2014年08月17日

海の民が交流する豊年祭

 台湾アボリジニが注目されるのは、山岳民族の個性的特徴を持つ自然人類学的解釈と、
オーストラロイドの海洋民族的な文化人類学的解釈が必ずしも一致していない点にある。

海の民が交流する豊年祭

 近年は各地に原住民文化村があり、旅行者は手軽に少数民族芸能を見ることができる。
経済的に生活を支える術は必要であるが、この形式が苦手なのは、見世物という後ろめたさが
あることと、本来の祭りが芸能だけでなく祭儀という2面性を持つためであろう。
芸能が確立されていくと、民俗芸能はやがて個人のショービジネスに取り込まれ形骸化していく。

海の民が交流する豊年祭

そんな危惧を払拭させてくれたのは、台東縣太麻里のパイワン(排灣)族の豊年祭であった。
パイワン族は台湾南部の狩猟部族で、首狩り、入れ墨などの歴史・伝統を持ち、
現在は山地から海岸近くまで居住範囲が広がっている。
日本統治時代は霧社事件以降、低地部へ強制移住させられた経緯がある。

海の民が交流する豊年祭

各部落の豊年祭は既に終わり近くで、4部落合同の祭りが大王国小学校で開催された。
天気予報では昼過ぎに台風10号が直撃することは確実な状況で、
バスで会場に着いた時には既に風雨が強まっていた。

海の民が交流する豊年祭

祭りの内容は部落対抗運動会で、日本統治時代の形態が残されているとはいえ、
黒を基調とした民族彩色の応援団の踊りは、まさしく南方系の乗りなのであった。
既に100m走の中央には水が溜まり、1着でゴールした人に比べ、
遅い人はまだ半分しか走っていない。商品はなぜかチリ紙であった。

海の民が交流する豊年祭


役所がスケジュールを管理し各部族の交流が目的であるから、これも集落のコミュニティの
在り方としては正しいと思いつつ、もう一方の祭儀の痕跡を求め集落を歩き回った。

海の民が交流する豊年祭

集落の入口には祭りを示すのぼりが立っていた。太麻里のはずだが大麻里とある。
大麻の里ではイメージが悪いので後から変えたのだろうか、どうかはわからない。

海の民が交流する豊年祭

ガジュマルの大木をさがすと、巴拉冠という集会所をみつけた。女賓止足とある。
これは大洋州全般にある男子だけの祭事場(メンズハウスと呼ばれる)であろう。
パラオでは覗いた女性が石になったという伝説がある。
中を覗くと空気が生温かく、焚き火を中心に寝泊まりし祭儀に使われた様子であった。

海の民が交流する豊年祭

表の皮は恐らく祭事に用いた猪か豚であろう。
中国語で豚肉は猪肉と呼び、大洋州の豚肉文化も元々は猪と思われる。

海の民が交流する豊年祭

午後からますます風雨が強くなり、祭り会場の隣りでは国軍の災害準備も始まっていた。
この状況では間違いなく中止になる日本の祭りとの違いは、楽しみ歓待するハレの場の前に、
神に捧げ祈る祭事が一連の流れで進行していたためである。
パイワン族の豊年祭は紛れもない南洋の祭事であった。

海の民が交流する豊年祭
 アミ(阿美)族は最も人口規模の大きい部族で16万人を超え、
東海岸の平野部に移住し、他の種族と融合し都市生活を送る人も多い。

海の民が交流する豊年祭

歌と踊りの得意な部族と言われ、年齢階級組織と母系社会が特徴である。
衣装は母を表す赤が基調となっているが部落・年齢により異なる。

海の民が交流する豊年祭

台東縣成功鎮重安は玉石の美しい海岸沿いの集落である。

海の民が交流する豊年祭

豊年祭は博愛国小の敷地内で行われた。
祭りは頭目を先頭にした踊りで始まった。

海の民が交流する豊年祭


来賓天幕ではごちそうが振る舞われ、開放的でフレンドリィな印象を受けた。

海の民が交流する豊年祭

通訳して祭事のことを教えてくれた方は、どうぞ輪の中に入って下さいと勧めてくれた。
多くの人から、子供も含め握手を求められた。

海の民が交流する豊年祭

豊年祭の中の迎賓は、他部族や来訪神を迎える祭事的な意味合いもある。

海の民が交流する豊年祭

ビンロウが回ってきた。
東海岸はビンロウヤシが多くある程度は予想できたが、石灰と葉を売る店も多く、日常的に
噛む習慣があることは知らなかった。ビンロウは大洋州から東南アジアにかけて生育し
その実は興奮・覚醒作用があり、酒とともに長い祭りを過ごすための強壮剤でもある。

海の民が交流する豊年祭

青空の下での、高齢者の多い町内会の祭りのような雰囲気であった。
若者は少なく酒を注いだりする引き立て役であった。
腰の排鈴は神聖かつ厳粛なもので、祭事の踊りで喜びを表す時だけ使用される。



海の民が交流する豊年祭

次の日に訪れた宜湾部落は、海山川に囲まれた風光明媚な集落であった。
この地区は1900年頃に既に日本の派出所や国民学校ができた経緯がある。

海の民が交流する豊年祭

集落の雰囲気や郊外の風景はどこか懐かしいものがある。

海の民が交流する豊年祭

若い人も多いが、重安部落と比べ厳粛で緊張した雰囲気が違った。
狭い集会所で行われた踊りは、祭事の中心の焚き火を囲み、
周りの年長者に対して踊りと唄を奉納するスタイルで行われた。
日本でも焚き火は雲を呼ぶ雨乞いの儀式に用いられる。

海の民が交流する豊年祭

今までと違い、祭りをカメラで収める人は身内以外いなかった。
祭事は秘匿され受け継がれた伝統でもあり、それは観光とは相いれない一面もある。
役所の方は問題なく交流することが目的なので、気を配ってくれた。

海の民が交流する豊年祭

踊りや唄の習得は大変だろうと質問すると、唄は自然におぼえ練習などはしない
と言いながら、踊りに合わせ歌い始めた。

海の民が交流する豊年祭


台湾アボリジニは、南洋との交流があったことは紛れもない事実で、
山から降りてきたのか、それとも海から山に逃れたのか。

海の民が交流する豊年祭

閉ざされた山の民と言われた高砂族は、実は祭事によって他の部族と交流しつつ
互いに影響されながら、オーストラロイドとして交流していったのであろう。



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Posted by Katzu at 23:46│Comments(0)アジア
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