2013年03月13日
ミャンマー民主化の熱風

ヤンゴンに到着後、昔のよしみでJICA事務所にノコノコとあいさつに出かけた。
セキュリティの厳しい高層ビルにあり、怪しい身なりに関わらず、職員が対応してくれた。
自分の周囲にミャンマーに詳しい人がいなかったのは、それもそのはず、軍事政権下で、
これまでは職員さえ派遣できなかったのである。

ミャンマー民主化の波は、敬虔な無抵抗の仏僧と、学生により勧められた。
国内最大の仏教聖地であるシュエダゴンパヤーから、国民民主連盟NLDの本部に向かう。
現在NLDは反政府組織から最大野党になっているが、
国の民主化運動とは、一体どんな所から始まったのだろう。
街の人に聞くと、嬉しそうにその場所を親切に教えてくれたが、何度探してもわからない。
それは3度ほど通りすぎた古い建物にあった。
事務所内は暗く、奥では若い人を中心に討論しているようだった。
これから民主化の中心になる団体と、その発展をODAで支援する側の両極端の姿を見てしまった。

次の日、ヤンゴン大学に向かう。
かつて学生民主化運動の拠点となり、外国メディアも取材できなかった。
入口で外国人はだめですと言われたが、研究室の名前を言ったら入れてくれた。
広大な敷地は旧日本軍のビルマ方面軍司令部が置かれた所で、当時の建物も残されている。

近代のビルマの変化は、いつもこの場所から始まっている。
先日、オバマ大統領が演説した大学としても有名で、ここの学生のレベルは高い。
入口の構内図を眺めていると、流暢な英語でお困りですか、と女学生が声を掛けてきた。
専門的な話になり、実際研究室に案内されても困るので、礼を言って別れたが、
何よりも明るい未来を信じているような態度が嬉しかった。
現在は自由な雰囲気で、屋外のカフェテラスがビルマらしい。

大学から200mほど道を降りるとアメリカ大使館がある。
さらにインヤ湖沿いに行くとアウンサンスーチー女史の家がある。
彼女の家は湖に面する1等地にあり、この周辺はイギリス統治時代から計画された
都市郊外のグリーンベルトにあたる。
彼女はミャンマー国民だけでなく、欧米の婦人団体からの熱烈な支持も受け、
その日は、欧米人の観光バスが停まっていた。

彼女が、安全に軟禁生活を送れたのは、彼女の自宅が、学生民主化運動のヤンゴン大学、
引っ越してきたアメリカ大使館、背後のインヤ湖という環境に囲まれていたためでもある。

きれいな英語を話す観光案内の人にこの話をすると、彼もヤンゴン大学出身だった。
彼は『アウンサン将軍は上の世代の父親、スーチーさんは私達の母親なのです。』と語った。
この国の将来の話になると、彼は思い出したのか感動したのか、感情を抑えられない様子だった。
政治に全く関心のない今の日本の学生達に、彼らの態度と気持ちに接してもらいたいと思った。

一般のビルマ人は日本人に対し総じて好意的で、多くの期待感を持っている。
日本人とわかると、こびることなく、英語と知っている日本語の単語から、
何とか会話をしたいという純粋な気持ちが伝わってくる。
こちらから話を切り出せば、学生から中年のおばさんに至るまで、
今まで接触できなかった日本人に対し、実に真面目に接してくれる。
我々の生活を良くするにはどうしたらいいか?
何から手をつければいいか?
民主化の方向はでこれいいのだろうか?
スーチーさんは日本でどう思われているか?
ジャパンマネーが入った後、通貨チャットの価格はこれからどう動く?とか、
酒場やバスの中、街角でさえ、そんな質問を受けるのであった。
言論の自由の加速度は早く、市内の雑誌の量からもそれが推察される。

バス停を探して、湖を半周するとベンチが等間隔に並んでいる土手があり、
傘をさしたカップルが隠れて戯れていた。
疲れてベンチを探したが、ようやく1つ見つけた。
スーチーさんの裏庭でなんとふしだらな、というより、37℃を越える灼熱の中でも、
民主化の波はこんな解放に進んでいるのだ、熱すぎる。

帰りのバスで、たまたまイギリス大使館の職員と一緒になった。
彼は民主化の状況を快く思っていると同時に、イギリス大使館の古い植民地時代に
作られた建築物を維持することの苦労を語った。
旅の途中では、日本軍と戦ったイギリス人の老兵グループをよく見かけた。

この国は西欧の列強に翻弄されながら、今度は西欧の民主主義をスパイスに、
熱く新しい国づくりがようやく産声をあげようとしている。
Posted by Katzu at 20:50│Comments(0)
│アジア
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