沖縄本島の東南5kmに浮かぶ人口300人ほどの久高島。
ガー(井戸)の入口にはユウナの花がもう夏を告げていた。
現在は危険なためにロープが張られているが、
かつては島の女達が階段の下で沐浴していた。
1978年、はじめて訪れた沖縄は左側通行に切り替わった混乱の
時期にあり、見るものすべてが奇異で派手で驚きに満ちていた。
八重山から本島に大学の仲間と旅したが、久高島のことはよく知らなかった。
本土に戻り、12年に1度のイザイホーという神事が神の島で行われたと聞いた。
当時、沖縄関連本はガイドブック以外の情報量は少なかったが、
図書館で調べるうちに、沖縄のシャーマニズムの神秘性に強く魅かれていった。
工学系の青年が陥りやすい罠でもあった。
3年後久高島に渡り、民宿にらい荘に泊まった。
島は本島の海洋博バブルから取り残されていた。
砂浜にはなぜかカラオケ小屋があり、酔った帰り道の片隅で
島の若者たちが暗闇でヒソヒソと飲酒喫煙していた。
ノロ(祝女)を中心とする島社会の何かが変わろうとしていた。
次の朝早く畑の1本道を北に歩いていくと、もやの中から一人の老婆が現れ、
深々と頭を下げながら、おはようございます、と挨拶してきた。
その敬虔な雰囲気に体が硬直し、返事もうつろで右の浜に向かった。
浜に寝ころび朝日の写真を撮っていると、背後に人の気配がした。
振り返ると今度は男の人が立ってこちらを見ていた。
拝所近くで会った老婆は、恐らく朝のお祈りを済ませたノロだったのだろう。
1990年、イザイホーの午年に再び沖縄に渡った。
その甲斐もなく、イザイホーはカミンチュ(神女)不足により中止されていた。
600年以上続いた神事が途切れたこととに失望し、永遠に接する機会を
無くしたことに対する深い喪失感を覚えた。
この出来事以来、沖縄の村々を訪れ祭りの記憶をアーカイブしている。
最後となった1976年の映像は一度見たことがあるが、写真家やマスコミの
好奇の対象となり批判されたこともあり、特に映像は封印されていた。
那覇の桜坂で初めて一般公開された1966年の記録映画イザイホウを見た。
宮古島のスケッチ・オブ・ミャークほどの強烈なインパクトはないが、
粛々と静かに島外からの視線で撮られていく。
女性中心の南洋シャーマニズムという奇異な祭事など一般には
知られることのなかったあの時代に、島の秘め事として扱われてしまったが、
今ではアジア太平洋全般の宗教・文化につながる貴重な記録となっている。
島は港湾、小中学校、総合センター、交流館が整備され、
民間開発により街の景観が変わることを懸念していたが、
集落周辺は空閑地も多く、土地利用が変わっていないことに気が付いた。
その理由は、島の土地所有権が世襲制のノロのもので、
未だ島民以外の個人所有が認められていないためである。
祭事を中心とする母系社会は南洋の島によくある特徴だが、
宗教・法制度・経済までを取り込んだ封建制以前の
原始共産制を受け継いだ形態は、日本では久高島が最後であろう。
ノロと出会い、近寄りがたい雰囲気のイザイホーの行われた御殿庭は、
以前の写真と比較して背後の森が小さくなり、神アシャギが改築され、
レンタサイクルが通り抜け、観光ガイドが案内してくれる。
見落としていた集落の〝はんちゃだい〟という空間は、地と空を結ぶ石があり
宗教的な空(くう)を表した不思議な集落の中心である。
この周辺の石積は他の離島にない精巧で古いものだ。
以前はその存在すら明かされなかったフボー御嶽は
現在も立ち入り禁止となっている。
御殿庭の背後の森から抜ける木のトンネルが、あの世とこの世を結ぶ
結界のようで、北には近づかないで、と島民に言われたことを思い出した。
もうノロに出会うことはなくなったが、ノロの制度が今も島の環境を守り、
代わって大切な場所には必ず猫が現れる。
本島よりはるかにきれいな海であるが、一般観光客は斎場御嶽から島を拝む程度の
現在の手のひらサイズのこの集落が島の容量に合っていると感じる。