2011年08月06日

終戦の季節 アブチラガマ

 甲子園、お盆、終戦と日本の夏は過ぎていく。
戦争を知らない世代も、お盆に殺生をしていけないと
婆さんから聞いたこと位は、頭の片隅に残っている。
沖縄では、那覇新都心のおもろ町付近から人骨、銃弾が見つかるなど、
その戦争体験は今だに進行中である。

 自分にとっては、大震災直後の被災地が戦後の風景であった。
あの匂いと絶望感、焦燥感は2度と忘れまい。
被災地には震災公園や、慰霊碑を整備し、記憶にとどめるべきだろう。

 戦争の記憶が残る糸数のアブチラガマに行った。
戦時は集落の避難場所だったが、南風原陸軍病院の分室となり、
軍民が雑居し米軍の攻撃を受けた悲劇の壕の一つである。
現在は平和教育の一環として紹介されているが、
日本人として一度見学することを勧める。

沖縄の人でも、知らなかったり、怖くて行けないさ―、と言う人は多い。
ガイドさんをお願いする。
でないと、暗い洞窟のただの探検になってしまう。
懐中電灯は必携である。

終戦の季節 アブチラガマ

 洞窟内はひんやりして水音も聞こえる。
しかし、終戦の年、この270mのガマは当時600名以上の負傷兵で
埋め尽くされていたという。
もう地上にでることのない一番奥の重病患者のエリアには、
言い知れぬ淀んだ空気が今も漂っている。
当時は人いきれで暑く、臭気がひどく、呼吸も苦しかったであろう。

 ライトを消し漆黒の闇へ。
目が光を欲し、何度もまばたきを繰り返す。
全く光のない世界など経験した記憶がない。
音を出すなと言われると、生きた気がしなくなる。

 爆発による残骸やかまど跡、井戸などを見て出口から地上に戻った。
そこは道路とさとうきび畑と太陽の別世界だった。
たった30分位であったが、太陽にめまいし、どっと疲れがきた。

終戦の季節 アブチラガマ


 昨年、パラオ、ペリリュー島の日本軍の地下壕を遺骨収集団と探索した。
地下壕はアブチラガマと同じ構造であった。
ただ、違うのは沖縄姓の手書き文字や遺骨、手榴弾、遺留品が、
まだそのままの状態で残っていたことである。

終戦の季節 アブチラガマ

終戦の季節 アブチラガマ

 1944年7月グアム、サイパンが玉砕し、9月のペリリュー戦では、
珊瑚礁の地下壕がゲリラ戦に有効であった。
その後の沖縄戦、日本軍は同じ地形の南部へと兵を進め、
同じ作戦をとり悲劇を生んだ。
恐らく、破壊された、あるいは埋められたガマは
まだ残っているのではないか。

地下と地上は、あの世とこの世のまま66年が過ぎようとしている。



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