大震災から4年が経って、被災地はどう変わったのだろう。
あの時と同じく、仙台市の荒浜から閖上に向かう。
前日に荒浜小学校の卒業式は終わったばかりで、
被災した校舎だけが当時のままで残っていた。
想えばこの校舎は、多くの人を守り、その役目を果たしたのかもしれない。
海岸は大型の重力式防潮堤が建設中で、公衆便所のあった脇には
慰霊碑が作られ、松林は塩害を受けながらかろうじて残っている。
嵩上げ工事が進む県道10号は、災害道路として相変わらず渋滞している。
地域全体の主要インフラ整備は、まだその途上にあると言える。
閖上は区画整理事業が進行し、嵩上げ工事が始まった。
素人目には遅く感じられるが、区画整理とは土地の課題を
解決するのが目的の一つで、一旦工事が始まれば進行は早い。
むしろ、新しい街ができることを楽しみに見つめながら、
希望を持ち続けてもらいたいと願う。
仙台空港から海沿いにストロベリーラインと呼ばれた
県道38号沿いに亘理町、山元町を南下し福島県に入る。
津波被害の大きい平坦な地域で当初は入ることすら難しく、
現在も農地は回復せず、幹線道路は途切れ整備が進行中である。
南相馬市に入ると、空間線量も0.2μSv/hほどに落ち着き、
人の生業と生活がしっかり見えるようになってきた。
ところが、市南部の小高区に入ると街の形相は一変する。
この地域の線量は当初もそれほど高くなかったが、
20kmの旧警戒区域の指定を受け立ち入ることができなかった。
原発事故後の計画行政の中で20kmという大くくりの指定が、
再生街づくりの足かせとなることは初めから予想できたことだった。
その結果、人のいない商店街に、客より先に住民を
戻すことを考えなければならない苦難を強いられている。
既に常磐自動車道は開通したが、帰還困難区域は相変わらず
線量が高く通過のみ可能で、国道6号も二輪車歩行者は通行できない。
流通経済を先行させる前に、避難地域の将来計画を示すべきだった。
このままでは被災した街が忘れさられてしまう。
飯館村に入り標高が高くなると線量は一旦増すが、
居住制限区域の宅地に入ると0.3μSv/h程度に下がった。
宅地と農地の除染は進んでいるが、時間減衰予想を見ると
地域全体として除染効果に寄るものなのか明確でない。
汚染が下流に広がるという仮説も山間地域の方は
以前高い状態なのでこの理屈もよくわからない。
宅地の除染方法は、表土をはぎ取り袋詰めし、
客土(山砂)を搬入し、敷き均した白い土は確認できるが、
集めた汚染土はその多くがまだ敷地内に置かれている。
山間部では、人目を避けるようにフェンスで覆われ
警備付きの仮置き場がフル稼働している。
県道沿いは依然閑散としているが、霊山方面に向かうと
除染作業も進み、集落に留まり焼失した山津見神社は、
氏子や全国の寄付により既に建築が進んでいる。
毎年この時期に福島に来ると、
初めて遭遇する被災箇所が未だあることに驚愕し、
遅々と進まぬインフラ整備に納得しつつ、
何もできない自分に苛立ちながらも、
坦々と確実に進んでいる個人の姿に勇気づけられる。
海外で聞かれたのは“Fukushimaは大丈夫か”という、
単なる興味というより、思い入れを持った問いであった。
その頻度は、情報だけが氾濫し腫れ物を触るような
国内の雰囲気より、むしろ暖かく多かった気がする。
福島が大災難から立ち直り先に進む方法は、
日本を飛び越えFukushimaという世界的な名前の
ポテンシャルを最大限に活用することかもしれない。