2016年04月04日
人と環境を切り裂いた戦争

インドシナを回るうちに、多くの人と周囲の環境に関わりはじめると、
どうしても避けては通れない過去の歴史とその足跡に出会う。
大東亜戦争の主戦場になったミャンマー、特にインパール作戦では
戦闘に参加した兵士10万人のうちの約9割が戦死したとも言われ、
未だに遺骨収集が進んでいない地域もある。
日本軍の撤退したルート上には、慰霊碑が数多く残されている。

チンドウィン川の作戦上の集積地となったモンユワ、
その郊外の線路近くに慰霊碑が建てられている。
訪問者もなくゴミに埋もれているとガイドブックにあったが、
以前の写真よりはこれでもきれいに整備されていた。

有名なマンダレーヒルにある慰霊碑は夕日を背景に、近くの
パヤ-の仏様に夕日が当たると、慈愛が注がれるように
感じてしまう高台の一角にある。

慰霊塔が各地に建立されたのは、遺族会の努力の賜物であるが、
ミャンマー側の配慮があってこそ残され維持されてきた。
海外のモニュメント建設に関する問題の多くは権原の帰属にある。
ある土地は宗教に係わらずイスラム系の部族の土地にあるが
特に問題はなく借地していると聞いた。

ミャンマー人にとって田畑を荒らし橋や道路、宮殿、遺跡を壊し、
街は焼かれ、人の命をうばった戦争の記憶は、戦後も日本人に
対する憎悪として残されたという。
そしてその意識が変わっていったのは、かつての日本留学生や
残された日系の人々の真面目で平和的な態度であったという。

大東亜圏の夢と独立を旗印に、同じ仏教徒でもあり当初
日本軍は民衆に迎えられたが、ビルマ僧はその兵士の中に
戦争に参加する僧侶がいることに驚愕したという。

大英帝国の覇権主義と日本軍のファシズムをいち早く読み取ったのは
アウンサン将軍で、敗戦濃厚な日本軍を裏切り独立を勝ち取った彼は、
現在もミャンマーの絶対的な英雄である。
その遺志はやがて長女のスーチー女史に引き継がれた。
日本のおかげで独立し近代化に貢献したと言うのは詭弁で、
人と環境をうばった戦争は、民主化までの道のりを遅らせた。

ミャンマー・タイ国境に近いゴールデントライアングルにも、
古い寺院の隣りには供養塔が建立してあった。
こちらも風光明媚な国境を望む高台にある。

映画の『ビルマの竪琴』で描かれたように、敗残する日本兵の
辿った足跡は、ミャンマー各地からタイ国境地帯に至る。

経済も文化交流も盛んなタイでは、さらに博物館も整備されている。
チェンマイのムーンサ―ン寺院は、兵士の遺留品が展示されていた。
訪問した時は、休みにも関わらず若い僧侶が鍵を開けてくれ、
一緒に回って説明してくれた。

遺留品の多くは生活用品で、時が止まったようでもあるが、
兵隊の姿は今のタイの地には全くそぐわない気がした。

どうしてこんな戦争を起こし狂気に駆られてしまったのか。
問いに対する答えは、したり顔で語られつくすことはない。

Posted by Katzu at 21:16│Comments(0)
│アジア
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