2013年06月20日
パワースポットブームと安須杜

最近、沖縄はパワースポットブームで、本屋に行くと、雑誌も含め多くの本が出版されている。
その内容を覗いてみると、沖縄の地を擬神化し、自己と結び付ける解釈の仕方に呆れるとともに、
SFのような寓話を組み立てる想像性に感心してしまう。
テレビでも放映され関心が集まっているが、特番が組まれたりすると、
地元の祭事に関係ない人達が、御嶽に入り神具など持ち込んた例も多い。

国道58号宇嘉付近より
安須杜は琉球開闢7御嶽の一つである。その根拠になった17世紀に編纂された『中山世鑑』は、
王朝の正当性を大和神道に結び付け解釈したという指摘もあり、必ずしも島の歴史を綴ったものでは
ないが、沖縄の始祖アマミキヨが降り立った地ということになっている。
首里城に近い斎場御嶽と久高島が、王府の最高位の聖地であることは間違いないが、
辺境の辺戸御嶽が、なぜ沖縄最高の聖地と呼ばれるようになったのかずっと疑問を抱いていた。
日琉同祖論者か、大石林山株式会社の策略とさえ思え、南のニライカナイ信仰に比べ関心がなかった。

伊平屋島より
復帰間もない頃、この地に興味を持ったが、地元の人からは崖の登りでハブがいて危ないと聞かされた。
その後数十回となく通り過ぎたが、男子禁制で会社所有なので入れないという話も聞いた。
この安須杜(アシムイ)と呼ばれる辺土御嶽を意識したのは、
西の伊平屋島の名蔵墓から辺戸岬を望んだ時だった。
日出る場所にこの地はあった。
琉球王朝の成立に深い関わりのある北部の島と本島とのつながりを強く意識した。
同時に、八重山の南方のパイパティローマや本島のニライカナイ信仰とも異なる、
大和のアマテラス信仰や稲作文化との共通性に気がついた。

辺土岬より
辺戸岬に立ちなぜか思い出すのは、サイパンのバンザイクリフと背後のラストコマンドの岩山である。
島の北端の荒涼とした景観はどこか似ている。自然の雄大さを感じるというより、その歴史を振り返ると、
海の断崖と背後にある岩山が、より寂寥感を引き立てるのである。
島民にとっての辺戸御嶽は、本州最北部の恐山か、山岳信仰の出羽三山のような、
地の果ての死地に近い、語ってはいけない信仰の地であったのかもしれない。

国道58号を北上し、宜名真集落から旧道で辺土に向かう茅打ちバンタの峠は、
大岩の切通しで、この聖域の入口にあたる。
辺戸岬からの景観も圧倒的であるが、もう一つの辺戸御嶽の玄関は、鬼門の方角の宇佐浜にある。
海岸近くには墓地があり、海と集落、御嶽を結ぶ弔いの道があったことは容易に推測できた。

宇佐浜より
案内もない登り口から、歩いていくと幾つかの新しい拝所があるが、入らず通り過ぎる。
拝所は祈る所で香炉以外は何もなく、見る所ではないのでなるべく入らないようにしている。
鎖とロープ伝いに標高差120mの崖道を30分ほど登ると、稜線に出て、御嶽の頂上に着く。

ハイキング客が一人いただけで、当初心配していた、観光客も宗教団体もいなかった。
拝所はもちろんあったが、そこは空中に放り出されたような、蝶の舞う狭い頂の空間であった。
北の与論島から、伊平屋島、伊是名島、本部半島、与那覇岳のやんばるの森まで360度見渡せ、
水平線に、日の出日の入り、月の出月の入りを拝めることのできる特別の場所であった。


きっと北の旅人は、この山を目当てに沖縄を目指したことだろう。
南の旅人は最果ての地の景観に手を合わせたことだろう。

山から降り振り返ると、覆いかぶさるような山塊の大きさに圧倒された。
安須杜は特定の拝所を指すのではなく、山全体が神聖な御嶽であることが理解できる。
やんばるが世界遺産に登録されても、斎場御嶽のような施設を造らず、
パワースポットブームに流されることなく、安須杜の自然と景観をそのまま残してもらいたいと願う。
もし、この地にパワーなるものが存在するのなら、それは、この場所を誰にも教えたくない程、
このままであって欲しいと感じる、人の心であるのかもしれない。
Posted by Katzu at 20:26│Comments(0)
│沖縄
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