震災直後の街を歩き冷静に現況分析すると、震災被害と復興計画は4つに類型化されることがわかった。復興街づくりは、既存の補助事業で対応できるものや、柔軟な換地を可能とする新たな法制度の解釈が求められた。結局、防災集団移転促進事業(防集事業)が拡充されたが、肝心の土地を動かす手法は、従来の区画整理事業と買収事業に委ねられた。
震災直後、初めて海岸線に辿り着いた閖上の街。
その後、多重防御というコンセプトで、住民同意の区画整理事業が選択された。現場は仮換地が終わったと見え、整地工事が本格化し大型ダンプがフル稼働し、まもなく区域内の通行はできなくなる。現場事務所や組合事務所も機能し始め、被災地という視点から離れ、新しい市街地開発事業を事業計画通りに進める視点が必要となる。
何度となくこの丘に立って街を望むと、無念・悔恨から希望に変わり、やがてやる気が起きてくる。宮城県南部の平野部では、海浜の防潮堤工事が事業プログラム上の優先事業として至る所で進んでいる。
空港周辺では大規模な嵩上げを行わず、いち早く新しい住宅団地が完成した地区もある。これは県の防潮堤計画を前提にした計画で、住民の早い意志表示と選択がこの結果となった。空港以南の平野部の都市部との違いは、幹線道路や重要施設用地が、小さな丘陵状に分散して整地されていることである。
福島県に入ると、主に道路等の生活インフラ整備が至る所で進行中の段階で、震災直後と同じく国道の渋滞はいまだ続き、原発に近付くにつれ大型車の混入率は50%を超えていく。福島第一原発から10km以内にある南相馬市の避難指示解除準備区域では、もともと空間線量が低く現在も0.1程度で、徐々に住民がもどりつつあるが街の人影はまばらである。
JR常磐線の不通区間にある磐城太田駅では、代行バスが運行され、軌道維持の試運転が行われていた。
飯舘村の居住制限区域では、除染作業よりも除染袋の維持管理作業が主体で、至る所が仮置き場となっている。県道12号沿いでは空間線量は0.4と以前よりは低く活動に支障はないが、この除染計画には当初から異論があった。
汚染土を右から左へと移すだけで地域の除染は不可能とする専門家の意見は黙殺され、もっぱら住民の気休め政策になり、環境省は今頃になって山野の除染は行わない方針を決定した。住民に寄りそうことと復興の工事を進めることとは、同義に解釈し進められることではない。
しかし、やがて戻る住民のために交流センターを造ることが、未来をつなぎとめる夢であることも確かなのである。先月、沖縄の被災者との会話で残念だったのは、専門家や先生方は早々に退散したこと、避難者と残った住民との間の意思疎通がないばかりか、ねたみや差別の感情が生れていることだった。
県道沿いの街に住民の気配はないが、ガソリンスタンドと工事現場、事業所が数軒営業している。
福島市方面と被災地を結ぶ交通の流れは震災直後と同じだが、変わったのはその多くが通勤のための移動である点である。
女川はリアス海岸特有の溺れ谷の地形に発達した街で、海底からの津波の破壊力を直接受け、その被害は人の想像をはるかに超え、直後の風景は一生忘れることはないだろう。
23日、女川駅前の商業エリアで復興まちびらきが行われた。谷間の街の閉塞感はなく、駅前の商店街からは海が見渡せた。復興のフロントランナーと言われるのは若者の意見を取り入れ、住民参加型の街づくりが進んだためと言われる。計画論的に見れば、限定された山を削り宅地を造成し、海岸近くを埋め、終点駅を中心にした都市整備は、明快なビジョンとともに従来の整備ができる条件が整っていた。
被災地各地の街づくりはかつての同僚のコンサルタント会社が担当するものが多かった。個人的に描いた何もしなければこうなります、という提案は、いつのまにか通常の事業のフローチャートで導かれてしまった。山を削り住宅団地を造成し、残土で海を埋め立て新しい島を造る神戸方式は、当時経済的で都市機能を高める計画として評価されたが、阪神淡路大震災の埋立て地の液状化を見るにつけ、地図を変える仕事が目標ではなく大変な責務であることを思い知らされた。
どんな著名な専門家、研究者でさえ、ここからは地元の人が決めるべきという境界を知り、時間という大きな壁にあたり、責任を知り進めなくなる。それは歴史を享受していないためであると知ったのは震災後であった。
縄文時代からの歴史の続く南三陸町の波伝谷は、幾度となく津波に襲われながら、先人はその想いを波伝谷という言霊に託した。仮設住宅、復興団地が近くに建設され、本殿以外流された戸倉神社は再建し、国道沿いの津波の碑も移築された。海沿いに国道の嵩上げ工事が進んで風景は変るが、計画論やコンセプト探しも必要なく、神社が街を守って導いていくという不思議な感銘を受けた。
以前泊まったことのある民宿で、どうしても思い出せない場所があった。防波堤の道路を挟んだ民宿で、港の突堤に魚釣りに行った記憶だけが残る。震災直後は半島の先に行けなかったが、ようやく当時の風景を思い出した。それは静かな志津川湾をはさんだ波伝谷の対岸にあった。もうすでに集落はなく、高台には新しい民宿があり再建された様子であった。
震災は記憶をも風化させるが、若い世代がそれを呼び起させてくれる唯一の希望である。
南三陸の復興工事を見てひとつ気になることがある。
ほとんどの漁村が嵩上げ整地を選択し、土砂を集落近くの山から採取して海岸に積み上げる例が多い。職住近接の意味では仕方ないが、適地選定を誤れば、海から見る三陸の風景がすっかり変わってしまう。津波は海辺と街だけでなく里山もうばってしまい、海を育てる素地をも失ってしまう。何もできなくても知らぬふりすることなく、この地域に街ができ人がもどるまで死ぬまで見続けるだろう。