震災復興計画その2

Katzu

2011年04月04日 20:46

未曾有の大震災のあと、まちを計画、設計してきた者はどんな感想を持ったのであろうか 
1000年に一度は想定外の確率だと言い逃れる技術者、
新しい防災基準と法規制を考え始めた者、
新しい街づくりビジネスの提案をしようとする者、
それぞれの立場もあるが、現況を自分の目で見てもらいたい。
 そして住人と共に、残されたまちの宝から新しいまちを創造してもらいたいと願う。

 1.閖上(ゆりあげ)の震災の丘 
 
 
  
 
  この地区は、一部のRC構造物を除きほとんど壊滅した。
 その中でひときわ目立つのは日和山である。
 その冨主姫神社は大正9年に湊神社から、盛土した高台に遷座されたという。

  津波は頂上まで達したが松と石碑が残った。

  この小さな丘が、嘉手納の安保の丘、普天間の嘉数高台のようなランドマークとして、
  
                          そして、閖上の復興のシンボルとなってほしい。


  2.貞山堀と防潮林



 伊達正宗が造ったと言われる運河と防潮林が残った。
この運河が津波を止めることはできなかったが、運河の左岸右岸では被害状況が異なった。
津波の第一波の減衰効果はあったと考えられる。
さらに防潮林とともに引潮の際の防波堤となった。
海岸とこの運河には残骸と多数の遺体が残されたという。

 そもそもこの運河は、通商のみならず、防災避難路を兼ねていたと言われている。
海沿いに集落を造らず、内陸に仙台城をかまえ運河で海を結んだ、
伊達正宗の都市計画は、津波を想定したものだったのだろうか。

 人の命は助けられなかったが、防災計画の基本に適っている。
豊臣秀吉、武田信玄なども同じく、   
                         名将は都市計画の天才である。

  
  3.松島の五大堂
  
 
 慈覚大師円仁が五大王を安置し、
伊達正宗が創建したと言われる
国の重要文化財である。
松島湾の最奥部にあり、津波の
回折により破壊されたかと思われた。
しかし、写真の通り大きな被害は
なかった。

 松島は地震の地殻変動により生
れた地域であるにもかかわらず、
正宗は過去の津波の経験から、
安全な瑞厳寺を墓所にしたのだろうか。




  4.女川の寺社


 私が今まで調査した中で、最も甚大な津波のエネルギーを受けた地区である。
アパートが倒れ、電車が流され、舟が屋上にぶら下がり、力学で証明できないような瓦礫ばかりの廃墟である。
その中で目を引くのは丘にある寺社である。
集落の寺社は過去の津波の教訓のためか、高台に建てられたものが多い。
津波の高さと同じ、標高20mにあるこの神社もかろうじて倒壊をまぬがれた。

全壊した指定避難所でなく、神社に逃れた人はこれを知っていて助かったのだろうか。


  5.お墓


 
 被災地でいつも不思議に思うのは、お墓が残されていることである。
これは津波が周囲を流し去った跡に墓地だけが残されたものだ。
能登半島地震の直後、石碑の倒壊調査に行った。
街の家屋、石壁は崩壊しているのに、墓石は大丈夫であった。
これには訳があった。
地震直後に檀家の人達が、家より先に墓石を起こしにきていたのである。

 自然災害の多い日本の村を再生してきたのは、先祖を敬う心があったからかもしれない。

 防災基準の理論づけと規則化は必要であるが、神格化してはいけない。
                            
 防災計画は経験工学である。

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