ヤンゴンに到着後、昔のよしみでJICA事務所にノコノコとあいさつに出かけた。
セキュリティの厳しい高層ビルにあり、怪しい身なりに関わらず、職員が対応してくれた。
自分の周囲にミャンマーに詳しい人がいなかったのは、それもそのはず、軍事政権下で、
これまでは職員さえ派遣できなかったのである。
ミャンマー民主化の波は、敬虔な無抵抗の仏僧と、学生により勧められた。
国内最大の仏教聖地であるシュエダゴンパヤーから、国民民主連盟NLDの本部に向かう。
現在NLDは反政府組織から最大野党になっているが、
国の民主化運動とは、一体どんな所から始まったのだろう。
街の人に聞くと、嬉しそうにその場所を親切に教えてくれたが、何度探してもわからない。
それは3度ほど通りすぎた古い建物にあった。
事務所内は暗く、奥では若い人を中心に討論しているようだった。
これから民主化の中心になる団体と、その発展をODAで支援する側の両極端の姿を見てしまった。
次の日、ヤンゴン大学に向かう。
かつて学生民主化運動の拠点となり、外国メディアも取材できなかった。
入口で外国人はだめですと言われたが、研究室の名前を言ったら入れてくれた。
広大な敷地は旧日本軍のビルマ方面軍司令部が置かれた所で、当時の建物も残されている。
近代のビルマの変化は、いつもこの場所から始まっている。
先日、オバマ大統領が演説した大学としても有名で、ここの学生のレベルは高い。
入口の構内図を眺めていると、流暢な英語でお困りですか、と女学生が声を掛けてきた。
専門的な話になり、実際研究室に案内されても困るので、礼を言って別れたが、
何よりも明るい未来を信じているような態度が嬉しかった。
現在は自由な雰囲気で、屋外のカフェテラスがビルマらしい。
大学から200mほど道を降りるとアメリカ大使館がある。
さらにインヤ湖沿いに行くとアウンサンスーチー女史の家がある。
彼女の家は湖に面する1等地にあり、この周辺はイギリス統治時代から計画された
都市郊外のグリーンベルトにあたる。
彼女はミャンマー国民だけでなく、欧米の婦人団体からの熱烈な支持も受け、
その日は、欧米人の観光バスが停まっていた。
彼女が、安全に軟禁生活を送れたのは、彼女の自宅が、学生民主化運動のヤンゴン大学、
引っ越してきたアメリカ大使館、背後のインヤ湖という環境に囲まれていたためでもある。
きれいな英語を話す観光案内の人にこの話をすると、彼もヤンゴン大学出身だった。
彼は『アウンサン将軍は上の世代の父親、スーチーさんは私達の母親なのです。』と語った。
この国の将来の話になると、彼は思い出したのか感動したのか、感情を抑えられない様子だった。
政治に全く関心のない今の日本の学生達に、彼らの態度と気持ちに接してもらいたいと思った。
一般のビルマ人は日本人に対し総じて好意的で、多くの期待感を持っている。
日本人とわかると、こびることなく、英語と知っている日本語の単語から、
何とか会話をしたいという純粋な気持ちが伝わってくる。
こちらから話を切り出せば、学生から中年のおばさんに至るまで、
今まで接触できなかった日本人に対し、実に真面目に接してくれる。
我々の生活を良くするにはどうしたらいいか?
何から手をつければいいか?
民主化の方向はでこれいいのだろうか?
スーチーさんは日本でどう思われているか?
ジャパンマネーが入った後、通貨チャットの価格はこれからどう動く?とか、
酒場やバスの中、街角でさえ、そんな質問を受けるのであった。
言論の自由の加速度は早く、市内の雑誌の量からもそれが推察される。
バス停を探して、湖を半周するとベンチが等間隔に並んでいる土手があり、
傘をさしたカップルが隠れて戯れていた。
疲れてベンチを探したが、ようやく1つ見つけた。
スーチーさんの裏庭でなんとふしだらな、というより、37℃を越える灼熱の中でも、
民主化の波はこんな解放に進んでいるのだ、熱すぎる。
帰りのバスで、たまたまイギリス大使館の職員と一緒になった。
彼は民主化の状況を快く思っていると同時に、イギリス大使館の古い植民地時代に
作られた建築物を維持することの苦労を語った。
旅の途中では、日本軍と戦ったイギリス人の老兵グループをよく見かけた。
この国は西欧の列強に翻弄されながら、今度は西欧の民主主義をスパイスに、
熱く新しい国づくりがようやく産声をあげようとしている。