3日前の地震のニュースは、あの時の記憶とまだ終わらぬ現実を、
忘れてはならないと、背筋が伸びる思いであった。
大震災の経験を踏まえ、視点を変えて石垣島の街を見ると、
津波のつくった大きな歴史の真実が見えてくる。
1771年の明和の大津波は、島の人口を半減させた。
震災後は、特にこの大津波の調査研究が盛んになり、
調査、公演、ワークショップなどが地元でも行われている。
特に、ギネス記録にも載った津波高さ85.4mの信憑性については
否定意見が多く、地震規模による理論値では約30mとなるが、
伝承や現地の墓地や大石の所在から、30m以上あったと推測される。
より大きな地図で 明和大津波 を表示
現在は遡上波が、白保から名蔵湾に島の東西を抜けたという伝承は
否定されているが、白保北側の轟川を遡上し宮良湾に抜けたという証言もあり、
地図上の分水嶺は標高35mで、遡上可能な高さになる。
新空港の周辺は、最も津波が高かった地域で、この規模の津波が来た場合、
計画高を比較すると現空港よりその危険性は高い。
琉大中村研究室
各地に見つかる津波石についても、明和の大津波による石ばかりでなく、
さらに古い時代のものもあり、津波の歴史的証明は調査解析中である。
大浜崎原公園
旧村ごとの津波被害を見ながら、各集落を回ると、
東日本大震災の津波被害と同じ姿が浮かんでくる。
1、最も被害が甚大で、ほとんどの住民が死亡した白保村、宮良村、大浜村は、
平地で近くに避難する高台がない。
2、同じくほとんどの住民が死亡した平久保村、安良村、仲興間村は
海岸沿いの狭く低い土地の漁村で、避難する間もなく流された。
3、同じ条件でも桃里村、星野集落は被害者数が極端に少ない。
この状況は三陸、宮城の被災状況と似ている。
1は、石巻、仙台の都市部の被災状況と、2は三陸の漁村の状況に類似する。
一方、3のように被害の少なかった集落も存在する。
三陸の大船渡市綾里、普代村などは過去の経験が防災に活かされた例である。
石垣島東岸の星野集落は、人魚が津波から救った村として有名である。
津波が来る前に、打上げられた人魚が教えてくれた津波の話を信じ、
住民が山に逃げて助かったという素敵な伝説が残る。
これは、おそらく地震前に方向を失ったジュゴンが、打上げられ鳴いているのを、
住民が助け出し、その後、津波前に潮が引いたのを見て、住民がただならぬ予兆に
気付き、高台に逃げたものと推察される。
あるいは同じ伝承が既にあったのかもしれない。
この集落の上の標高20m地点は、大石が寄せ合う高台が数か所あり、
この辺まで津波が来たと思われる。
竹富島は、被害の大きい石垣島と黒島に挟まれながら、津波高は5m程度で、
伸びた石西リーフに守られる形になった。
海底地形の複雑な松島だけが、奇跡的に難を逃れた例に似ている。
八重山地方には、廃村に追い込まれた村が多い。
炭鉱の閉山、マラリヤなどによるものと思われていたが、
明和の大津波の影響も大きい。
北東海岸にあった安良村は単独で成立していた漁村で、陸地のインフラも
整わず、津波後は救助も困難で、その後自然消滅していった。
先月、ここの津波石が国の重文指定を受けた。
この廃村への道は雨でぬかるみ、途中で断念した。
八重山博物館
宮良の高台にある明和大津波の碑は、案内板もなく
農民から聞きながらたどりついた。
周囲を見渡せる眺望もさることながら、驚くほど立派な石碑が建立されていた。
この隣りには、周囲には存在しないタコラサ―の石という大石がある。
これもオーパーツの一つであるが、ここから周囲を見渡すと、大津波が
白保海岸から北の丘陵部を、横断していく様子が目に浮かんでくるようだ。
この下の集落に住む若者から市内で話を聞いたが、東日本大震災の時は、
『オジィの言った通り、丘にかけ登って海の様子をずっと見ていた。』
と、地元では避難場所として語り継がれている。
津波を避け、丘陵部に移転した集落があるが、その多くは廃村となり、
大浜、白保、宮良、平久保の海岸沿いには住民が戻り、
その後200年以上の集落の歴史を重ねている。
海岸沿いの新市街地を望むと、どうしても石巻の街の、
あの時の光景を思い出してしまうのである。
必然的な自然条件を再確認し、流された宮良殿内の史実を忘れず、
今後の防災計画に役立ててもらいたいと願う。