海渡る石と島の貨幣経済

Katzu

2012年03月10日 11:48


 石は古代から貨幣価値を持っていた。
金・銀・ダイヤモンドの希少性が現代の貨幣価値の基準となった。
南洋では、日本から南に3,000km、ミクロネシア ヤップ島の
ストーンマネー(石貨)が有名である。



パラオにも石貨があった。
それはヤップに運ぼうとして残されたものであった。
その話は島の伝承として残り、まぎれもない史実であるが、
どうも解せないことがあった。
暮らしの豊かでない島から、祭祀や高価なものを求めて、わざわざ
500kmも離れた島へ、クリ舟一つで、命を掛けてまでも採取に来るだろうか。
石貨は石英を加工したもので、ヤップには無いもので、
パラオに残存するものも石英であったが、
中央の切口は近代の削岩機を使ったような精緻なものだった。



 パラオから飛行機で1時間、ヤップに渡り調べると、
その謎は少し整理することができた。
ヤップの集落は、ストーンパス(古い石畳の道)で繋がれている。
ほとんどは私有地で入れないが、南洋の環境そのものを感じる素敵な道であった。



その石畳の一部には、輝く石英の石もあった。
現在は産出していないが、以前は産出し路材として使われていた証拠である。
それが石貨として流通し掘り尽くされ、その後島の人口が増加するにつれ、
その石貨としての価値が高くなり、パラオまで石貨を求めて渡ったのだろう。
ヤップ人は、その石貨の歴史、ストーリー性で、石の価値を決めたという。
その口承文化が、もとの貨幣価値を維持することができた。
外国通貨の流通まで、悪貨は良貨を駆逐しなかった。



 パラオのアイライ州に残る精巧な円穴のストーンマネーは、
オーパーツ(Out of place artifacts)なのだろうか。
否、削岩機ができたのは、産業革命以降なので、恐らく、
明治時代の外国人が、ヤップへの商売目的か、
観光目的で造ろうとしたものと推測される。 ※1
それより、誰もが不思議に思うのは、パラオ人が自分の島の石を
はるばる取りに来る、変な人種をどう扱っていたのだろう。
現代社会の経済的な価値観の違いだけでは、説明できない。



ヤップの中心地に近い集落の石貨銀行は、縁石で区切られ
まるで、日本の整備された公園か道路のようであった。
一方の島の東の端の集落は、毎日島民が掃除する竹富島と
同じような習慣の残る、のんびりした集落であった。
良く手入れされた古い石貨群が、違和感なく集落の景観に溶け込んでいた。



 当時、パラオ公園のデザインイメージを考えていた。
しかし、当初、建物、植物などの各パーツや石一つも絵にできなかった。
実態を理解しなければ、イメージであっても絵にならない。
積み上げた経験と知識がなければ、設計はおろか、計画さえできない。
今までのものをすべて崩し、組み立てる作業を続ける必要があった。

石1個を計画・設計、提案するということはこういうことである。

※1 最近のWikipediaによると、19世紀後半、オキーフというアメリカ人実業家が、
   パラオで大量の石貨を製造し、ヤップに売りさばいていたという、
   島の文化と経済を搾取したひどい話が書かれていた。

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