2013年01月13日
忘れえぬ街 その5
商農工住と変化する港町酒田

山形県酒田市は、江戸時代に出羽内陸地方からの最上川の船運と、
京から蝦夷への北前船が行きかう交通の要所であった。
その交易による港町は、西の堺に対し、東の酒田とまで呼ばれた。
庄内平野は、最上川と鳥海山、月山の水と、日本一の地主と言われた
本間家の水田により、豊かな農村を築いてきた。
戦後の農地改革により、さらに米作の生産性は向上し、
戦後の飢餓時代の食糧事情を支えてきた。
昭和40年代の高度成長時代には、5万トン岸壁の酒田北港や
工業団地が造成され、日本海有数の工業都市へと変貌しつつあった。
住軽アルミの立地や、電子産業の進出が相次ぎ、
本間ゴルフ、前田製管などの全国有数の地元企業も育った。
しかし、工業はオイルショックにより衰退し、撤退する企業も増えて行く。
その高度成長時代が終焉した頃の1976年に、酒田大火が起きた。
大火の知らせは、帰省する際の上野駅の新聞で知った。
市内の商店街22.5haを焼失する大火であった。

火は日本海からの風に乗って広がったが、北の寺町で方向を変え、
火の勢いが東の新井田川の方向に進んで行ったという。
この周辺は社寺の密集地帯であり、広いオープンスペースと大木が
防火の役目を果たしたのであろうが、
今でも地元の人と大火の話をするとこの御利益の話になる。

酒田の再開発は官民一体となり、県内のコンサルがかき集められ、
防災・緑道計画をコンセプトに、最短の2年間で街が完成した。
マニュアル通り進めると、このようなスピードで街はできないが、街の再興を願う
強い気持ちと、超法規的なものを認める行政の裁量が、それを可能にした。
阪神淡路大震災では、これを参考に比較的早期に完成できたが、
今回の東日本大震災では被災地が広すぎ、足並みをそろえる強力な力もなく、
まもなく2年がすぎようとしている。
震災復興区画整理事業の後、中町商店街の復興と再開発事業に関わったのは、
中央のある事務所だったが、当時のモール計画としては高い評価を得た。
しかし、その後の新住宅地の開発による人の重心の移動が、
商店街の衰退につながり、交通の不便を助長する結果になってしまった。
復興市街地の境界にある徳念寺の住職と話をしながら、
雪の降る対照的な新旧の街を見ていると、変化し続ける
街の歴史が頭の中を駆け巡って行った。

昔からこの街が好きで、海釣りに来たり、鳥海山に登ったり、
ラーメンを食いに来たりと、毎週のように来ていた時期があった。
その中でも、冬の田んぼに浮かぶ防風林のある集落の風景は、
なぜか自分の心象風景になっていた。
私の祖父は酒田出身だということは聞いていたが、
今まで興味もなく、どこの集落かも知らなかった。
正月に本家に行った時に、初めてその場所を聞いて納得した。
それは、酒田市の東の郊外の土崎という集落だった。
幹線道路から見ると、思い描いていた通り、
地吹雪の中から、駅舎と農村集落が浮かび上がってきた。

羽越本線の東酒田駅の隣の集落で、昭和初期に土地の有力者であった大伯父は、
駅を自分の家の前に引いたという話も、まんざら嘘ではないようだ。
現在も駅前には3軒の家が立っているだけで、周りには他の集落はない。
庄内地方には、平重盛の家来が落人となり、小松姓を名乗り移り住んだという
伝説を持つ集落もあり、自分のルーツさがしにも興味が湧いてくる。
その後の酒田は、東北大震災の時は日本海側からの中継基地になり、
交通の大動脈となり、現在も運輸業のつながりを保っている。
まちの姿も、商農工住と変化しながら、またルーツに戻り、
現在は商業・観光の街を目指している。

山形県酒田市は、江戸時代に出羽内陸地方からの最上川の船運と、
京から蝦夷への北前船が行きかう交通の要所であった。
その交易による港町は、西の堺に対し、東の酒田とまで呼ばれた。
庄内平野は、最上川と鳥海山、月山の水と、日本一の地主と言われた
本間家の水田により、豊かな農村を築いてきた。
戦後の農地改革により、さらに米作の生産性は向上し、
戦後の飢餓時代の食糧事情を支えてきた。
昭和40年代の高度成長時代には、5万トン岸壁の酒田北港や
工業団地が造成され、日本海有数の工業都市へと変貌しつつあった。
住軽アルミの立地や、電子産業の進出が相次ぎ、
本間ゴルフ、前田製管などの全国有数の地元企業も育った。
しかし、工業はオイルショックにより衰退し、撤退する企業も増えて行く。
その高度成長時代が終焉した頃の1976年に、酒田大火が起きた。
大火の知らせは、帰省する際の上野駅の新聞で知った。
市内の商店街22.5haを焼失する大火であった。

火は日本海からの風に乗って広がったが、北の寺町で方向を変え、
火の勢いが東の新井田川の方向に進んで行ったという。
この周辺は社寺の密集地帯であり、広いオープンスペースと大木が
防火の役目を果たしたのであろうが、
今でも地元の人と大火の話をするとこの御利益の話になる。

酒田の再開発は官民一体となり、県内のコンサルがかき集められ、
防災・緑道計画をコンセプトに、最短の2年間で街が完成した。
マニュアル通り進めると、このようなスピードで街はできないが、街の再興を願う
強い気持ちと、超法規的なものを認める行政の裁量が、それを可能にした。
阪神淡路大震災では、これを参考に比較的早期に完成できたが、
今回の東日本大震災では被災地が広すぎ、足並みをそろえる強力な力もなく、
まもなく2年がすぎようとしている。
震災復興区画整理事業の後、中町商店街の復興と再開発事業に関わったのは、
中央のある事務所だったが、当時のモール計画としては高い評価を得た。
しかし、その後の新住宅地の開発による人の重心の移動が、
商店街の衰退につながり、交通の不便を助長する結果になってしまった。
復興市街地の境界にある徳念寺の住職と話をしながら、
雪の降る対照的な新旧の街を見ていると、変化し続ける
街の歴史が頭の中を駆け巡って行った。

昔からこの街が好きで、海釣りに来たり、鳥海山に登ったり、
ラーメンを食いに来たりと、毎週のように来ていた時期があった。
その中でも、冬の田んぼに浮かぶ防風林のある集落の風景は、
なぜか自分の心象風景になっていた。
私の祖父は酒田出身だということは聞いていたが、
今まで興味もなく、どこの集落かも知らなかった。
正月に本家に行った時に、初めてその場所を聞いて納得した。
それは、酒田市の東の郊外の土崎という集落だった。
幹線道路から見ると、思い描いていた通り、
地吹雪の中から、駅舎と農村集落が浮かび上がってきた。

羽越本線の東酒田駅の隣の集落で、昭和初期に土地の有力者であった大伯父は、
駅を自分の家の前に引いたという話も、まんざら嘘ではないようだ。
現在も駅前には3軒の家が立っているだけで、周りには他の集落はない。
庄内地方には、平重盛の家来が落人となり、小松姓を名乗り移り住んだという
伝説を持つ集落もあり、自分のルーツさがしにも興味が湧いてくる。
その後の酒田は、東北大震災の時は日本海側からの中継基地になり、
交通の大動脈となり、現在も運輸業のつながりを保っている。
まちの姿も、商農工住と変化しながら、またルーツに戻り、
現在は商業・観光の街を目指している。
Posted by Katzu at 17:09│Comments(0)
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