沖縄の自然・文化・宗教には地域独特のものがあり、特に宗教は南洋のシャーマニズム、
中国の道教、仏教の影響、日本の神道との類似性を持つ独自の琉球神道が信仰されている。
日本の八百万の神と比較するまでもなく、広域のあらゆる来訪神を受け入れる多神信仰が、
琉球神道の成立の根底にある。
現在も、街づくりの現場から人々の生活環境に至るまで、その影響力は大きい。
宗教は、沖縄病にかかった血縁のないナイチャーが、最後に超えるべきハードルでもある。
自分は、戦後の唯物史観とプラグマティズムに毒された世代の無神論者で、
非科学的なものは否定する立場にある。
しかし、沖縄の集落の独特のつくりや、街の祭事、門中の結束や祖先信仰の強さを知り、
何人かのユタに会って話を聞いたり、不思議な体験をするうちに、
その背後にある沖縄の精神世界を強く意識するようになった。
勝連半島の屋慶名に2年間暮らした。この地は由緒ある歴史を持ち、集落風景に沖縄らしさを
残しているが、交通の不便な地で沖縄の知人達は、なぜその地を選んだのか不思議がった。
確かに、一度来たことがあるだけで、今思うと、自分自身釈然としないものがあった。
その1年前まで、南洋パラオで暮した。
パラオでは島に残る沖縄の文化・習慣を感じつつ、何人かの沖縄出身の老人に出会った。
その中にすっかりパラオになじんで、韓国系のハンパマーケットで働く70代の老人がいて、
何度か立ち話をする機会があった。
その後、屋慶名に移り住み、1年前に大使館の知人からその人が亡くなったことを伝え聞いた。
あとで、彼は屋慶名出身の山根さんということを初めて知った。
偶然にも住みはじめたマンションの隣の家が山根という名前だった。身震いがした。
沖縄の身寄りもわからず、パラオに埋葬されると聞き、ほかの同じ門中の人に尋ねたが、
そのことを知る人はいなかった。何か隠し事のあるような雰囲気さえあった。
隣の家は顔を隠した老人が一人居て、前を通るだけで犬が吠え、近寄りがたかった。
実は真実を知るのが怖く、深く関わりを持つことをこの日までためらっていた。
屋慶名を発つ前日、まだ見ていなかった遺跡を巡りながら、そのことが気になり始めた。
意を決して隣を訪ねた。
しかし、犬も老人も既にそこにはいなかった。
午後から、同じ苗字の事務所の社長に話を聞きに行った。
同業者で仕事以外の話はしたくなかったのだが、彼は快く本家の詳しい人に電話で聞いてくれた。
恐らく○○ユダファ(分家)で、今は誰も残っていないはず、ということであった。
屋慶名の最後の夜、ベランダの木も狼か竜に見え、何もない部屋にいるわけにもいかず外に出た。
集落に1軒あるという飲み屋を探したが結局わからず、与那城まで坂を登って行った。
この県道沿いにはホワイトビーチ基地で繁盛したスナックが、地図上では40軒ほどもあるが、
現在開いてるのは10軒に満たない。
目的のヤギ汁屋は休みで、ある居酒屋で酒を飲み、集落の坂を下り帰路に就いた。
雨が霧雨状に時折降り、海中道路のライトさえ見えない。
いくら歩いても海にたどり着かない。決して酩酊した訳でもなく、絶体道を間違えることはないのだが、
さとうきび畑の1本道を下っていくと、見慣れない亀甲墓にたどり着いた。
そこで寝たのか歩いていたのか記憶にない。ただ、時間だけが過ぎていて帰ったのは3時頃だった。
歩いて20分の距離を5時間かかったことになる。
10か所ほど手足を蚊に刺され、腹にはじんましんのような痕が残っていた。
どうやら2km先の藪地島近くまで行ってしまったらしく、島に渡れば結界を超えていたのかもしれない。
次の日、車で回ってみたが、その墓の場所も定かではなかった。
キツネにつままれたような一夜だった。
ユタ的に解釈すれば、マブイ(魂)を落としたとか、憑かれたとかいう話になるのだろうが、
きっと望郷の念に駆られた彼の魂が、自分という媒介を通して故郷に来たのかもしれない。
沖縄のニライカナイ信仰は、南洋の極楽浄土からもたらされ、死後も先祖と共に生きる祖霊信仰が、
この島の自然環境のなかで、現在も集落の御嶽を中心とした祭事としてつかさどられる。
そして、南洋に何万人と渡り、悲劇を生んだ歴史を繰り返しながら、信仰心は失われることなく、
その精神世界は今も変わらず存在していると感じた。