変化するミャンマーの生活環境

Katzu

2016年03月20日 10:17


      Opium Museum

ミャンマーの近代化はヤンゴン周辺の経済関連ばかりではない。
マンダレーは北部の中心都市で、3年前に比べると街の構造は
変わらないが、人々の生活は大きく変化しつつある。



街にはバイクが溢れ、至る所で渋滞が発生するようになった。
信号交差点は増えたが、総合的な交通制御が必要な都市になった。
以前目にした自転車タクシーのサイカ―はほとんど見かけなくなった。
ホテルは増えサービス面は向上したが、多くの料金が値上げしていた。




3年前、ヤンゴンではまだ路上電話サービスが主流で、
若者はカメラ・時計替わりに中古の携帯を使っていた。
現在、街で働く者のほとんどはスマホを持ち、
シェアタクシーも客のやり取りを走りながら連絡しあう。
これは都会のマンダレーに限ったことではなく、
外国人の入域が制限されるシャン州でも同様であった。



高級ホテル以外WiFiのなかったニャウンシュエの
宿泊施設は利用可能が常識となった。
若者は特に敏感で少数民族パオ族のガイドは、何千人ものFBの
友達を登録し、ガイドする時以外は『いいね』ボタンを押しまくっていた。



ミャンマーではこの3年間でスマホ普及率が0から30%になった。
若者たちは世界と結びつき特に観光部門で収入を増やす一方、
日本や外国に子供を送り出す親や教師が心配しているのは、
都会の夜に埋没して行くことである。



都会の発展とは裏腹に取り残されるのは農村で、
都市近郊でも水道・電気もない集落も多い。

貧富の格差問題は先進国より深刻である。
彼らは自然とともに生きていくことで生業を成立させてきたが、
中国による上流のダムや鉱山の開発、気候変動による干ばつ
洪水被害の最大の被害者でもある。




ミャンマーは産業の育成、インフラ整備だけでない生活環境の整備が
貧困問題、少数民族問題を闇から光に変える鍵を握っている。




少数民族の経済を影で支えてきたのは大麻である。
政府の掃討作戦やJICAやNGOの生活支援策も功を奏し、
作付は制限され、ドラッグ撲滅の啓蒙も行われるようになった。
しかし、医療用の生産もあり完全になくすことはできず、
現在も生産量は世界一といわれる。


   Hill tribe Museum

アヘン戦争以前から大麻の需要先は中国であり、雲南からの業者が
ミャンマーの山岳地帯で生産させ、輸入した暗く長い歴史がある。
その集積地点となったミャンマー・タイ・ラオスの国境地帯は
ゴールデントライアングルと呼ばれ、交通の要所でもあり
利権の争奪の舞台でもあった。あたかも悪の巣窟のような
イメージがあるが、現在は地名となり観光地となっている。




3年前にインレー湖畔の村に行って衝撃をうけたことがある。
山の上に行こうとしたら小学生ほどの少女が道を案内してくれた。
一本道になりお礼を言うと、マニ-と、か細い手を出してきた。
その顔は無表情で目はうつろだった。
パラオでも大麻栽培地で育つ児童が常習者になるケースがあった。


      ボーウィン石窟

ミャンマーの観光地の売り子のしつこさは有名で、
道を聞くとガイド料と言ってきた子もいた。
ミャンマーは仏教国で托鉢の習慣が浸透しており、
仏の身として施しを受けることは宗教行為である。


        ティーボ―

その施しの区別のつかない子と、労働力として子を働かせる親が
いると、やがて児童虐待、人身売買に繋がっていく。
はじめは良心的に行ったことが、観光客がこづかいとしてあげた
5ドルが親の1日の稼ぎと同じことを彼らは知ることになる。


       インワ

今回このような子たちが減った原因は生活の向上だけでなく、
観光ガイドが職業として登録制となり、州指定、国指定の資格を
習得しなければならなくなったことがあげられる。
その結果、働く子供達も単なる物売りでなく、将来大人同様に
観光ガイドになれるように、英語で説明できる子供も増えてきた。



3年前は列車に向かって手を振り走ってくる子が多かった。
欧米系の婦人たちが子供達にお菓子をばらまくからであった。
路線は違うが今回は与える人も受ける子供もいなかった。



婦人方が道義的なことを理解したこともあろうが、
生活が少し豊かになった証拠でもある。
ミャンマーは軍事政権時代の闇から光がさし始めたが、
さらに長い歴史の闇から抜け出るには、農村部の
特に少数民族の教育・労働環境を整えることが不可欠だ。





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