2015年02月04日
バスから見える生活環境
交通計画の妙は、ドアからドアのシステムに大量交通機関を機能的に配分し、
機関選択の自由度を増やし、サービスを高めるという目標にある。
しかし、交通経済学上は費用対効果の高い交通機関に特化した方が有利となり、
政策も重点的に整備する方針となり、利用者も同じ交通機関を選択する方向に向かう。

中量交通機関としての公共バスは、低炭素社会づくりと高齢化社会にむけた重要な
パーツであるばかりか、街の生活環境を映し出し、課題を紐解く近道にもなる。

景色や飲食だけでは満足しない旅行の醍醐味は、人と生活に触れることにある。
公共バスに乗ると、その国の日常生活を垣間見る機会が増える。

地方では学生と高齢者の利用が主体で、通学時間帯以外の乗客は少なく、
バスのみを移動手段とする高齢者だけという場合も多い。

仙台ではバスを待つ行列が歩道を塞ぎ迷惑だという話も聞いたが、
そんなことはなく震災の行列を思い出すまでもなく、
外国では見かけないほどに規則正しい。
空港から都会に来ると人種も増え、老人に席を譲る雰囲気もない。

沖縄のローカルバスは、昔からルースな雰囲気が微笑ましかった。
好きなテープを流し聴く離島の運転手、途中のパチンコ屋で無理に降りる婦人、
乗客と会話し停留所を過ぎたこと、間違って乗ったらまけてくれた…など。

しかし、交通環境が整い本土並みのルールとなった頃から、バス利用も減り
経営も悪化すると、バスに対する印象も悪くなった。高い運賃、注意される乗客、
時刻通りに来ないバス、やっと来て手を挙げると、今は挙げなくていいと言われた。
最近は外国人観光客が増え、乗降時にお互いストレスのある場面によく遭遇する。
状況にもよるが、間に入って説明してくれる人がもっと居てもいいと感じる。

アメリカの公共バスは、人もシステムも旧態依然として興味深いものがある。
ほとんどのバスは、降りる時は紐を引っ張り運転手に教える。
紐は横方向に引かないと鳴らない場合もあり、一つバス停を過ぎてしまうこともある。
初めての場所で、車内案内もない52番目のバス停で降りるのは至難の業だ。
その時はたった一言で済む。停留所名を言って〝Please let me know〟
地方ではバスシェルターにベンチ、時刻表がそろっているバス停は少ない。

乗客は若者と老人・中低所得者層が多く、高齢者の運賃が半額・無料の都市も多い。
車内の治安は悪くないが、無賃乗車をする人をよく目にした。
期限切れのパスで懇願し降りようとする老人、買物帰りの3人の子連れ主婦はまだいい。
バスの遅れをののしりながら、ふらついて乗り込んだ若い女性。
目はうつろで急に笑い出したり、話しかけたり周囲も迷惑そうだった。
誰の目にも明らかにラリったジャンキーだった。
しかし、バスが中心街に来ると、彼女は金も払わず追い払われるように降りたあと、
今度は背筋をピンと伸ばし、しっかりした足取りで立ち去った。
拍手を送りたくなるような見事な演技であった。
先日スーパーボウルの行われたアリゾナ州フェニックスでの出来事だった。

景色を見るより人を観察する方が面白くなってくる。
$札を見せて運転手と会話し、また降りる若者を何度か見かけた。
お金が足りないのではなく、乗る前におつりはないのかと交渉している。
車内ではおつりがないのは当たり前、専用カードでないと乗れない場合もある。
自転車も一緒に運ぶシステムは先進的だが、自分でバスの前にセットし
降車後も自分で取り外さなければならない。
これだけで100km先まで工事中のフリーウェイを走ることを思うと不安になる。

停車する前に立ち上がると運転手に注意される日本、
自己責任で安全を確認しなければならないアメリカ、
という公と私の対照的な構図が浮かびあがる。
公共交通機関に乗ると、その国の生活様式と公共の概念の違いがわかる。
これに公私を主張する中国を加えれば、これから訪れる
観光立国日本のグローバル化に対応する覚悟が見えてくる。
機関選択の自由度を増やし、サービスを高めるという目標にある。
しかし、交通経済学上は費用対効果の高い交通機関に特化した方が有利となり、
政策も重点的に整備する方針となり、利用者も同じ交通機関を選択する方向に向かう。

中量交通機関としての公共バスは、低炭素社会づくりと高齢化社会にむけた重要な
パーツであるばかりか、街の生活環境を映し出し、課題を紐解く近道にもなる。

景色や飲食だけでは満足しない旅行の醍醐味は、人と生活に触れることにある。
公共バスに乗ると、その国の日常生活を垣間見る機会が増える。

地方では学生と高齢者の利用が主体で、通学時間帯以外の乗客は少なく、
バスのみを移動手段とする高齢者だけという場合も多い。

仙台ではバスを待つ行列が歩道を塞ぎ迷惑だという話も聞いたが、
そんなことはなく震災の行列を思い出すまでもなく、
外国では見かけないほどに規則正しい。
空港から都会に来ると人種も増え、老人に席を譲る雰囲気もない。

沖縄のローカルバスは、昔からルースな雰囲気が微笑ましかった。
好きなテープを流し聴く離島の運転手、途中のパチンコ屋で無理に降りる婦人、
乗客と会話し停留所を過ぎたこと、間違って乗ったらまけてくれた…など。

しかし、交通環境が整い本土並みのルールとなった頃から、バス利用も減り
経営も悪化すると、バスに対する印象も悪くなった。高い運賃、注意される乗客、
時刻通りに来ないバス、やっと来て手を挙げると、今は挙げなくていいと言われた。
最近は外国人観光客が増え、乗降時にお互いストレスのある場面によく遭遇する。
状況にもよるが、間に入って説明してくれる人がもっと居てもいいと感じる。

アメリカの公共バスは、人もシステムも旧態依然として興味深いものがある。
ほとんどのバスは、降りる時は紐を引っ張り運転手に教える。
紐は横方向に引かないと鳴らない場合もあり、一つバス停を過ぎてしまうこともある。
初めての場所で、車内案内もない52番目のバス停で降りるのは至難の業だ。
その時はたった一言で済む。停留所名を言って〝Please let me know〟
地方ではバスシェルターにベンチ、時刻表がそろっているバス停は少ない。

乗客は若者と老人・中低所得者層が多く、高齢者の運賃が半額・無料の都市も多い。
車内の治安は悪くないが、無賃乗車をする人をよく目にした。
期限切れのパスで懇願し降りようとする老人、買物帰りの3人の子連れ主婦はまだいい。
バスの遅れをののしりながら、ふらついて乗り込んだ若い女性。
目はうつろで急に笑い出したり、話しかけたり周囲も迷惑そうだった。
誰の目にも明らかにラリったジャンキーだった。
しかし、バスが中心街に来ると、彼女は金も払わず追い払われるように降りたあと、
今度は背筋をピンと伸ばし、しっかりした足取りで立ち去った。
拍手を送りたくなるような見事な演技であった。
先日スーパーボウルの行われたアリゾナ州フェニックスでの出来事だった。

景色を見るより人を観察する方が面白くなってくる。
$札を見せて運転手と会話し、また降りる若者を何度か見かけた。
お金が足りないのではなく、乗る前におつりはないのかと交渉している。
車内ではおつりがないのは当たり前、専用カードでないと乗れない場合もある。
自転車も一緒に運ぶシステムは先進的だが、自分でバスの前にセットし
降車後も自分で取り外さなければならない。
これだけで100km先まで工事中のフリーウェイを走ることを思うと不安になる。

停車する前に立ち上がると運転手に注意される日本、
自己責任で安全を確認しなければならないアメリカ、
という公と私の対照的な構図が浮かびあがる。
公共交通機関に乗ると、その国の生活様式と公共の概念の違いがわかる。
これに公私を主張する中国を加えれば、これから訪れる
観光立国日本のグローバル化に対応する覚悟が見えてくる。
Posted by Katzu at 21:37│Comments(0)
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