運命の島

Katzu

2014年05月05日 20:09



 伊江島は戦争と城山(タッチュー)のイメージだけの、気掛かりではあったが
フェリーで30分のいつでも行ける近くの島であった。
昨年初めて渡って以来、沖縄を凝縮したような深く重い歴史に、
一筋縄ではすまされないという強い想いが残っていた。


USA.Center Of Military History

硫黄島、ペリリュー島と並ぶ太平洋戦争の激戦地である沖縄の中にあっても、
伊江島は特に戦闘が激しく4700人が戦死し、島民の約半数が戦闘や集団自決で亡くなった。



 島を回ると、戦争廃墟として唯一残存する公益質屋、鍾乳洞の避難壕、米軍側の慰霊碑、
補助飛行場、GIビーチ(当事はRedBeach)など、戦争に関する施設が残されている。
これらは同じく太平洋戦争の激戦地で知られるペリリュー島を思い出してしまう。



 島の平和に対する想いは、故阿波根昌鴻さんの平和資料館『命どぅ宝』に凝縮されている。
足の不自由なご婦人が管理されていたが、話を伺うとその情熱は今も一点の曇りもない。



館内には模擬原子爆弾が展示されていた。冷戦当時、伊江島では原爆の投下訓練が
行われていたが、畑に落ちたものを農民が秘匿したものらしい。



米軍からBloodyRidge(血塗られた山)と恐れられ、日本軍に要塞化されたタッチューは、
砲撃の目標とされ焼き払われたが、現在も島の絶対的なシンボルとして島を見守っている。



 この島内の周囲から見えるタッチューの景観は見られる島のイメージを創ったが、
島の景観の魅力は、実は伊江島から見ることのできる沖縄本島の夜景にある。
本部の島灯りが一つづつ灯り始める風景は、寂しく暖かく美しく、沖縄本島が
小さな島であることを想い起こさせてくれる。



 島の中央には定期便の運航されていない伊江島空港があり、その西隣にある
旧日本軍の2100m滑走路は現在米軍の補助飛行場となっている。
島民の通行が許された表層のはがれた滑走路をバイクで走ると、
そのまま海の上まで滑空していくような気がしてくる。



島はタバコの花が咲き、基地があることを忘れてしまうのどかさであるが、
西端の灯台に向かうと突然、米軍基地のフェンスで道は終了する。



基地内は20人が在住するだけで、主に爆撃、降下訓練が目的であり、
ハリアーだけでなくオスプレイパッドが建設中である。
地代が一人当たり年平均百万円の村民は基地存続を容認している。



基地を県内で押し付け、街を二分しあっている現在、
語ってはならない基地問題のような今の風潮が心苦しい。



 伊江島に日本軍が本土防衛の要という飛行場を造ったことが、
戦後のこの島の運命を決めたと言っても過言ではない。
そして今もこの運命から逃れられず翻弄され続けている。



村の各種計画には基地に関するものは見受けられないが、
伊江島ほど戦争と平和を考える環境が凝縮された島は他に思い当たらない。
遺跡や公園など観光に関する素地を活かさないのは残念である。



白百合が満開の公園には、観光という名のもとで戦争のはかないイメージを重ねる
ものはないが、海岸線に自生する白百合の群落の方に心を奪われるのであった。



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