日間の停電で、ラジオも乾電池が切れ、
生活するのに精いっぱいであった。
実際近くで見たら、冷静でいられたか自信がない。
その後1週間は放射能拡散のニュースが外国サイトで飛び交い、
生活用具を買い回る人達を尻目に、家の中に退避していた。
津波の映像に接したのはその頃であった。
10日後現場で見た光景は、戦争そのものだった。
戦争の話になると、先生は思い出したのか、言葉に詰まり、
感極まってしまった。
情を唄に込める人なればこそと思う。
店を出たのは明け方近くだった。
ティダのあがった数時間後、民間機と自衛隊機の並走する
危険極まりない那覇空港から、1か月前にようやく運行し始めた
那覇仙台便で仙台空港に向かう。
台風12号をギリギリかすめての航行であった。
このいつもの綱渡りを止めようと思うが、運命だから仕方ない。
機上から海を見るとあの津波の映像が蘇ってくる。
防砂林は同じ方向に倒れたままであった。
滑走路も歪みとクラックが目立つ。
旧共産圏や開発途上の国と同じサービスレベルであるが、
地域全体がそれだけのダメージを受けた証明である。
空港アクセス鉄道もようやく全線開通予定である。
空港周辺の施設の回復は進まない。
人が来ても、地盤の変化がインフラ整備を遅らせ、
宅地化が進まない理由である。
人々は粛々と生活を始めている。
被災地無視の政治劇も一段落したが、新内閣が土地問題に
どこまで踏み込めるかが、震災復興のキ―である。
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