2017年05月03日
非武装中立地帯の街づくり
都市計画は軍事理論から派生したものだが、戦後の日本では戦争に加担する科学や知識・技術は否定され、有事を見据えた街づくりなど考慮する人すらいない。

北部ベトナムを旅すると、寺院に比して墓地が多いことに気が付いた。ベトナム戦争での死者数は、ベトナム人800万人、うち民間人は450万人、その後の枯葉剤による死者や行方不明者を加えれば、戦争前の人口が4千万人程度なので約20%の国民が亡くなったことになる。太平洋戦争での日本の死者数は310万人で国民の5%が亡くなっていることを考えれば、沖縄戦並みの局地戦が全国で起きたような凄惨な戦争であったといえる。

アメリカ軍による北爆は、223万トンの爆薬と1000機以上の航空機の損失という史上最大の無駄使いであった。ハノイは北爆の目標ではあったが、インフラ破壊が第一で、ソ連の支援による対空防御が強固で米軍の航空機の損失が多かったと言われる。

その爪痕はハノイの軍事歴史博物館で見ることができる。国威発揚とは言え、ベトナム戦争の歴史だけでなく庭には米軍機の残骸がそのまま展示されている。特にベトナム戦争の象徴とも言うべきUH-1ヒューイは、米軍の中心的ヘリコプターで、その多くが撃墜され放棄された。

ラオス国境近くのホーチミンルート沿いには、戦争の痕跡が今も残る。DMZ近くで激戦となった米軍のケサン基地は、撤退当時のヘリや輸送機が残り屋外博物館となっている。

戦闘壕は土嚢だけでなく、内側は鉄板をI型鋼で抑えていた。

北爆下で人々はどんな集落を作り、生活していたのだろう。
戦時下の村が、フエ北部のかつての非武装中立地帯(DMZ)近くに残されている。ベトナムのDMZ(De Militarized Zone)は北緯17度線のベンハイ川沿いの地帯である。現在DMZと言えば、主に南北朝鮮半島の国境地帯のことを指す。

ピンモック村は旧国境の17度線の少し北側にある漁村で、敵の上陸と爆撃に備え、村から海岸までトンネルで通じている。そのトンネルの配置は網状というより、人々がすぐに1か所に集まり、四散できるような構造になっている。

地上の移動は塹壕が張り巡らされ、実際歩いてみると、かくれんぼの時のように敵の鬼の動きがよくわかる。

この村は爆撃がある時は地下に潜り、長期生活が可能であった。地上に住家はなく、出産や教育も戦時中は壕の中で行われた。
トンネルの高さは高さ170cm、幅1mほどである。つまり、6フィート以上の太ったGIは通れない。

ここは地下の都市空間でもあり、通路や集会所も含め、地下3階構造になっている。この複雑な地下空間を短期で構築できたのは、粘土層の地質のため柔らかく手掘りできたためである。
同じく地上戦が行われた沖縄でも地下空間を利用した自然のガマがあるが、琉球石灰岩は鋭利で堅く、手掘りでは自由に掘削できない地質であった。

このDMZの村から学ぶべきことがある。
都市の基本は、防御と避難である。
その意味においてこの村はよくできている。
少なくても、敵が来ても集まれず、逃げる場所もわかない平和日本の街より、システム上は強くできている。

ベトナムの街は、間口が狭く奥に長い、いわゆるウナギの寝床の宅地形状に、1、2階建てのモルタル・レンガ造の家が張り付き、家の間には所々に狭い小路が通っている。背後に田園の広がる農村も同様で、家は狭く違和感をおぼえる。その理由は社会主義的な最低限の統一仕様とも、東からの台風対策のためでもあるが、外敵から身を寄せ守り、裏の農地や防空壕に逃げ込むにはこのシステムが一番強いことに気が付いた。これも戦争から得た知恵かもしれない。

日本の都市は、戦後の高度成長時代から経済的に大量に土地を生み出すことを目標に、格子状の道路に矩形の宅地を効率よく供給してきた。国や公団のマニュアル通りの計画が間違いだと気付いたのが大震災で、多くの計画屋は外敵(津波)から守り、一堂に安全な場所に避難するという街づくりを怠ってきた。

津波対策にしても、高台移転、宅地のかさ上げ、大防潮堤、国道の高盛り土は、地域によっては必要であるが、津波(敵)が来たら、公園の山(防空壕)に避難するという防御・避難の街づくりを基本にするべきだったと思う。

街の中心のシンボル公園を中心に扇形に街区を設計したことがあるが、道路は曲線となり街区点が増え、実施に至るまでは多くの説明と理解が必要であった。ヨーロッパの中世都市のように、敵が近づけば城塞で守り、街の中心広場に最短の道で集まり合議し、四散する道を確認できる都市構造は、防御と避難に強い街なのである。

日本でも城を中心とした城下町の街づくりシステムが見直される時代が、いずれ来るかもしれない。
北朝鮮のミサイルが発射されても実感がなく、最も安全であるはずの地下鉄が停止し、メディアに右往左往するだけの今の日本は本当に平和なのか、憲法記念日の今日、想う。


北部ベトナムを旅すると、寺院に比して墓地が多いことに気が付いた。ベトナム戦争での死者数は、ベトナム人800万人、うち民間人は450万人、その後の枯葉剤による死者や行方不明者を加えれば、戦争前の人口が4千万人程度なので約20%の国民が亡くなったことになる。太平洋戦争での日本の死者数は310万人で国民の5%が亡くなっていることを考えれば、沖縄戦並みの局地戦が全国で起きたような凄惨な戦争であったといえる。

アメリカ軍による北爆は、223万トンの爆薬と1000機以上の航空機の損失という史上最大の無駄使いであった。ハノイは北爆の目標ではあったが、インフラ破壊が第一で、ソ連の支援による対空防御が強固で米軍の航空機の損失が多かったと言われる。

その爪痕はハノイの軍事歴史博物館で見ることができる。国威発揚とは言え、ベトナム戦争の歴史だけでなく庭には米軍機の残骸がそのまま展示されている。特にベトナム戦争の象徴とも言うべきUH-1ヒューイは、米軍の中心的ヘリコプターで、その多くが撃墜され放棄された。

ラオス国境近くのホーチミンルート沿いには、戦争の痕跡が今も残る。DMZ近くで激戦となった米軍のケサン基地は、撤退当時のヘリや輸送機が残り屋外博物館となっている。
戦闘壕は土嚢だけでなく、内側は鉄板をI型鋼で抑えていた。

北爆下で人々はどんな集落を作り、生活していたのだろう。
戦時下の村が、フエ北部のかつての非武装中立地帯(DMZ)近くに残されている。ベトナムのDMZ(De Militarized Zone)は北緯17度線のベンハイ川沿いの地帯である。現在DMZと言えば、主に南北朝鮮半島の国境地帯のことを指す。

ピンモック村は旧国境の17度線の少し北側にある漁村で、敵の上陸と爆撃に備え、村から海岸までトンネルで通じている。そのトンネルの配置は網状というより、人々がすぐに1か所に集まり、四散できるような構造になっている。

地上の移動は塹壕が張り巡らされ、実際歩いてみると、かくれんぼの時のように敵の鬼の動きがよくわかる。

この村は爆撃がある時は地下に潜り、長期生活が可能であった。地上に住家はなく、出産や教育も戦時中は壕の中で行われた。
トンネルの高さは高さ170cm、幅1mほどである。つまり、6フィート以上の太ったGIは通れない。

ここは地下の都市空間でもあり、通路や集会所も含め、地下3階構造になっている。この複雑な地下空間を短期で構築できたのは、粘土層の地質のため柔らかく手掘りできたためである。
同じく地上戦が行われた沖縄でも地下空間を利用した自然のガマがあるが、琉球石灰岩は鋭利で堅く、手掘りでは自由に掘削できない地質であった。
このDMZの村から学ぶべきことがある。
都市の基本は、防御と避難である。
その意味においてこの村はよくできている。
少なくても、敵が来ても集まれず、逃げる場所もわかない平和日本の街より、システム上は強くできている。

ベトナムの街は、間口が狭く奥に長い、いわゆるウナギの寝床の宅地形状に、1、2階建てのモルタル・レンガ造の家が張り付き、家の間には所々に狭い小路が通っている。背後に田園の広がる農村も同様で、家は狭く違和感をおぼえる。その理由は社会主義的な最低限の統一仕様とも、東からの台風対策のためでもあるが、外敵から身を寄せ守り、裏の農地や防空壕に逃げ込むにはこのシステムが一番強いことに気が付いた。これも戦争から得た知恵かもしれない。

日本の都市は、戦後の高度成長時代から経済的に大量に土地を生み出すことを目標に、格子状の道路に矩形の宅地を効率よく供給してきた。国や公団のマニュアル通りの計画が間違いだと気付いたのが大震災で、多くの計画屋は外敵(津波)から守り、一堂に安全な場所に避難するという街づくりを怠ってきた。

津波対策にしても、高台移転、宅地のかさ上げ、大防潮堤、国道の高盛り土は、地域によっては必要であるが、津波(敵)が来たら、公園の山(防空壕)に避難するという防御・避難の街づくりを基本にするべきだったと思う。

街の中心のシンボル公園を中心に扇形に街区を設計したことがあるが、道路は曲線となり街区点が増え、実施に至るまでは多くの説明と理解が必要であった。ヨーロッパの中世都市のように、敵が近づけば城塞で守り、街の中心広場に最短の道で集まり合議し、四散する道を確認できる都市構造は、防御と避難に強い街なのである。

日本でも城を中心とした城下町の街づくりシステムが見直される時代が、いずれ来るかもしれない。
北朝鮮のミサイルが発射されても実感がなく、最も安全であるはずの地下鉄が停止し、メディアに右往左往するだけの今の日本は本当に平和なのか、憲法記念日の今日、想う。

Posted by Katzu at 19:29│Comments(0)
│まちづくり
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