大震災から1年

Katzu

2012年03月12日 18:47

 昨日、沖縄では10以上の震災関連イベントが行われた。
多くの被災した親子が、イベントに参加されていた。
世界中でも震災イベントや反原発デモが行われた映像が流れた。
この1年は、瞬く間に過ぎたが、あの日の出来事だけは、遠い昔のような気がする。
同時に、一生忘れることなく、個人が日本人として何ができるか、
を問われたような1年間でもあった。

震災ボランティアは百万人、義援金は500億円、
23年度の震災関連予算は4兆円に達した。
犠牲者は15,854人、行方不明者は3,167人という状況で、
震災後の相次ぐ余震7,000回、避難者は34万人、
県外避難者73,466人は全国に及び、山形県への12,973人が最も多い。
関西以西では、沖縄県が1,000人以上で最も多い。

 私自身は、2月末に沖縄で住居を探し、保証人の判子をもらいに
帰省した際に、震災にあった。
3月20日の那覇行きはキャンセルとなり、2か月間被災地と山形を往復した。
その間、走行距離は1万キロに達した。
被災調査から復興計画まで立てた。
1年間で沖縄と東北を4回往復して見続けたが、何も変わらなかった。



 名護で地震に関するセミナーがあり、
向かったついでに辺野古の海岸に寄った。
丁度、震災のあった午後3時前だった。
曇った海の色はライムグリーン、波も弱く、抗議活動も一段落し
人一人いない海岸の砂には、波紋が残っていた。
震災後の荒浜を思い出した。



数年前に、境界に擁壁と防護柵が設置されていたが、砂浜には
先日の野田首相の来島の際に造られた〝NOだ〟の文字が残っていた。

1頭のジュゴンがシンボルとなり、人間の政治や利権の思惑から
この環境が守られたとしたら、この日本も捨てられたものでないと思う。



被災地を離れるに従い、震災の影響は薄らいでいったが、
沖縄に来てその意識の高さに驚いたと、ツーリングの人が語っていた。

沖縄と福島、お互いに危険施設を背負わされた2つの県が、
これから、日本の将来を見据える鏡になることだろう。

関連記事