港川人のなぞ

Katzu

2011年10月27日 04:52

 八重瀬町港川港に近い現場から、1億8千年前の港川人の化石人骨が
発掘されてから、40年も経つ。
現場は港川港からほど近い所にあるが、その資料は、
八重瀬町具志頭歴史民俗資料館に展示されている。
維持費を節約しながら、運営に苦慮する地方によくある、立派な博物館であった。
レプリカであろうか、当時は人骨の保存状態が良く、
ほぼ全身の形で発見されたことに驚く。



 骨格研究の成果は顔の復元によってなされ、骨格は中国南部の柳江人や山頂洞人
とは違い、インドネシアのワジャク人と類似していることがわかった。
この博物館のモンタージュは、琉球人をベースに作られているが、
別の機関のモンタージュでは、東南アジアからミクロネシア系の顔であった。
当初、紹介された胸像はどこか、沢穂希に似た東南アジア系であった。






そう言えば、パラオ人の同僚にも似たような顔の人がいた。



 港川人は縄文人との類似性もあり、原日本人の基盤を形成したという
論述もあるが、現在までの通説は、琉球から北海道まで縄文人が
住んでいた縄文時代以後、朝鮮半島から渡来した弥生人が本土日本人を
形成したとされている。(国立博物館展示)



現在の遺伝子分析によるとアイヌ・日本人・琉球人のGm遺伝子配列は似ており、
高砂・漢民族とは絶壁のような違いがあるという。



 港川人は、華南の集団や、台湾の古来からの先住民高砂族に遺伝的に近いと
思われるが、彼らの遺伝子が先島諸島から沖縄諸島、さらには日本列島の集団に
入ったという遺伝子上の証拠はない。(伊藤俊幸氏)

ならば、港川人はどこに行ったのだろうか。

南方からの海上の道はとだえたのであろうか。

推論ではあるが、港川人は、アフリカを起源とする人類の移動の末端にあたる、
台湾高砂族、アボリジニと同じ位置付けの種族だったのではないか。
種の起源探しではなく、エンド オブ トライバルの研究はこれからだ。


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