街の史跡名勝を見ていて、その整備の方法に
違和感をおぼえることがよくある。
その場所が遺跡とわかると、様々な経過をたどる。
1、遺跡保存が学術調査で終了し、記録保存し宅地化する場合
2、遺跡遺物を移転し整備保存する場合
3、遺跡を復元し観光化する場合
4、都市施設として街づくりに利用する場合
このレベルは、遺跡自体の重要度のランクでもあり、
整備形態の選択の違いでもあり、法律上の解釈の違いでもあり、
補助金の掛け方によるグレードの差でもある。
学術的に価値が低いと判断されれば、1の記録保存で終了する。
2の場合は遺物を博物館などに移転し、遺跡を現地のまま保存する場合、
あるいは建築物などを改築・曳家・再築する場合がある。
問題は歴史的価値に関わらず、再興しようともくろんだ場合や、
観光目的で再現しようとした場合の3である。
全国各地の天守閣のほとんどはこの部類にあたる。
さらに、補助金を付け、公園などの都市計画施設の一部として、
公共的に利用できるように事業化する方法が増えている。
~遺跡として見学しても、その整備方法で全く違う性質のものが完成する。
首里城公園は正殿をシンボルにしているが、
周囲の環境整備、景観整備が重要なポイントである。
遺跡整備を左右するのは、ものの配置である。
特に宗教施設は、拝む側、拝まれる側の方向が、全体のデザインを決める。
箱物をただ作ったり、決められた場所に納めただけではいけない。
最終的にはその配置と周囲の景観を合わせなければならない。
しかし、事業の性質上、土地の担保が図られなければ、それは実現されない。
そして中途半端な整備の結果、管理も行き届かず、訪れる人も少なく荒廃していく。
宮古島に、仲宗根豊見親(トゥイミヤ)という15世紀に
この地を統治した権力者の墓がある。
国指定の有形文化財で、石積み技術も高度で、
国内では見事な墳墓デザインである。
彼の地に埋葬された島主は、海を見渡す位置にここを選んだはずだ。
残念なのは、墓の前は幹線道路が整備され、その先の海は
港湾整備されコンテナヤードになっている。
区画整理や都計道路で参道が消えたり途切れる事例は数知れず、
遺跡や建造物だけが残り、周囲のビルに埋もれるケースもある。
詳細
伊是名城跡の第二尚氏の玉御殿は、公園として整備され、
その景観を際立てる配慮がなされていた。
一方、隣の伊平屋島にある琉球王朝の第一尚氏の先祖の屋蔵墓は、
南東の方向の海に正対したもので、墓は小さく質素なものであった。
この方向には辺戸岬の聖地安須杜(アシムイ)がある。
墓の周辺は自然の岩と低木に囲まれ、海に飛び出た祈る為だけの空間であった。
その自然なたたずまいにホッとしてしまった。
屋蔵大主という方は、権力者として巨大な墓を作るより、
村の灌漑施設を整備した方がいいと考えた名君であったのかもしれない。
このことが気になり、伊平屋村歴史民俗資料館に行った。
館内の古代展示物の脇に、
『最近、遺跡に石碑や墓石を新しく作って置いたりするが、
本来の遺跡整備とは違う。』という内容の説明書きがあった。
これは私も同感である。
再現した構造物がいくら立派であっても、それは観光のためであっても、
世界遺産に登録されたのは、石の基礎部分という首里城の例がある。
この島から琉球王朝が誕生したのなら、
ここも琉球王朝の重要遺跡の一つなのかもしれない。
これは単に世界遺産登録に対するアンチテーゼではない。
隠れたパワースポットなどと言うつもりもない。
海からこの場所を眺めるとその意味がよくわかる。
日本では遺跡整備というと建造物そのものを作り、
目立つ箱物に事業費をつぎ込むが、
なぜ、周囲の環境保全・景観整備に労力を注がないのだろう。
民俗資料館の館員から島の話を伺ってわかったことがある。。
八重山・宮古・慶良間の各離島が観光地化され、本来の輝きを失っていく中で、
この周辺の島が沖縄の原風景と環境を保っていられる理由は、
この島が本当の意味で豊かな島であったからかもしれない。