今年ようやく水俣病認定からはずれた患者を救済する判決が下った。
水俣病の公式認定から57年もかかったことになる。
水俣病は日本の環境問題を語る上では最も象徴的な公害であるが、
その知識は教科書で知る程度で、実際起きた背景も現況もよく理解していなかった。
水俣は熊本県の不知火海(八代海)に面し、入江が重なる風光明媚な漁村であった。
漁港を望む高台には航海の安全を願う金毘羅様を祭る神社があり、
古くから漁業が営まれていたことが確認できる。
この村の歴史は、明治41年にチッソ(株)の前身の日本窒素肥料(株)の創立とともに変貌をとげる。
日本の化学工業界をけん引するまでに成長したチッソは、戦後の食糧事情を改善するという、
政府の国家的使命を全うしながら、メチル水銀を海に排水し続けた。
現在も残る三面張りの古い排水路を見ると、潮汐に関わりのない喫水線が残り、
かつての排水汚濁がいかに激しかったかがよくわかる。
昭和31年に奇病が確認され、昭和33年にマスコミが水俣病を報道し、医学的にも証明されたが、
国がこの病気の存在を認めたのは、10年後の昭和44年であった。
その後の環境汚染対策はどう行われたか。
1.水質汚濁防止法に基づく水銀の排水規制
2.水俣湾への汚染魚を封じ込める仕切網の設置
3.チッソによる漁業補償
4.高濃度の堆積汚泥の除去、鋼矢板セル打設による護岸築堤し
湾内を埋め立てる環境復元事業を進めた。
チッソが負担しきれない事業費の4割にあたる180億円を県と国が折半した。
5、1996年、41haの埋立地に広域公園エコパークが整備される。
現在整備された海辺の公園と港湾施設は、鋼製の外壁で汚染土の流出を抑えているが、
腐食が目立ち修復の時期に来ている。
この間、補償救済と環境保健対策は平行して行われた。
1996年、チッソとの紛争終結、国・県に対する訴訟が取り下げられ、
2009年、未認定患者に対する水俣病救済特別措置法が成立した。
現地には水俣病資料館、水俣病情報センター、環境センターが併設され、
公害の歴史の教訓と学習、監視、研究を行う拠点となっている。
熊本県下の児童は必ず一度は、環境教育のためここを訪れるという。
センターの担当者から話を聞いていると、当時のつらい過去が今も深く心に残っていることがわかる。
水俣病が判明した当時、電車が水俣を通ると、乗客が列車の窓を閉めるようなことが続いたという。
水俣の人々は、長年の風評被害や差別の目に会いながら、ようやく漁業を再開し、美しい風景が
取り戻されたが、まちは補償や裁判の過程で引裂かれながら、過疎化の波にさらされている。
しかし、その教訓は活かされず、また同じ悲劇は繰り返されつつある。
このチッソを、東京電力という言葉に置き換えると、東電の原発事故に対する対応と、
進行中の汚染水漏れに対する国の対応は、水俣病と全く同じ過程を踏んでいることがわかる。
港湾に流れ出たメチル水銀の汚染水を、放射能汚染水と置き換えて考えてみる。
原発周辺の環境復元事業は、企業が負担できない状況になり、始めて国が乗り出した。
今後は水俣の環境対策を手本に、汚泥浚渫、埋立て、保護、復元と同じような工程を進むだろう。
忘れてならないのは今後、放射能による被爆者の疾病が明らかになった時点で、
国の認定、被害者の東電に対する訴訟、裁判と進むことが懸念される中で、
水俣病の被害者救済に60年近い年月がかかったことを、当事者は教訓とすべきである。
これまでの福島原発事故とその対策は、国家的事業を担った大企業の体質と
国の危機管理能力の甘さは変わらず、水俣と同じ過程をたどっている。
これからの第二の悲劇が始まる前に、我々はもう一度、水俣に学び、見守るべきだと強く感じた。