2012年06月10日
30年前の約束

市民幸福度日本一を目指す兵庫県明石市に来たのは、
明石焼きを食べるためだけではなかった。
初めて担当した仕事は、一生忘れることはない。
ある人との約束があり、計画した30年後のまちを訪れた。

そのまちは何処にでもある住宅地で、中流階層以上の団塊世代を中心に
発達し、すでに落ち着いた雰囲気があった。
子育てを終えたシルバーエイジ世代の街の維持が、今後の課題になるだろう。
気になっていたのは、周囲の環境の変化、文化財保護、調整池の機能、
公園と緑道の関係、などであった。

周辺を歩き、公園などで住民の話を聞くうちに、大体、予想通りの答えで安心した。
ほとんどの住民が、『ここは良い所ですよ。』と異口同音に語った。
周囲の環境は保たれ、広がるたんぼ、白サギなどは30年前と全く変わらなかった。

地区には内務省の土地に祠があった。
その後の大規模な遺跡調査で、保存確認されるのに時間がかかったようだ。
祠も公園内に保存されていた。

30年間河川の氾濫もなく、暫定調整池は調整機能を果たし、
役割を終えた後に宅地に変換されるようだった。
あれほど苦労し議論した公園と緑道の関係については、
時間と人の流れが、自然にまちを作ったようで、
生垣の美しい静かな街並みが作られていた。

一方、車の通らない通路は、空地に草が生え、
管理が行き届かない状態にあった。

たった一つの住民の苦情は、団地内の環状道路は、
計画にない外部道路との接続や、国道の4車線化により通過交通が増え、
空き巣などの犯罪が増えたことであった。
都市構造の変化とともに、コミュニティのずれが起き始めたのである。

30年間、バブル期をはさんで、似たような街づくりが全国で行われた。
それは否定できない必要性があった訳だが、30年後を見据えた街づくりを
考えた者は誰もいなかった。
仮にいたとしても、都市構造、住民意識の変化は思惑通りではなかったはずだ。

当時の職場環境は封建的で、新入社員は先輩から厳しく指導された。
現地調査の時に質疑応答があり、事務所に帰り撮った写真1枚まで詰問された。
はじめて見る土地で、『この地区の課題は?』とか、『風は何処から吹くか?』とか、
『なぜこの写真をとったか?』とか、その意味を理解したのは5年後である。
その答えがわかったのは10年後であった。
計画をテクニカルに理論だてる人であったが、
街づくりの基本をはずしていなかった。
計画の業務が完了した時、その先輩は
『30年後またこの土地を一緒に見てみよう。』
と再会を約束した。
通常、都市計画の目標は10年、せいぜい20年で、
30年後という数字には深い意味があった。
その後、彼は『インド人の人生観は40を過ぎたら宗教の世界に入り放浪し、
50で人生を終える。わしは40をもうすぎたから、旅に出る。』と言って退職した。
ヨット好きで、海外に行ったりしながら、20年以上経ったが、
昨年、彼は亡くなったと風の便りに聞いた。

※ 次の日、彼に何度か乗せてもらったり、飲んだ後に泊まらせてもらった
ヨットのあるクラブに行った。しかしそのヨットはすでに登録されていなかった。
Posted by Katzu at 03:02│Comments(0)
│まちづくり
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