2014年08月23日
国境のアンガマとムシャーマ
台湾の阿美族の豊年祭を廻った一週間後、その花蓮市から200km東にある八重山に渡った。
果たして、豊年祭は黒潮を乗り越え伝わったのであろうか。
石垣島では旧盆(ソーロン)の3日間、アンガマが行われる。
アンガマは各地区の7つの青年会が、それぞれの地区の施設と決められた家を受け持つ。

迎え日は中心街のユーグレナモールから始まり、既に多くの観光客が集まっていた。
あの世(グソー)から来たウシュマイとンミーを、踊りで迎え入れる。
踊り子(ファーマー)達は顔を隠している。サングラスで隠すこともある。

沖縄民謡は、世界的に見てもかなり特異な音楽である。
本島の強い影響もあるため、台湾から八重山に渡海した人はその違いに驚くはずだ。
ファーマーの唄と踊りを見て、花笠踊りと庄内の化け物祭りに似ていると感じた。

200km離れた隣の台湾より、2200km離れた東北に近いと感じたのである。
近代の歴史と国体を共有した事実は、距離以上の文化的共通性を生んだのだろうか。

アンガマのハイライトは、あの世のウシュマイとこの世の観客との問答である。
公開なので外国人が英語で質問していたが、沖縄の祭事は祭儀と祭りがうまく分かれている。

この後、青年団は市内の家を訪問する。
本島の道ジュネにも似ているが、個人宅で1時間ほど、計5軒ほどの
家を移動しながら、唄踊りを夜遅くまで披露する。

夜中街を歩けば、どこからともなく太鼓の音が聴こえてくる。
港のホテルで別の青年団のアンガマに出会う。

これを繰り返す内に、道路が渋滞し太鼓と歓声が聞こえてくる。
地域で活動する創作エイサーのグループであった。

エイサーは沖縄本島の芸能であるが、今や県下全般に広がっている。

同じ亜熱帯の台湾の自然環境は沖縄に似て、動植物もほぼ同じ種類のものが生息する。
収穫も同じ時期のため、海を隔てた豊年祭は、時同じくして行われている。

旧盆の中日に、波照間島の豊年祭ムシャーマが行われた。
波照間島の個性は、パイパティローマ伝説と流刑島としての閉塞された歴史にある。

豊年祭は 来訪神ミルクを迎え入れ、五穀豊穣と祖先供養を行う。
ドラを合図に唄と踊り、仮装行列が3部落ごとに公園を回って会場に入る。

この仮想行列の最後に、フサマラと呼ばれる土と草に身を包んだ土着人の集団がいる。
宮古島のパーントゥや東北のナマハゲのような出で立ちを思い出すが、
来訪神はミルクなので、彼らは来訪神とともに来た南海の蛮族の位置づけなのであろう。

棒術や太鼓踊りが披露され、桟敷席の役員に対しニンブチャー(念仏踊り)の輪になる。
ニンブチャーは本土から伝わったとされるが、頭目を中心とした村の重鎮に対し、
輪になり踊る形態は、台湾少数民族のものと全く同じなのである。

台東縣成功鎮宜灣
祭りを盛り立てるのは獅子舞である。

獅子舞は中国から伝わったとされ、台湾でも祭りの日に街を練り歩いていた。

台東市内
午後は謡と踊りを中心とした奉納芸が次々に行われた。
波照間のムシャーマは、祭り全般に竹富島のタナドゥイを思わせる内容だが、
南の島に憧れるパイパティローマ伝説と、閉塞された環境ゆえの土着性は
波照間島だけのもので、その魂は台湾を超え南洋へと続いている。

島の最南端の碑に立ち西を望むと、台湾は雲に隠れていた。
年に数回見えると聞いたが、夕日は台湾山脈に落ちて海への落陽は見られない。

人類学的にモンゴロイドとオーストラロイドの境界とさえ言われるこの200kmばかりの海峡は、
黒潮が多くのものを分け隔ててきた。一方で、同じ温暖湿潤な自然環境を共有しつつ、
黒潮の運んだ南洋文化を受け継いできた。

かつては日本の一部として戦争前後に交流の合った両地域であるが、多くの誤解を生んできた。
台湾から八重山を巡って感じたのは、お互いが相手のことを知らなすぎる事実である。
今夜、台東市と南風原町の高校生同士が浦添で民俗芸能を披露するが、
双方の理解は、若い世代の交流を出発点としてようやく始まったと言える。

果たして、豊年祭は黒潮を乗り越え伝わったのであろうか。
石垣島では旧盆(ソーロン)の3日間、アンガマが行われる。
アンガマは各地区の7つの青年会が、それぞれの地区の施設と決められた家を受け持つ。

迎え日は中心街のユーグレナモールから始まり、既に多くの観光客が集まっていた。
あの世(グソー)から来たウシュマイとンミーを、踊りで迎え入れる。
踊り子(ファーマー)達は顔を隠している。サングラスで隠すこともある。

沖縄民謡は、世界的に見てもかなり特異な音楽である。
本島の強い影響もあるため、台湾から八重山に渡海した人はその違いに驚くはずだ。
ファーマーの唄と踊りを見て、花笠踊りと庄内の化け物祭りに似ていると感じた。

200km離れた隣の台湾より、2200km離れた東北に近いと感じたのである。
近代の歴史と国体を共有した事実は、距離以上の文化的共通性を生んだのだろうか。

アンガマのハイライトは、あの世のウシュマイとこの世の観客との問答である。
公開なので外国人が英語で質問していたが、沖縄の祭事は祭儀と祭りがうまく分かれている。

この後、青年団は市内の家を訪問する。
本島の道ジュネにも似ているが、個人宅で1時間ほど、計5軒ほどの
家を移動しながら、唄踊りを夜遅くまで披露する。

夜中街を歩けば、どこからともなく太鼓の音が聴こえてくる。
港のホテルで別の青年団のアンガマに出会う。

これを繰り返す内に、道路が渋滞し太鼓と歓声が聞こえてくる。
地域で活動する創作エイサーのグループであった。

エイサーは沖縄本島の芸能であるが、今や県下全般に広がっている。

同じ亜熱帯の台湾の自然環境は沖縄に似て、動植物もほぼ同じ種類のものが生息する。
収穫も同じ時期のため、海を隔てた豊年祭は、時同じくして行われている。

旧盆の中日に、波照間島の豊年祭ムシャーマが行われた。
波照間島の個性は、パイパティローマ伝説と流刑島としての閉塞された歴史にある。

豊年祭は 来訪神ミルクを迎え入れ、五穀豊穣と祖先供養を行う。
ドラを合図に唄と踊り、仮装行列が3部落ごとに公園を回って会場に入る。

この仮想行列の最後に、フサマラと呼ばれる土と草に身を包んだ土着人の集団がいる。
宮古島のパーントゥや東北のナマハゲのような出で立ちを思い出すが、
来訪神はミルクなので、彼らは来訪神とともに来た南海の蛮族の位置づけなのであろう。

棒術や太鼓踊りが披露され、桟敷席の役員に対しニンブチャー(念仏踊り)の輪になる。
ニンブチャーは本土から伝わったとされるが、頭目を中心とした村の重鎮に対し、
輪になり踊る形態は、台湾少数民族のものと全く同じなのである。

台東縣成功鎮宜灣
祭りを盛り立てるのは獅子舞である。

獅子舞は中国から伝わったとされ、台湾でも祭りの日に街を練り歩いていた。

台東市内
午後は謡と踊りを中心とした奉納芸が次々に行われた。
波照間のムシャーマは、祭り全般に竹富島のタナドゥイを思わせる内容だが、
南の島に憧れるパイパティローマ伝説と、閉塞された環境ゆえの土着性は
波照間島だけのもので、その魂は台湾を超え南洋へと続いている。

島の最南端の碑に立ち西を望むと、台湾は雲に隠れていた。
年に数回見えると聞いたが、夕日は台湾山脈に落ちて海への落陽は見られない。

人類学的にモンゴロイドとオーストラロイドの境界とさえ言われるこの200kmばかりの海峡は、
黒潮が多くのものを分け隔ててきた。一方で、同じ温暖湿潤な自然環境を共有しつつ、
黒潮の運んだ南洋文化を受け継いできた。

かつては日本の一部として戦争前後に交流の合った両地域であるが、多くの誤解を生んできた。
台湾から八重山を巡って感じたのは、お互いが相手のことを知らなすぎる事実である。
今夜、台東市と南風原町の高校生同士が浦添で民俗芸能を披露するが、
双方の理解は、若い世代の交流を出発点としてようやく始まったと言える。

Posted by Katzu at 20:31│Comments(0)
│沖縄
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