震災5年後の原発から見えるもの

Katzu

2016年03月15日 14:51



福島第一原発の事故から5年経ち、ようやくその姿を見ることができた。
まるで、死ぬまで罹り続ける腫瘍を肉眼で確認したような思いであった。
3.11の日が近づくと自然に被災地に足が向いてしまうのは日本人として忘れてはいけない部分と、未だ自分の中で納得できない部分と、生活することだけで精一杯の人が大多数だったなか、個人的に仕事に集中できない時期だったこと、それで背負おってしまったこととは無関係ではない。



首都圏から朝一番の竜田行きの常磐線に乗り、いわき駅を
過ぎた頃には運動服の生徒以外は客もまばらになる。




実質的には東電により計画建設されたJビレッジは、
皮肉にも最も大きな原発事故の被害を被ったスポーツ施設で、
隆盛のサッカー人気と選手育成の期間を逃した功罪は大きい。
その先の楢葉町の竜田駅からは不通区間でバス代替運行となる。



国道の東1km先に福島第2原発が見える。
震災当時は地震で運転停止、津波で発電機は破砕したが、
第1原発との違いは原子炉がMark-2型だったこと、
外部電源がたった1基確保されたことだけだった。
すでに燃料移送は終えているが、東電は廃炉の決定を下していない。


            避難指示区域の概念図ー福島県

避難指示区域の富岡町に入ると、バスはほぼ満席でしかも
静かな緊張に包まれていることに気が付く。
話声すらなく線量計とシャッターの音だけが空虚に響き渡る。

避難指示解除準備区域とはその名の通り、原発事故の混乱が
招いた結果の、残念だが言い訳の立たない地域だと思ってきた。
しかし、徐々に人が戻り始めたこの地域が、各町の核となりジワジワ
核心部に浸透していくような希望であることも確かなのである。



居住制限区域から帰還困難区域に入ると状況は一変する。
立ち止まっても屋外にも出て行けない街は、1戸1戸の入口に
車が入れないようにフェンスで閉ざされている。




帰還困難区域への立入りは、原発関係者を除き制限されている。
原発より6km離れた常磐自動車道はすでに開通したが、
空間線量が高く通過のみで、早期開通に疑問視する声もあった。

原発よりわずか2kmの国道6号は通過するにも通行許可が必要で、
一般人が入れるのは朝夕2便のJR代替えバスだけである。

震災直後、政府見解や既定の数値さえも信じられなくなったが、
あらゆるメディア媒体を疑ってみることを賢明な国民は知ることになる。



福島第一原発の廃炉作業をするクレーンが見えてきた。
この高圧送電線とその先にあるものはもう必要ない。
50年後、街や周囲環境を変える大型発電施設は過去のものになる。

しかし、腫瘍の膿うみは出続ける。
除染廃棄物の仮置き場は現在の市街地の空間地を覆い始めている。
多額の復興予算はコンクリート工、配筋工の高騰で入札不調となり、
巨大な仮置き場の整地工事、排水工事の発注に向けられた。




さらに中間貯蔵場、最終処分場への移動を考えるとこのままでは
県内すべてが多い尽くされてしまうと思えるような異様な光景が続く。
住民ならずともこの光景を見ると、帰還困難の意味するものが見える。

国道6号の車内での空間線量は0.4~0.6μSvで、政府見解と同じく、
時間減衰により減っている。この状態でホットスポットの除染が進めば、
市街地で住める時期は早まるという希望が見えてくるが、知らぬ間に
周辺を住めない土地利用に転換される矛盾に声を上げるべきだろう。
人類の未来という殺し文句は、被災民にとって空虚に響くだけである。

毎年避難指示区域の街に入り、今回ようやく帰還困難区域の内側から
見えてきたものは、汚染区域が狭まるという一つの希望だけだった。




原ノ町駅には震災後停車したままの特急ひたちが痛々しく残された。
相馬駅まで列車を乗り継いだ後、亘理まで再びバス運行となる。
この区間は津波対策のインフラ工事が最も集中的に進む区間である。




仙台メディアアークでは、3.11イベントとして『記録と想起』をテーマに
中越地震の公開セミナーと卒業設計リーグが行われていた。
若者の想像がやっと創造に変わってきたような希望がここにもあった。




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