2017年04月18日
避難民の街づくり
日本人でつくづく良かったと思う瞬間は、平和を噛みしめた時と入国審査の時である。カンボジア入国の即日ビザ申請は長蛇の列となり出来上がるまで待たされるが、最初に呼ばれたのは、なぜか自分の名前だった。日本人はほとんど事前申請して問題がないためか、外務省の長年の努力の賜物なのかわからないが、少し優越感を感じた。国境であるはずの入国審査では、外国人の中には何度も再提出させられウロウロする人や、別室に連れて行かれる人もかなりの割合でいる。

世界中には入管エリアだけでなく国境を漂う人々がたくさんいる。なかでも国を追われ避難する人々は1040万人、関連するキャンプは128カ国にのぼる(UNHCR・2016)。そのうちシリア難民は500万人、タイには10万人のミャンマー難民がいる。

金正男暗殺事件に揺れた先月、バンコクのドンムーアン空港の入国審査は1時間ほど待たされた。チェンマイで乗り換えたKAN航空はAirline Ratingにもない地方航空会社で不安ではあったが、2時間遅れの出発で渡された軽食になぜか安心した。

この季節、タイ北部の山域は晴れた日も霞がかかる。光化学スモッグのようでもあるがPM2.5は50μg程度で、隣国昆明の3分の1にすぎない。この霞は、春先の野焼きの煙が主因で工業系煤煙ではないが、大規模火災のみならず空中の二酸化炭素の層は地球環境にも影響を与えている。

30分後、12人乗りのセスナは、山脈越えのエアポケットに驚きながらメーホンソン空港に到着した。

街の中心の湖のほとりにあるワットチョンカムに行くと、聞き覚えのある鐘の音が風に乗って聞こえてくる。ここからミャンマーの鐘の鳴る白いカックー寺院までは、わずか200km、同じ文化圏に入ったと意識させられる。

市内から北西に約30km、ミャンマー国境近くには人口12,000人のMai Nai Soiの難民キャンプがある。GoogleMapで見ると、乾いた山林地帯の一本道の先に突然稠密な独立住宅集落が現れる。集会所か学校のグランドらしきものもある。

ミャンマーは多数のビルマ族と、西部のロヒンギャ、東部のカレン族・カチン族との間に民族問題をかかえる。もともと山岳少数民族はミャンマー、タイ、中国にまたがる地域に住んでいるために、国境が民族を分断した結果とも言える。カレン族はサルウィン川のダム開発による強制移住と迫害を受け、ミャンマーからタイの山岳地域に逃れてきた。経済発展の名のもとに少数民族の土地がうばわれ、不毛の土地に追いやられる悲劇の構図は、どの大陸でも繰り返されてきた。タイ国内にある9キャンプの中でも最大のメラキャンプには、47,000人の難民が住んでいる。

難民キャンプは、防御、食糧、医療、教育に関する基本的な生活支援が、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)と海外NGOにより行われている。住宅は難民自ら建てる場合もあるが、その適地は政府の指示に従うことになる。難民キャンプは仮設の位置付けではあるが、UNHCRの計画基準に合わせる必要がある。グロスの計画人口密度は220人/ha(一人当たり45㎡)標準で、最低330人/ha(一人当り30㎡)で、都市の住居地域と比べてもかなり稠密である。

住居は一人当たり3.5㎡を基準としている。
住区計画は16家族を1コミュニティ単位として、16コミュニティを1ブロック基準とし、4ブロック合計5,000人を1セクターに、さらに4セクター合計20,000人を1住区としている。
学校は5,000人に1校、ヘルスセンターは20,000人に1か所としている(UNHCR Emargency Handbook)。
つまり、日本で認知されている近隣住区理論の2倍の居住密度ということになる。

カレン族の難民キャンプは過去にビルマ軍から攻撃を受けたこともあるが、近年の脅威は大火事と土砂災害、水害である。重機もインフラも整わない地でどんなメンテナンスをしているのだろう。

メ-ホンソンの国連事務所に、立入り許可の為の資料を持って出かける。所長が不在で翌日再び出向くが、予定の通訳兼務のタイ人が来られなくなったこともあり、バンコク事務所でしか受け付けないと一蹴される。最後の頼みだった日本人の所長はすでに退任していた。
替わりに、住居や集落形式は難民キャンプとほぼ同レベルのカレン族の古い集落を教えてもらった。

街の市場で行き方を尋ねるが、関わりたくないのか村自体の存在を知る人も少なく、トゥクトゥクを見つけ交渉する。彼の示す観光リストには目的の集落はあったが、あまり浮かない顔をしている。あとでその理由がわかった。

途中、竹橋で有名なSu Tong Pae Bridgeに寄る。この橋は自然景観の中にある橋としては、竹なので違和感なく自然に溶け込んでいるが、構造的には鉄パイプと波板で支えた新しい橋であった。

1時間ほど走ると、Long Neck Villadgeの古い板看板があった。何度かUNHCRのRVとすれ違うが、やがてトゥクトゥクでは登れない坂に差し掛かる。近くの村の青年に頼んでバイクに乗り換えNai Soiのカレン族集落に向かう。
その途中に難民キャンプの入口がある。ここからはタイ国内の国境でもあり、民間人は特定のNGO以外は入れない。

赤カレン族に属するパドゥン族は首長族とも呼ばれる。追いやられた痩せた土地は農作物が育たず、現在はミャンマー各観光地や、チェンマイ近郊の民族村に移り住み、特異な意匠を公開しわずかな観光収入で生計を立てている。彼らの処遇に悲哀を感じ、ファインダーを覗いたら、手織りのデザインと技術に見入り尊敬し、ストールを支援購入すべきだろう。

Nai Soiのカレン族集落はかつて観光村だったが、チェンマイ近郊の観光村に客を奪われ、今は訪れる客もなくひっそりとしていた。竹・木造の独立住宅が街道筋に10戸ほどあり、集落の行き止まりに粗末な学校があった。

タイはバレーとサッカーが人気で、グランドにはバレーネットがあった。難民キャンプの普及活動にも日本の元サッカー選手が一役買っている。遊具もあるが平地が少ないので、学校の隅に置かれていた。

村人は総出で家の梁を補修し屋根を葺いていた。恐らくキャンプ内でも専門の建築屋がいるわけでもなく、自分たちで協力して建てているのだろう。

谷間の村は排水溝もなく、家の背後に河積が残っているだけで、住宅は高床式であることから、雨季には小河川は氾濫し周囲は浸水してしまうだろう。この集落の6km先の難民キャンプの生活は、定住の保障も現金収入もないこれ以下の生活を想像すると、UNHCR やNGOの支援がなければ、娯楽のない食べることに特化した生活が見えてくる。

タイ、ミャンマーの国境地帯は、先の大戦の亡霊が今も安住の地を求め徘徊している。ミャンマーのシャン州やタイ北部のメ―サロンは、中国の国民党が共産党から逃れ移り住んだ地としても有名である。
カレン解放軍(KNLA)の軍旗の半分は旭日旗である。この地域はインパール作戦の旧日本軍の敗残兵が最後に辿り着いた地でもあり、中には民族独立運動に身を投じた者がいたためと言われる。
難民の悲劇には常に戦争が付きまとう。


世界中には入管エリアだけでなく国境を漂う人々がたくさんいる。なかでも国を追われ避難する人々は1040万人、関連するキャンプは128カ国にのぼる(UNHCR・2016)。そのうちシリア難民は500万人、タイには10万人のミャンマー難民がいる。
金正男暗殺事件に揺れた先月、バンコクのドンムーアン空港の入国審査は1時間ほど待たされた。チェンマイで乗り換えたKAN航空はAirline Ratingにもない地方航空会社で不安ではあったが、2時間遅れの出発で渡された軽食になぜか安心した。
この季節、タイ北部の山域は晴れた日も霞がかかる。光化学スモッグのようでもあるがPM2.5は50μg程度で、隣国昆明の3分の1にすぎない。この霞は、春先の野焼きの煙が主因で工業系煤煙ではないが、大規模火災のみならず空中の二酸化炭素の層は地球環境にも影響を与えている。

30分後、12人乗りのセスナは、山脈越えのエアポケットに驚きながらメーホンソン空港に到着した。

街の中心の湖のほとりにあるワットチョンカムに行くと、聞き覚えのある鐘の音が風に乗って聞こえてくる。ここからミャンマーの鐘の鳴る白いカックー寺院までは、わずか200km、同じ文化圏に入ったと意識させられる。

市内から北西に約30km、ミャンマー国境近くには人口12,000人のMai Nai Soiの難民キャンプがある。GoogleMapで見ると、乾いた山林地帯の一本道の先に突然稠密な独立住宅集落が現れる。集会所か学校のグランドらしきものもある。
ミャンマーは多数のビルマ族と、西部のロヒンギャ、東部のカレン族・カチン族との間に民族問題をかかえる。もともと山岳少数民族はミャンマー、タイ、中国にまたがる地域に住んでいるために、国境が民族を分断した結果とも言える。カレン族はサルウィン川のダム開発による強制移住と迫害を受け、ミャンマーからタイの山岳地域に逃れてきた。経済発展の名のもとに少数民族の土地がうばわれ、不毛の土地に追いやられる悲劇の構図は、どの大陸でも繰り返されてきた。タイ国内にある9キャンプの中でも最大のメラキャンプには、47,000人の難民が住んでいる。

難民キャンプは、防御、食糧、医療、教育に関する基本的な生活支援が、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)と海外NGOにより行われている。住宅は難民自ら建てる場合もあるが、その適地は政府の指示に従うことになる。難民キャンプは仮設の位置付けではあるが、UNHCRの計画基準に合わせる必要がある。グロスの計画人口密度は220人/ha(一人当たり45㎡)標準で、最低330人/ha(一人当り30㎡)で、都市の住居地域と比べてもかなり稠密である。
住居は一人当たり3.5㎡を基準としている。
住区計画は16家族を1コミュニティ単位として、16コミュニティを1ブロック基準とし、4ブロック合計5,000人を1セクターに、さらに4セクター合計20,000人を1住区としている。
学校は5,000人に1校、ヘルスセンターは20,000人に1か所としている(UNHCR Emargency Handbook)。
つまり、日本で認知されている近隣住区理論の2倍の居住密度ということになる。
カレン族の難民キャンプは過去にビルマ軍から攻撃を受けたこともあるが、近年の脅威は大火事と土砂災害、水害である。重機もインフラも整わない地でどんなメンテナンスをしているのだろう。
メ-ホンソンの国連事務所に、立入り許可の為の資料を持って出かける。所長が不在で翌日再び出向くが、予定の通訳兼務のタイ人が来られなくなったこともあり、バンコク事務所でしか受け付けないと一蹴される。最後の頼みだった日本人の所長はすでに退任していた。
替わりに、住居や集落形式は難民キャンプとほぼ同レベルのカレン族の古い集落を教えてもらった。

街の市場で行き方を尋ねるが、関わりたくないのか村自体の存在を知る人も少なく、トゥクトゥクを見つけ交渉する。彼の示す観光リストには目的の集落はあったが、あまり浮かない顔をしている。あとでその理由がわかった。

途中、竹橋で有名なSu Tong Pae Bridgeに寄る。この橋は自然景観の中にある橋としては、竹なので違和感なく自然に溶け込んでいるが、構造的には鉄パイプと波板で支えた新しい橋であった。

1時間ほど走ると、Long Neck Villadgeの古い板看板があった。何度かUNHCRのRVとすれ違うが、やがてトゥクトゥクでは登れない坂に差し掛かる。近くの村の青年に頼んでバイクに乗り換えNai Soiのカレン族集落に向かう。
その途中に難民キャンプの入口がある。ここからはタイ国内の国境でもあり、民間人は特定のNGO以外は入れない。

赤カレン族に属するパドゥン族は首長族とも呼ばれる。追いやられた痩せた土地は農作物が育たず、現在はミャンマー各観光地や、チェンマイ近郊の民族村に移り住み、特異な意匠を公開しわずかな観光収入で生計を立てている。彼らの処遇に悲哀を感じ、ファインダーを覗いたら、手織りのデザインと技術に見入り尊敬し、ストールを支援購入すべきだろう。

Nai Soiのカレン族集落はかつて観光村だったが、チェンマイ近郊の観光村に客を奪われ、今は訪れる客もなくひっそりとしていた。竹・木造の独立住宅が街道筋に10戸ほどあり、集落の行き止まりに粗末な学校があった。

タイはバレーとサッカーが人気で、グランドにはバレーネットがあった。難民キャンプの普及活動にも日本の元サッカー選手が一役買っている。遊具もあるが平地が少ないので、学校の隅に置かれていた。

村人は総出で家の梁を補修し屋根を葺いていた。恐らくキャンプ内でも専門の建築屋がいるわけでもなく、自分たちで協力して建てているのだろう。

谷間の村は排水溝もなく、家の背後に河積が残っているだけで、住宅は高床式であることから、雨季には小河川は氾濫し周囲は浸水してしまうだろう。この集落の6km先の難民キャンプの生活は、定住の保障も現金収入もないこれ以下の生活を想像すると、UNHCR やNGOの支援がなければ、娯楽のない食べることに特化した生活が見えてくる。
タイ、ミャンマーの国境地帯は、先の大戦の亡霊が今も安住の地を求め徘徊している。ミャンマーのシャン州やタイ北部のメ―サロンは、中国の国民党が共産党から逃れ移り住んだ地としても有名である。
カレン解放軍(KNLA)の軍旗の半分は旭日旗である。この地域はインパール作戦の旧日本軍の敗残兵が最後に辿り着いた地でもあり、中には民族独立運動に身を投じた者がいたためと言われる。
難民の悲劇には常に戦争が付きまとう。

Posted by Katzu at 00:10│Comments(0)
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