2012年07月21日

沖縄の稲作文化

沖縄の稲作文化

 沖縄本島の屋嘉では、サトウキビ畑の隣で、稲刈りが行われていた。
本島の稲作は珍しく、ニュースにもなった。
県内の産地は、八重山、伊是名、伊平屋、本島北部が有名である。
JAでひとめぼれの八重山産の新米が出ていた。
形は多少ばらつきがあり、粘りも少ないが、
新米ならではの香りがあり、あっさりとした食感であった。

沖縄の稲作文化

 沖縄の稲作の歴史は、玉城の受水・走水が発祥の地とされているが、
弥生時代の稲作の遺構は確認されていない。
中国の古文書には、『伊平屋は米を産する最も佳なり』とあり、
8世紀には既に米を産していたようだ。
沖縄の稲作は、この時代に大和人との交流も盛んになったため、
九州経由で弥生文化の稲作がもたらされたと考えられてきた。
しかし、本土で弥生時代の遺跡から、熱帯ジャポニカ米のDNA組織が
見つかったことから、従来の朝鮮半島ルートでなく、
中国江南→琉球→九州南部の、柳田國男の黒潮ルートが見直されている。

 琉球王府はこの島を、尚巴志の祖先という位置づけだけでなく、
食糧供給地として長く重宝していた。二期作になったのは、
昭和に入って台湾からの品種が持ち込まれてからと言われている。
その後昭和30年代に砂糖の価格が高騰し、県内の米作農家はサトウキビに
変わっていく中で、この島の稲作は残った。

沖縄の稲作文化

 かつて最も本土に近かった伊平屋島。
この島の北部の田名(だな)という集落を検証してみる。
この集落景観は、本土の農村と全く同じである。
山を背後に控え、山際の湧水を利用した集落が形成され、田園を見渡す位置にある。

沖縄の稲作文化

 この島が豊かなのは、米を産する水が豊富であるからである。
いくつかのガ―(湧水)があり、その下流側の湿地がため池の機能を果たしている。

沖縄の稲作文化

 海までたった1kmの河川にこれだけの流量の水が流れる。
この集落は飢饉のない、たぐいまれな自然環境に育まれてきたのだろう。

沖縄の稲作文化

港は1km西の海岸にあるが、半農半漁というより、
農業のウェイトが高いのは明らかである。
民族歴史資料館に行くと、漁労文化より農耕文化が発達したことが良くわかる。
この島は地理的にも大和に近いが、それ以上に大和の水稲文化が最も根付いた
豊かな農村であることがわかる。

 では、熱帯ジャポニカ米はどこにいったのだろうか。
沖縄では米を『クミ』と発音し、久米島はかつて米の産地であった。
その語源は、熱帯水稲作の起源のクメールだとも言われている。
もし、熱帯ジャポニカ米の古代米が沖縄で確認されれば、
以下の仮設が成り立ち、稲作の歴史が変わってしまう。

 熱帯の水稲が中国江南から古琉球、九州へ伝播し弥生水稲文化を築いた。
その後8世紀頃、琉球王朝の成立と時を同じく繁栄したクメール王朝と
大和王朝から稲作技術が逆に沖縄に伝播した。
クメール寄りの久米島稲作は途絶え、
廃藩置県後も、大和寄りの伊平屋稲作文化は残った。

 稲刈りは、バインダーで行い、共同で作業にあたる。
内地との稲作文化の違いは、二期作のほかは、稲刈り後の干し方である。
通常はハセ掛け、オニホ掛けが一般的であるが、こちらはガードレール掛けである。
道路管理者がどなりこむことも、盗まれることもなく、イチャリバチョーデ―みな兄弟、
テ―ゲー主義の、実に沖縄的な稲作ルールである。

沖縄の稲作文化

 東北地方の最も美しい時節と風景は、黄金色に輝く稲の収穫の時だが、
沖縄にも同じ風景と文化があることに驚いてしまった。
沖縄を異国と感じる前に、この場所を初めに見るべきだった。
田名の農村景観を目の前に、暑くほてった頭でそんな想いを強く持った。

沖縄の稲作文化




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