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Posted by TI-DA at

2013年09月27日

軍艦島の200年の孤独

 長崎県端島(軍艦島)は、1810年の石炭発見以来、都市を拡充し、1916年にわが国最初の7階建ての
共同住宅が建設され、近代日本の最先端の工業技術、土木・建築技術の粋を集めた人工島であった。
初めて見たその景観は衝撃的だったが、この地ほど、調べ、聞き、見た3つの印象が違った場所も珍しい。
この島を、自分の中でどう解釈・評価したらいいかをずっと考えていた。



島の開発の歴史を調べると、明治、大正、昭和に渡る日本の都市づくりの歴史が、
この小さな島に凝縮されていることがわかった。
日本最古の中高層アパートは各戸にかまどがあり、当時は共同煙突がついていた。
周囲の工場・事務所は既に倒壊していているが、昔の配筋が多く機能しているためか、
隣の昭和初期に建てられたアパートとともにまだ残っている。



海底ケーブルによる送電、送水、海底採掘技術なども日本の工業技術の先駆けとなった。
廃墟を見ただけでも、赤土の石灰を混ぜたつなぎを使った、この島ならではの
アイデアのかけらが詰まった美しい擁壁であることがわかる。



この島は、当時どんな街づくりが可能だったかを、時代ごとに観察できる
日本の近代工業の生きた遺産なのである。

この島の土地利用の優先順位は
1、坑口・坑道
2、輸送インフラ
3、労働施設
4、住居施設・共同浴場
5、学校・遊戯施設・神社
6、病院・体育館・菜園

 炭鉱の島は、坑口を心臓に、はしけと日給社宅の建設を皮切りに開発拡充されていった。
住居は空に向かい、岩肌に擁壁を這わせ通路を造り、護岸堤防を拡張し平地を増やした。
北側のアパート群は、島の命である坑口を守るため、防潮住宅として建てられた。
軍艦島と呼ばれるのは、その容姿だけでなく、都市構造そのものが要塞都市なのである。



炭鉱のための都市であるため居住環境は悪く、人口密度は当時世界一の
835人/haで、人と建物が密集していた。
目標とする住宅市街地の人口密度は約40人/ha程度なので、
その20倍近い人間が暮らす、極限状態の都市環境であったはずだ。



ハイテクを駆使しながら、健康、安全、安心な街からは程遠い、負の遺産の街でもある。

 炭鉱の歴史を振り返ると、三菱財閥を築いた岩崎弥太郎と実弟の弥之助の名前が出てくる。
弥之助が旧鍋島藩主から端島を10万円で購入したのが1890年、
それ以来、三菱の私有地となり、黎明期の炭鉱の実態は一般に明かさることはなかった。



1974年の炭鉱閉山後、40年にわたり放置され続けた理由の一つはここにある。
当時、大陸からの多くの労働者が就労し、日本人以上に過酷な労働を強いられていた。
居住区も各国人が分かれ、日本人との接触もなかったという。
島を抜け溺死した者も多く、闇に消えた労働者の実態は知られていない。

地下1000mの海底にたどりつくまで、労働者は気を失うほどのエレベーターに乗り、
1kmの坂道を転げないように歩かなければならず、その先は湿度95%、30℃の職場であったという。

その劣悪な労働環境と就労形態を知る由もなく、廃墟とともに眠りについた軍艦島だが、
世界遺産の話とともに、島は200年の孤独から目覚め、今その歴史の語り部が話しだそうとしている。
しかし、もう時間がない。



構造物の修復・保存はかなり困難である。
5年以上の歳月をかけ、建設コスト以上の負担が必要であろう。



島内の鋼構造物はほとんどなく、RC構造物、石積、レンガだけが残っている。
外洋の波は激しく、破壊された防波堤を見ると大津波のことを思い出してしまう。



遺跡保存よりも朽ち果てる美しさとともに、もう一度前の島になるまで
見つめ続けるのも選択肢の一つであると感じた。

宿の欧米系観光客の感想は、Horrible(恐ろしい)、Fantastic(素晴しい) であった。
一方、アジア系観光客の感想は、Amazing(驚き)となり、日本が戦後に発展したことに興味を抱く。



日本人の持つ勤勉さ、がまん強さ、生産意欲、科学技術の応用力。
ここに来れば、陰の部分も含めて、日本がなぜ世界一流の工業国になったかがわかるだろう。


  


Posted by Katzu at 19:34Comments(0)まちづくり

2013年09月23日

まちづくりのスーパースター

 都市を計画し創った天才、有名な建築家、政治家は多くいるが、必ずしも成功したとは限らない。
あのガウディでさえ、生きた田園都市づくりは成就できなかった。
むしろ、ミラノでペストが蔓延した反省から、防御と安全性に優れ、
周囲を衛星都市で囲んだ、ダヴィンチの理想都市の考え方の方が説得力があった。
国内では、様々な計画論を配し造られたニュータウンは、
生活志向や産業構造の変化により、その多くはオールドタウン化しつつある。



長い目で見ると、発展し完成した都市というのは皆無である。
なぜなら、オリエントの時代からバビロンは繁栄しながら、多くの犠牲を払い、
崩壊を繰り返してきたからである。むしろ、地域が持つ特徴を活かしながら、
生活の場を自然とともに築いてきた農村の方が、長く継続している。



 長崎県平戸から熊本県天草にかけては、キリスト教文化が根付いた土地で、
現在も多くの宗教施設が独特の街の景観を作っている。
あの戦国時代に異教が定着したことは驚くべき事実ではあるが、その理由は一重に、
真摯なキリスト教徒を通して、生活を向上させる西洋文化が入ってきたからに他ならない。
日本と西洋文化の結節点は、長崎からであった。
キリシタン迫害の歴史が、さらに特殊な環境の中で受け継がれた。

先日、長崎外海地区を案内してもらった。
この地区は、長崎の教会とキリスト教関連施設群の世界遺産候補地域となっている。
急峻な地形に作られた農村は、棚田と石積み風景が印象的であった。
この石積みの特徴は、平らな結晶片岩が積み重ねられていることである。



出津集落の狭い土地のなかには住居や教会が点在していた。
もっとも有名な出津教会堂は、白壁と2つの尖塔が特徴的で、
明治15年に建てられた県指定文化財である。



その巡回教会にあたる大野教会堂は、特に印象的な教会であった。
それはなぜか、アンデスの山中に建てられた村の小さな教会を想起させた。
インカの石積み技術と、西洋の建築技術が融合した教会に似ていたのである。



大野教会堂の壁面は、ド・ロ壁と呼ばれる石灰を目地にした壁と、
瓦屋根を融合させた和洋建築物であった。



瓦屋根の鬼瓦には十字架の印があった。



旧出津救助院は、工場、福祉施設が混在した建物で、石塀と瓦屋根の美しい建物である。



 これらを設計したのは、フランス人のマルコ・マリ・ド・ロ神父であった。
神父は市内の大浦天主堂の司祭であり、敷地内の大浦神学校を設計している。



神父は外海地区に赴任のち、原野を開拓、出津救助院、工場、教育所を創設し、宗教関係の絵画、
装飾品、音楽だけでなく、土木・建築・医療・紡績・印刷・マカロニ、ソーメンなどの食糧製造など、
当時の西洋技術に精通し、自ら設計.施工しながら村人を指導し、生活再建のためのまちづくりを行った。

まちづくりにスーパースターはいらない、と思っていた。
しかし、私財を投げ打ち、村人とともに働き、村の生活を豊かにするための指導を惜しまず、
死ぬまで村で暮らした神父は、村人の尊敬を受け続けた。

現在も地元でド・ロ様と呼ばれる彼は、まぎれもない稀有のまちづくりのスーパースターだったのだろう。  
タグ :まちづくり


Posted by Katzu at 08:28Comments(0)まちづくり

2013年09月15日

水俣から福島が見える

 今年ようやく水俣病認定からはずれた患者を救済する判決が下った。
水俣病の公式認定から57年もかかったことになる。
水俣病は日本の環境問題を語る上では最も象徴的な公害であるが、
その知識は教科書で知る程度で、実際起きた背景も現況もよく理解していなかった。



 水俣は熊本県の不知火海(八代海)に面し、入江が重なる風光明媚な漁村であった。
漁港を望む高台には航海の安全を願う金毘羅様を祭る神社があり、
古くから漁業が営まれていたことが確認できる。



この村の歴史は、明治41年にチッソ(株)の前身の日本窒素肥料(株)の創立とともに変貌をとげる。
日本の化学工業界をけん引するまでに成長したチッソは、戦後の食糧事情を改善するという、
政府の国家的使命を全うしながら、メチル水銀を海に排水し続けた。



現在も残る三面張りの古い排水路を見ると、潮汐に関わりのない喫水線が残り、
かつての排水汚濁がいかに激しかったかがよくわかる。
昭和31年に奇病が確認され、昭和33年にマスコミが水俣病を報道し、医学的にも証明されたが、
国がこの病気の存在を認めたのは、10年後の昭和44年であった。

その後の環境汚染対策はどう行われたか。

1.水質汚濁防止法に基づく水銀の排水規制

2.水俣湾への汚染魚を封じ込める仕切網の設置

3.チッソによる漁業補償

4.高濃度の堆積汚泥の除去、鋼矢板セル打設による護岸築堤し
  湾内を埋め立てる環境復元事業を進めた。
  チッソが負担しきれない事業費の4割にあたる180億円を県と国が折半した。



5、1996年、41haの埋立地に広域公園エコパークが整備される。
  現在整備された海辺の公園と港湾施設は、鋼製の外壁で汚染土の流出を抑えているが、
  腐食が目立ち修復の時期に来ている。



 この間、補償救済と環境保健対策は平行して行われた。
1996年、チッソとの紛争終結、国・県に対する訴訟が取り下げられ、
2009年、未認定患者に対する水俣病救済特別措置法が成立した。
現地には水俣病資料館、水俣病情報センター、環境センターが併設され、
公害の歴史の教訓と学習、監視、研究を行う拠点となっている。
熊本県下の児童は必ず一度は、環境教育のためここを訪れるという。



センターの担当者から話を聞いていると、当時のつらい過去が今も深く心に残っていることがわかる。
水俣病が判明した当時、電車が水俣を通ると、乗客が列車の窓を閉めるようなことが続いたという。

水俣の人々は、長年の風評被害や差別の目に会いながら、ようやく漁業を再開し、美しい風景が
取り戻されたが、まちは補償や裁判の過程で引裂かれながら、過疎化の波にさらされている。




 しかし、その教訓は活かされず、また同じ悲劇は繰り返されつつある。
このチッソを、東京電力という言葉に置き換えると、東電の原発事故に対する対応と、
進行中の汚染水漏れに対する国の対応は、水俣病と全く同じ過程を踏んでいることがわかる。

港湾に流れ出たメチル水銀の汚染水を、放射能汚染水と置き換えて考えてみる。
原発周辺の環境復元事業は、企業が負担できない状況になり、始めて国が乗り出した。
今後は水俣の環境対策を手本に、汚泥浚渫、埋立て、保護、復元と同じような工程を進むだろう。

 忘れてならないのは今後、放射能による被爆者の疾病が明らかになった時点で、
国の認定、被害者の東電に対する訴訟、裁判と進むことが懸念される中で、
水俣病の被害者救済に60年近い年月がかかったことを、当事者は教訓とすべきである。



これまでの福島原発事故とその対策は、国家的事業を担った大企業の体質と
国の危機管理能力の甘さは変わらず、水俣と同じ過程をたどっている。
これからの第二の悲劇が始まる前に、我々はもう一度、水俣に学び、見守るべきだと強く感じた。  


Posted by Katzu at 19:22Comments(1)原発

2013年09月12日

島のスト-リーテラー



 奄美沖縄の離島には、島の歴史をよく知るお婆さんが必ず存在する。
琉球王朝の祭事は女性が司どり、南洋特有の女系社会の慣習が残るためである。
先日5日間滞在したトカラ列島の小宝島は、人口61名、周囲4.7km の
妊婦が寝たような形の小さな島だが、80歳以上の女性が3名いる。



村営フェリーが港に着岸すると、乗客は可移動式の到着ボックスに案内され、
荷揚げ作業が終わるまで中で待たなければならない。
出迎えに来た民宿の方と勘違し人は、島の教頭先生であった。
はしけの作業員と思われた人たちは、区長と学校の先生であった。



小宝島分校は小学生9名、中学生2名で本土からの山海留学生も含まれ、
学校関係者は6名であった。
若い先生達は、なぜかパラオで一緒だった小学校隊員に似ていた。
島の子供と家庭との信頼関係から、島特有の環境になじんでいる様子であった。



 小宝島には、隆起サンゴ礁の島には珍しい露天の湯泊温泉がある。
海岸の温泉に浸かっていると、お婆さん、孫、ひ孫の3人が一緒に入ってきた。
このような状況は日本の社会では一生に一度あるかないかであるが、
この島では当然のように毎日行われる。
これが幸せと言わず、何を人生の喜びとすることができようか。



 トカラハブのいる島には、畑は少なく牧場がある程度で、漁業従事者が多い。
牛の世話が日課の3食付き民宿のアキ婆さんから、毎食時、島の暮らしを聞くことができた。
息子さんは漁師で、台風が近づいているため、揚陸設備のない小宝島から、
わざわざ4時間かけて奄美大島に避難しているらしい。



島内には10の神社があったが、祭事が多く維持が難しくなり、小宝神社1か所に集約されたという。
各神社のお祭りでは神歌を歌ったが、その中に平家の落人を歌ったものがあり、
平清盛の墓と長老から伝え聞いたものは秘匿されている。
神社裏の海岸は、風葬跡と記載されているが、岩礁のポットホールに遺体を置き、珊瑚で塚を盛り
波風が洗骨し、後で拾い上げるから風葬とも土葬とも違う、民俗学上も興味深い話の内容であった。



 滞在4日後、細かい人間関係にまで話が及び、同じ話に飽きてきた頃、
島のほとんどのことが解りかけた。
通常、我々は島の調査をする際に、役所の出先機関か区長にあいさつに行き、
調査の旨を伝えるが、今回はプライベートでもありその必要は全くなかった。
このあと10人ほどから話を聞いたが、在島している世帯数とほぼ同数であった。



最後の夜、夏休み最後の島のバーベキュー・花火・スイカ割り大会があり、
宿のアキ婆さんに呼ばれ参加させてもらった。
話せなかった在島の人から話を聞く機会を得たが、
もう一人の島のミヨ婆さんから貴重な話をたくさん聞くことができた。



 沖縄久高島のエラブ海蛇を巡る、小宝島と琉球のノロ同士の関係を初めて聞いた。
息子さんが持ってくる缶ビールを3本ほど飲むほど達者で、話は戦時中の話になった。
特攻機が何度も島の近くを渡っていったが、それも減り、ある日何千というB29の編隊が
島の上空を飛んで行った話しから、パラオに行ったコロールの親戚やその居所、山形市鉄砲町の
小林という特攻隊員が不時着し見送った話、戦時中、神戸の日本郵船で働いた親戚がいることなど、
自分に関わりのある驚くべき内容であった。
神様が、自分のために語り部を送ってくれたかのような思いがした。

今思えば、狭い島社会で変わった旅行者である私のことを、だれかから伝え聞き、
関わりのある話を思い出して用意しくれたのだろう。



 この島の魅力は、何もないからではない。
360度に輝く満天の星空を見上げながら、そう思った。
この島は、島の歴史を知るお婆さんと子供たちが結びつき、
芽生えつつある若者のエネルギー、大人の命をつなぐ生業が機能しながら、
きっと最も理想的なコミュニティを実らせる可能性のある唯一の島なのだ。と



小宝島は、小さな島ゆえに過疎化が深刻である。
住民が親戚同様の緊密性ゆえに、誤解と差別化を生じる危険があるが、
同時に、いざとなれば、助ける・守る・協力するという意識が高い。



 今後はインフラ整備を進めるだけでなく、島民が自然や文化歴史を理解すると同時に、
若者が島づくりに参加することがカギを握る。
それゆえ、島の歴史を語り継ぐストリーテラーの存在が必要なのである。  


Posted by Katzu at 00:55Comments(0)まちづくり

2013年09月03日

沖縄と奄美の境界の島

 沖縄と本土を隔てたのは与論島と辺土岬で、1972年の本土復帰以降、
現在も沖縄県と鹿児島県とを隔てている。
奄美は1953年に復帰しており、今年復帰60周年が祝われた。
琉球の範囲は時代により、また解釈により諸説あり、現代の領土問題まで
波及しているが、文化人類学的には北は沖永良部島までとなっている。



 戦後アメリカ政府はそのラインで復帰を決めようとしたが、沖永良部・与論2島の
強い復帰要請に答える形で、現在の鹿児島県が決められた。
この2島は、“奄美世”、“按司世”、“那覇世”、“大和世”と、7年間の“アメリカ世”に分かれ、
複雑な時代背景に翻弄され、沖縄以上にチャンプルーな歴史を刻んだとも言える。

 フェリーで本部港から北上すると、伊江島、伊是名・伊平屋島、
やんばるの安須杜を眺めながら、2時間で与論島に到着する。



与論島の周囲は、本島にはないエメラルド色の透明度の高い海浜である。
人口密度と車の数に反比例するように、海の透明度と色の深みは増す。
さらに2時間で沖永良部島の和泊港に着く。



 島の地形は北と南で大きく異なる。
北側は、平坦な隆起サンゴ礁の地形で、海岸線は浸食された針のような岩場が連続する。
南側は、沖縄南部のように鍾乳洞も多く、標高100m台の丘陵地帯が連なる畑地となっている。



動・植物類は沖縄とあまり変わらないが、人口規模、観光客数や開発度による影響が
少ないため、海の透明度は高く、ウミガメやエビなどの生態系が保たれている。





集落の街区形態は古い琉球と同じく、地形に合わせた円形を基調にしており、
入り組んだ街角には大きなガジュマル、フクギなどがアイストップとなっている。



 墓をみると、その地の歴史や文化が大体想像できる。
琉球時代の世之主の墓は、隆起サンゴ礁の多良間島と同じように、
岩盤をくりぬき、梁を設けた門構えのトゥール墓である。



一般の墓は、石垣は琉球風、墓石は御影石の大和風で、墓地形態は広く矩形、
水壺をそばに置き、十字架も一緒の、和洋琉混合形式であった。



 沖縄民謡には多くの沖永良部の歌があり、民謡の好きな人は身近に思うかもしれない。
しかし、沖縄に居ると、特に沖永良部島は、遠く知らない島のように感じてしまう。

 町の人口は半減し、産業経済が伸び悩み、商店街も疲弊する地方特有の課題が浮かび上がる。
町役場で、町の将来計画に関する話を聞くことができた。



 沖永良部の島づくりは、エラブゆりをテーマにスタートし始めている。
島づくりに必要なものは、若い人材や外部からの視点を必要としつつ、
島民の視点で将来ビジョンを作ることが必要である。

和泊町は、総務省の地域おこし協力隊の補助金に頼ることなく、
まちづくり協力隊という若い人材を公募していた。
町のマスタープランは、通常コンサルに任せることが多いが、和泊町では自前で作成している。



計画の作成を手伝っていた人間が言うのもおかしいが、戦略的なプランを人に頼むより、
はっきりしたテーマで、背伸びしない事業目標を、官民が理解する方向で進むことが望ましい。
多くの地域の課題を抱えつつも、このハンドメイドな島づくりが注目されている。
  


Posted by Katzu at 23:45Comments(0)まちづくり