2017年04月05日
ファランがつくるアジアの街
タイ人は西洋人、特に欧米系白人を総称してファランと呼ぶ。日本では日本人以外は、ひとくくりに外人と呼んでも特に差別意識はないが、このファランという言葉はちょっとニュアンスが違う。ベトナム戦争を含め戦後住みついたアメリカ人の退役軍人がファランだった時代から、現在はバックパッカーやリタイヤ移住組がファランと呼ばれている。
仮にファランに交じり一緒に酒を飲んでいても、タイ人からすればセルビア人やコロンビア人はファランでも、あなたはコンイ-プン(日本人)よ、ということになる。外国人はファランと日本人に分かれ、最近はそこに中国人、韓国人が加わったという。日本は戦後もタイに大きな影響力を持ってきた訳で、良い意味でも悪い意味でも日本人は特別な(変わった?)人種であると認識されている。
確かに都市のインフラだけでなく、バブル期までのバンコクのパッポン通りやパタヤなど夜のイメージを作ったのは日本人で、そのため後ろめたさもありスクンピッド界隈の日本人社会にも今まで接点がなかった。東南アジアというと、未だにいかがわしいイメージで捉える人は、最近のアジアの発展を知らないだけで、むしろモラルやタブーは宗教感のない日本の方が崩壊している。

東南アジアには、ファランがたむろする街が各地に存在する。
ファランの多くは都市部の長期滞在者だが、魅力ある地方には長期旅行者、バックパッカ―が集まる。人の集まる人気の街は、すたれながらも移動していく。そのスタイルは、昔は長髪ヒッピー、現在はタトゥ―ファッションの若者たちが多い。

彼らの選ぶ街は、自然に囲まれある程度の居住環境が整った小規模の街である。タイは外国人居住に寛大で、多くの企業誘致も積極的で、同じく観光ビジネスも発展してきた。開発の専門家が外国人の居住適地を探す前に、ファランが心地いい宅地を探して住んでいるという解釈もできる。
4年前、チェンマイの内陸環境が日本的でリタイア組の居住地として注目された。しかし今や都市化が進み、大気汚染、車の渋滞、地価の高騰、観光客の増大により、都市部ではのんびり静かな環境を取り戻せそうにない。旧市内に無数に増えたゲストハウスも頭打ちで、ナイトマーケットも以前の雰囲気はない。
彼らは何処に行ったのだろう。

彼らのトレンドはさらに山道で3時間、北西140kmにあるパーイの集落に移っていた。パーイ川の流れる盆地の中心にあり周囲を山に囲まれミャンマー国境にも接し、シャン族、リス族などの少数民族の割合も高い。観光といえばバイクツーリングとトレッキングと温泉くらいであるが、標高550mの土地はバンコクにはない朝夕の涼しさがある。
大都会を逃れ避暑に行くのはタイ人も同じで、州北部のメ-ホンソンの丘にあるワット プラタートでは雲の上の朝日を見に来たと、バンコクから来た学生が言っていた。

街の川沿いには竹.木造の洒落たバンガロー型ゲストハウスが連なる。決して高級ではないが、昼は静かで木々の中で田圃が残るアジア的農村風景が裏手に広がる。

その後、増えるゲストに合わせるように、街は飲食店、土産屋が増え、コンビニ、ATM、ツアーデスクが現れ、定期的なナイトマーケットが開催されるようになった。アジア各国のナイトマーケットは、日本全国を回るテキ屋と同じで地域の個性が薄れ、国内観光客はすでに興味を示さない。通りを歩くのはほとんどが外国人観光客であった。

パーイの夜間人口は3万人だが、昼間人口の半分以上は外国人だろう。一方、インバウンド効果で海外観光客が増えるとインフラが必要になり、旧日本軍が造ったパーイ空港を整備し、一時途絶えた定期便が乗り入れするようになった。
ファランが歓迎されるのは経済効果をもたらすためだが、街の自然な発展とは合い入れない側面がある。
計画的な街と違い、交通インフラと街のルールが整わない場面が多く見られる。河川の整備がなされないまま河岸にゲストハウスが立ち並び、雨期には浸水被害が顕著になった。ファラン達の昼の生活は、癒しの景色と静養に飽きるとレンタバイクで郊外に出るようになる。
彼らはかなりの割合で足に包帯を巻き松葉つえを突く者もいる。道路の陥没や未舗装路での転倒事故が絶えない様子で、集落に大きな病院は1院しかない。街中では夜遅くまでミュージックバーが営業し騒ぐため、規制がないままに静かな集落の相隣環境も一変している。

ファランの語源は、ベトナムのフランス人(ファランセ)からきたという説もあるが、ベトナムの古都ホイアンもファランが作った街の典型である。世界遺産の街は古都の名の下に、外国人がプロデュ―スした観光地であることは計画する立場からみれば直ぐに見透せた。
その計画手法は
・ 街並みを同じ建物形式・同じ色で統一する。
・ メインの歩行者動線を歩専道にして通過交通を排除する。
・ 歴史的建造物と休憩エリアを同一スポットにして集客する。
・ 古い建物の更新、改築は新しい文化芸術の発信基地となる。
・ ウォーターフロントの開発。
・ ライトアップによる夜の街の演出。
・ 名物と食文化の拾い出し。
・ 教育機関とボランティア活動の連携。
・ 住人と街の統一的なイメージづくり。

この街が自然発生的に出来上がり、長い歴史を経て残され住民が保存したというのは表面上の話で、その背後には西欧の計算的な街づくり手法が取り入れられている。
ホイアンはこの街を訪れその魅力に気付いた観光客のファランと、この街を研究し世界遺産の指定を支援した研究者のファランと、この街を整備しコーディネートしたファランがいて、はじめて、地元の力を突き動かしこの街が出来上がったと見るべきだろう。

Posted by Katzu at 22:49│Comments(0)
│まちづくり
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