2017年03月23日

忘れえぬ街 その9

戦後復興の観光地 :シェムリアップ


忘れえぬ街 その9

 カンボジア内戦が終わってもポルポト軍の残党がまぎれる北部は、地雷が残りまだ戦争の匂いがしていた。子供達の多くは親を失い、笑うことを忘れ無表情であった。10年前、アンコールトムのバイヨンを訪れた時、出口に子供たちが陣取り、抱えた水頭症の赤ちゃんを見せ金をねだってきた。あまりの唐突さに驚き、誰に向かっていいかわからない怒りをおぼえ、その場を立ち去った。後ろからののしる声と小石が飛んできた。子供達は生きるための観光という手段を知り、ようやく喜怒哀楽の怒りの部分を表現するようになってきた時期だった。

忘れえぬ街 その9

 一日歩き疲れ腰に違和感を覚え、宿に帰り相談すると、近所からマッサージ師を呼んでくれた。やってきた女性はあまり慣れてないらしく 徐々に痛みに耐えられなくなり、もういいからと飛び上がると、彼女は手を合わせひた謝りながら、他に何もできないので、と今度は唄を歌い始めた。恐らくそれ以外のサービスを求める日本人男性客がいるのだろう。その人間的な所作と子守歌のような唄にホロりとなった。

働くこと、学ぶこと、奉仕することが人も物もまだ発展途上だった。

忘れえぬ街 その9

 街の北8kmにあるアンコールワットは既に世界の観光地になっていたが、空港と国道と遺跡が結ばれている以外はインフラが未整備だった。
街は汚く異臭がし、マーケット以外は街灯や店も少なく、夜歩きは危険だった。街の魅力は乏しく、郊外の崩れ行く遺跡の持つ焦燥感と夕日の沈み行く無常感の対比が際立って美しかった。

忘れえぬ街 その9

この頃私は宅地の価値を生み出すだけの日本の街づくりに辟易としており、人間が本質的に生活するための街を見直すべきだと思うようになっていた。むしろ、ここで一個の地雷を除去し、一歩の木を植え、一本の水路を引き、一本の道を結ぶ方がよほど、人の為、未来の世の為になるだろうと思考が逆転した思い出の街だった。

忘れえぬ街 その9


当初はこの街の計画にも携わりたいとの思いが強かったが、その後パラオの案件がありこの街に関わることはなかった。しかし、その後都市計画の案件もなくなり、街はどうなっているかずっと気掛かりであった。

忘れえぬ街 その9

 アンコールワットは、ユネスコ始め多くの先進国の機関が遺跡の整備に協力し世界有数の観光地となった。その起点となるシェムリアップは同様に発展していた。シェムリアップ川の東側にあるサクラハウスから市内に向かう道は街灯一つなく夜はこわかったが、今では観光客向けバザールとなり川はライトアップされていた。

忘れえぬ街 その9

オールドマーケットは市場周辺を除けば10年前の面影はなく、まるで欧米の観光地に似せた観光客向けのパブストリートとなっていた。以前は国際電話の使える電気店をマーケット内で探したが、今回はモバイルSIMを求め郊外まで続く商店街を500mほど歩いた。

忘れえぬ街 その9

街は信号制御の必要な車社会に突入していた。
シュムリアップ州の都市部の人口はこの10年間で70%増加し、市の人口は18万人に達していた。表面上は、物乞いも減り市民生活も豊かになったかに見える。一方、アンコールワット遺跡の観光客は毎年10万人単位で増え続け既に400万人を越え、総量は今後も増え続けるだろう。

忘れえぬ街 その9

市内の商店街は中国・韓国など海外資本の商店、海外観光客向けローカルの土産・飲食店が増え、市民の生活感のない観光の街に変わってしまった。ローカルの土産店は、品ぞろえの少ない同じ種類の店が何十店も軒を連ね魅力に乏しく、同じ店へのリピーターは望めそうにない。中国人観光客が大半を占めるアジアの他の観光地も、同様の構造的欠点を持っている。

忘れえぬ街 その9

2月からアンコ―ルワット遺跡群への入場料が2倍近い37ドルになっていた。隣国のバンコクやホーチミンからの交通費と変わらず、隣国からの観光客の伸びは期待できない。それでも世界遺産の観光地はリピーターが増えなくても、他の地域から新たな客が押し寄せて来る。
シェムリアップから北東40kmにあるベンメリア遺跡に、2時間近くトュクトュクに揺られ向った。この遺跡はアンコール遺跡群から離れており、前回は地雷かサソリを踏むからと入場できなかった。

忘れえぬ街 その9

 ベンメリアは『天空の城ラピュタ』の題材になったと噂され、近年日本人観光客が増えたという。ドイツの調査団が長年修復を行っているが、再築をあきらめこのまま保存しようと園内通路を整備している。現在は中国人の観光バスが押し寄せていた。

忘れえぬ街 その9

アンコールワット以前に造り始めた同規模の遺跡で謎も多く、城壁が崩壊した廃墟の姿は口や絵では説明できない憎しみによる破壊力を感じた。この破壊の意味はタプロ―ムを始めとする他のアンコールワットの遺跡のように、時とともに朽ち果て忘れ去られた遺跡でも、アユタヤのように宗教上の破壊でもなく、ポルポト軍が宗教遺跡に係わらず陣地として利用破壊したためであった。

忘れえぬ街 その9


 帰路、運転手は嵐が近付いていると、雷の鳴る暗雲を指差して、集落間の近道を通った。砂埃の舞う未舗装の凸凹道で、昔ながらの農村風景が広がっていた。観光には無縁の農村は地雷がなくなった以外は大きな変化は感じられない。

忘れえぬ街 その9

途中、突然の風雨で大木の下に避難し、市内に戻ると街は浸水で大変な騒ぎになっていた。商店主は路肩の排水溝のゴミを取り除いている最中だった。

忘れえぬ街 その9

乾季にこれだけの豪雨は珍しいが、この短時間のスコールで宅地が浸水するほどの降雨量でもなく、その証拠に河川の水位は低かった。つまり道路の排水が機能していないのである。排水整備計画を行ったJICAの報告では、建物移転を伴う河川の整備が都市災害を軽減させたことになっているが、浸水の原因は地球環境の変化だけでなく、住民の意識向上と都市整備が急激な都市の膨張に追いつかない結果であることは疑う余地がない。

忘れえぬ街 その9

日本をはじめ欧米の各機関は、この遺跡の歴史的価値を住民に教え保存活動を行いながら、自立するための教育・インフラの支援を行ってきた。一方、観光計画だけでなく住民自ら、インバウンドに対応できるように街の美観と衛生の向上に務めるべきだった。
インフラ整備を進め住民のルールを育てる前に、初期投資の少ない目先の観光収入に飛びついた結果がこの街の現在の姿なのである。
住民が遺跡の価値に気付くと同時に、世界遺産の商業的価値を国内外の観光ビジネスが飲み込んでしまった結果とも言える。

忘れえぬ街 その9


 宿泊施設や飲食店、土産屋など観光に従事する労働者はほとんどが10代20代の若者で、すでに外国人客とコミュニケイトできる会話能力を身につけている。
川に目をやるとゴミだらけで夜以外はきれいではなく、その川岸にいる家族の姿は貧富の格差が広がった都市の疲弊を表しているものの、悲壮感のない子供の笑顔が戻ったことがせめてもの救いであった。

忘れえぬ街 その9







同じカテゴリー(忘れえぬ街)の記事
忘れえぬ街 その8
忘れえぬ街 その8(2015-08-17 02:31)

忘れえぬ街 その7
忘れえぬ街 その7(2014-06-18 16:39)

忘れえぬ街 その6
忘れえぬ街 その6(2013-11-17 02:25)

忘れえぬ街 その5
忘れえぬ街 その5(2013-01-13 17:09)

忘れえぬ街 その4
忘れえぬ街 その4(2011-08-28 00:30)

忘れえぬ街 その3
忘れえぬ街 その3(2011-06-10 23:35)


※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。