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Posted by TI-DA at

2017年04月28日

被災者の街づくり

 大震災後7年目の現在、震災避難者数は全国で11万9千人、そのうち福島県は3万7千人にものぼる(復興庁H29.3.13現在)。



福島市の桜の開花は4月10日頃で、県境付近の山々はまだ残雪が多く、ひと足早い宮城県側ではミズバショウが咲いていた時期であった。みちのくの春を待ちわびる桜はどこも情感漂うが、なかでも福島市の花見山は最も美しい日本の春山風景である。




たおやかな稜線の里山には、近景のナノハナ、レンギョウ(黄)から、小川沿いにモクレン(白)、ハナモモ(赤)、サクラ類(ピンク)の織りなす花木畑のグラデーションは見事で、日本昔ばなしの桃源郷を思い起こさせる。




 ここから東にひと山越えた20km先に飯舘村の虎捕山がある。北に流れたセシウム汚染の広がりを受けとめたこの山は、震災後、毎年のように訪れ見てきたが、多くの人が関わった山津見神社の再建には強い祈りの力のようなものを肌で感じていた。



周囲の農地や宅地は除染作業が進み、昨年7月12日に避難指示解除準備区域の指定は既に解除されている。しかし、農民の姿は見えず、山道の途中からは維持管理ができない為かロープが張られ、周辺の線量は1.2μSv/hとまだ高い。除染は汚染土を動かすだけで居住エリアが限定されることは、5年前から専門家が指摘していた。



避難指示区域解除の意味は、当初予定の除染作業のプログラムが完了したと言うだけで、以前の住める環境を取り戻したので住んで良いという意味ではないとすれば、一体これからどんな街づくりを進めればいいというのだろう。



 さらに南東に50km、3月31日に居住制限区域が解除された浪江町、その帰還困難区域に面する地区に、かつて地域の桜の名所として知られた丈六公園がある。



すでに桜の開花の時期にあったが、管理されない公園というのは悲惨なもので、花の勢いだけでなく人が一人もいない物哀しさだけが残る。公園の線量計だけは稼働中で、まだ0.45μSv/hを示していた。



自己責任で帰れと言った前大臣の発言は言うに及ばず、インフラの整わない街に戻れというのは、順序が逆ではないのかと、現場を見た人間なら誰しもが思うはずだ。政治家や取り巻く官僚のレベルがこの程度で、地方の尻尾切りがあからさまな状態では、人を呼び戻し街を再生する方法も、どんな街づくりを進めて良いものかも、正直考えてもわからない。



ただ、それを打開するキーワードになるのは、移民定住策、廃炉リノベーション特区、空家利用と対策、外国人の地域ボランティア、である。
なぜなら、この先の帰還困難区域のゲートは、国内にある国境線だからである。




 陸前高田市は、震災後1か月の間、唯一入れなかった都市であった。市内全域に及ぶ被害の甚大さからボランティアセンターの立上げはおろか、自衛隊による捜索と国道45号をつなぐ工事が長く続いた。



そのため、工事と医療関係者以外は市街地に近付くことさえできなかった。
高盛土した土地にあるセンターのオープンも間近で、街の全貌がようやく見えてきた。



同時に、震災の痕跡を記憶にとどめるインパクトも、新旧構造物の対比と高盛土の意義として同スケールで教えてくれる。



 震災後ボランティア拠点となった旧矢作小学校はニ又復興交流センターとして活動を続け、現在も簡易宿泊所として運営されている。



宿泊は教室を間仕切りし個室として利用し、食堂もゲストハウス形式でおのおの食事ができ、地元スタッフや客同士、震災と復興に関する話を聞くことができる。



もともと陸前高田は海と山の学校区に別れていたが、海側の中学校が津波で流され、現在では廃校の憂き目にあった山側の校舎を利用している。地元の運営している方は、海と山の子が一緒になり、三陸と県外の方も一緒に活動して良いこともあるんですね、としみじみ語った。



宿泊日は遅い積雪があり広い教室はヒンヤリとして、静かで深い夜を過ごすことになった。





 被災者の街は、高台移転による新市街地整備と、既成市街地での区画整理などによる従来事業を選択する事業に大別される。
被災者の生活する住宅については、一時避難のための仮設住宅と災害復興の公営住宅に大別される。



仮設住宅の耐用年数は物理的には20年でも使用可能だが、目的年数は基本2年で、最大7年までに達すると、公営住宅にするか、仮設住宅を再び設置するか選択しなければならない。被災地の多くの仮設住宅はその選択時期を迎え、同時に被災者が選択しなければならない立場に追い込まれている。それを紋切り型に進めていけないのは、被災者に耐用期間はないということで、むしろ10年住めば生存する権利が発生する。




一方、災害復興公営住宅は、市町村が主体となる開発事業の場合が多く、従来の民主的合意形成を前提とする区画整理に比べ早く、開発の先陣を切るケースもある。被災地に即効型の上モノ整備を行うことは自治体の負担は大きいものの、街に灯る最初の灯りが果たす復興の証しは、人の温もりを感じる。




避難民の街づくりは、マニュアル的に決まるものでなく、インフラ整備の優先性、利用者のニーズ、利用する期間が、互いにスケジュール化された中で進行していかなければならない困難さがある。




  
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Posted by Katzu at 02:25Comments(0)まちづくり

2017年04月18日

避難民の街づくり

 日本人でつくづく良かったと思う瞬間は、平和を噛みしめた時と入国審査の時である。カンボジア入国の即日ビザ申請は長蛇の列となり出来上がるまで待たされるが、最初に呼ばれたのは、なぜか自分の名前だった。日本人はほとんど事前申請して問題がないためか、外務省の長年の努力の賜物なのかわからないが、少し優越感を感じた。国境であるはずの入国審査では、外国人の中には何度も再提出させられウロウロする人や、別室に連れて行かれる人もかなりの割合でいる。



世界中には入管エリアだけでなく国境を漂う人々がたくさんいる。なかでも国を追われ避難する人々は1040万人、関連するキャンプは128カ国にのぼる(UNHCR・2016)。そのうちシリア難民は500万人、タイには10万人のミャンマー難民がいる。



金正男暗殺事件に揺れた先月、バンコクのドンムーアン空港の入国審査は1時間ほど待たされた。チェンマイで乗り換えたKAN航空はAirline Ratingにもない地方航空会社で不安ではあったが、2時間遅れの出発で渡された軽食になぜか安心した。



 この季節、タイ北部の山域は晴れた日も霞がかかる。光化学スモッグのようでもあるがPM2.5は50μg程度で、隣国昆明の3分の1にすぎない。この霞は、春先の野焼きの煙が主因で工業系煤煙ではないが、大規模火災のみならず空中の二酸化炭素の層は地球環境にも影響を与えている。



30分後、12人乗りのセスナは、山脈越えのエアポケットに驚きながらメーホンソン空港に到着した。




街の中心の湖のほとりにあるワットチョンカムに行くと、聞き覚えのある鐘の音が風に乗って聞こえてくる。ここからミャンマーの鐘の鳴る白いカックー寺院までは、わずか200km、同じ文化圏に入ったと意識させられる。



 市内から北西に約30km、ミャンマー国境近くには人口12,000人のMai Nai Soiの難民キャンプがある。GoogleMapで見ると、乾いた山林地帯の一本道の先に突然稠密な独立住宅集落が現れる。集会所か学校のグランドらしきものもある。



ミャンマーは多数のビルマ族と、西部のロヒンギャ、東部のカレン族・カチン族との間に民族問題をかかえる。もともと山岳少数民族はミャンマー、タイ、中国にまたがる地域に住んでいるために、国境が民族を分断した結果とも言える。カレン族はサルウィン川のダム開発による強制移住と迫害を受け、ミャンマーからタイの山岳地域に逃れてきた。経済発展の名のもとに少数民族の土地がうばわれ、不毛の土地に追いやられる悲劇の構図は、どの大陸でも繰り返されてきた。タイ国内にある9キャンプの中でも最大のメラキャンプには、47,000人の難民が住んでいる。




 難民キャンプは、防御、食糧、医療、教育に関する基本的な生活支援が、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)と海外NGOにより行われている。住宅は難民自ら建てる場合もあるが、その適地は政府の指示に従うことになる。難民キャンプは仮設の位置付けではあるが、UNHCRの計画基準に合わせる必要がある。グロスの計画人口密度は220人/ha(一人当たり45㎡)標準で、最低330人/ha(一人当り30㎡)で、都市の住居地域と比べてもかなり稠密である。



住居は一人当たり3.5㎡を基準としている。
住区計画は16家族を1コミュニティ単位として、16コミュニティを1ブロック基準とし、4ブロック合計5,000人を1セクターに、さらに4セクター合計20,000人を1住区としている。
学校は5,000人に1校、ヘルスセンターは20,000人に1か所としている(UNHCR Emargency Handbook)。
つまり、日本で認知されている近隣住区理論の2倍の居住密度ということになる。




カレン族の難民キャンプは過去にビルマ軍から攻撃を受けたこともあるが、近年の脅威は大火事と土砂災害、水害である。重機もインフラも整わない地でどんなメンテナンスをしているのだろう。



 メ-ホンソンの国連事務所に、立入り許可の為の資料を持って出かける。所長が不在で翌日再び出向くが、予定の通訳兼務のタイ人が来られなくなったこともあり、バンコク事務所でしか受け付けないと一蹴される。最後の頼みだった日本人の所長はすでに退任していた。
替わりに、住居や集落形式は難民キャンプとほぼ同レベルのカレン族の古い集落を教えてもらった。



街の市場で行き方を尋ねるが、関わりたくないのか村自体の存在を知る人も少なく、トゥクトゥクを見つけ交渉する。彼の示す観光リストには目的の集落はあったが、あまり浮かない顔をしている。あとでその理由がわかった。



途中、竹橋で有名なSu Tong Pae Bridgeに寄る。この橋は自然景観の中にある橋としては、竹なので違和感なく自然に溶け込んでいるが、構造的には鉄パイプと波板で支えた新しい橋であった。



1時間ほど走ると、Long Neck Villadgeの古い板看板があった。何度かUNHCRのRVとすれ違うが、やがてトゥクトゥクでは登れない坂に差し掛かる。近くの村の青年に頼んでバイクに乗り換えNai Soiのカレン族集落に向かう。
その途中に難民キャンプの入口がある。ここからはタイ国内の国境でもあり、民間人は特定のNGO以外は入れない。



 赤カレン族に属するパドゥン族は首長族とも呼ばれる。追いやられた痩せた土地は農作物が育たず、現在はミャンマー各観光地や、チェンマイ近郊の民族村に移り住み、特異な意匠を公開しわずかな観光収入で生計を立てている。彼らの処遇に悲哀を感じ、ファインダーを覗いたら、手織りのデザインと技術に見入り尊敬し、ストールを支援購入すべきだろう。



 Nai Soiのカレン族集落はかつて観光村だったが、チェンマイ近郊の観光村に客を奪われ、今は訪れる客もなくひっそりとしていた。竹・木造の独立住宅が街道筋に10戸ほどあり、集落の行き止まりに粗末な学校があった。



タイはバレーとサッカーが人気で、グランドにはバレーネットがあった。難民キャンプの普及活動にも日本の元サッカー選手が一役買っている。遊具もあるが平地が少ないので、学校の隅に置かれていた。



村人は総出で家の梁を補修し屋根を葺いていた。恐らくキャンプ内でも専門の建築屋がいるわけでもなく、自分たちで協力して建てているのだろう。



谷間の村は排水溝もなく、家の背後に河積が残っているだけで、住宅は高床式であることから、雨季には小河川は氾濫し周囲は浸水してしまうだろう。この集落の6km先の難民キャンプの生活は、定住の保障も現金収入もないこれ以下の生活を想像すると、UNHCR やNGOの支援がなければ、娯楽のない食べることに特化した生活が見えてくる。



 タイ、ミャンマーの国境地帯は、先の大戦の亡霊が今も安住の地を求め徘徊している。ミャンマーのシャン州やタイ北部のメ―サロンは、中国の国民党が共産党から逃れ移り住んだ地としても有名である。
カレン解放軍(KNLA)の軍旗の半分は旭日旗である。この地域はインパール作戦の旧日本軍の敗残兵が最後に辿り着いた地でもあり、中には民族独立運動に身を投じた者がいたためと言われる。
難民の悲劇には常に戦争が付きまとう。



  
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Posted by Katzu at 00:10Comments(0)まちづくり

2017年04月05日

ファランがつくるアジアの街



 タイ人は西洋人、特に欧米系白人を総称してファランと呼ぶ。日本では日本人以外は、ひとくくりに外人と呼んでも特に差別意識はないが、このファランという言葉はちょっとニュアンスが違う。ベトナム戦争を含め戦後住みついたアメリカ人の退役軍人がファランだった時代から、現在はバックパッカーやリタイヤ移住組がファランと呼ばれている。



仮にファランに交じり一緒に酒を飲んでいても、タイ人からすればセルビア人やコロンビア人はファランでも、あなたはコンイ-プン(日本人)よ、ということになる。外国人はファランと日本人に分かれ、最近はそこに中国人、韓国人が加わったという。日本は戦後もタイに大きな影響力を持ってきた訳で、良い意味でも悪い意味でも日本人は特別な(変わった?)人種であると認識されている。



 確かに都市のインフラだけでなく、バブル期までのバンコクのパッポン通りやパタヤなど夜のイメージを作ったのは日本人で、そのため後ろめたさもありスクンピッド界隈の日本人社会にも今まで接点がなかった。東南アジアというと、未だにいかがわしいイメージで捉える人は、最近のアジアの発展を知らないだけで、むしろモラルやタブーは宗教感のない日本の方が崩壊している。


 

 東南アジアには、ファランがたむろする街が各地に存在する。
ファランの多くは都市部の長期滞在者だが、魅力ある地方には長期旅行者、バックパッカ―が集まる。人の集まる人気の街は、すたれながらも移動していく。そのスタイルは、昔は長髪ヒッピー、現在はタトゥ―ファッションの若者たちが多い。



彼らの選ぶ街は、自然に囲まれある程度の居住環境が整った小規模の街である。タイは外国人居住に寛大で、多くの企業誘致も積極的で、同じく観光ビジネスも発展してきた。開発の専門家が外国人の居住適地を探す前に、ファランが心地いい宅地を探して住んでいるという解釈もできる。



4年前、チェンマイの内陸環境が日本的でリタイア組の居住地として注目された。しかし今や都市化が進み、大気汚染、車の渋滞、地価の高騰、観光客の増大により、都市部ではのんびり静かな環境を取り戻せそうにない。旧市内に無数に増えたゲストハウスも頭打ちで、ナイトマーケットも以前の雰囲気はない。

彼らは何処に行ったのだろう。



 彼らのトレンドはさらに山道で3時間、北西140kmにあるパーイの集落に移っていた。パーイ川の流れる盆地の中心にあり周囲を山に囲まれミャンマー国境にも接し、シャン族、リス族などの少数民族の割合も高い。観光といえばバイクツーリングとトレッキングと温泉くらいであるが、標高550mの土地はバンコクにはない朝夕の涼しさがある。
大都会を逃れ避暑に行くのはタイ人も同じで、州北部のメ-ホンソンの丘にあるワット プラタートでは雲の上の朝日を見に来たと、バンコクから来た学生が言っていた。




 街の川沿いには竹.木造の洒落たバンガロー型ゲストハウスが連なる。決して高級ではないが、昼は静かで木々の中で田圃が残るアジア的農村風景が裏手に広がる。




その後、増えるゲストに合わせるように、街は飲食店、土産屋が増え、コンビニ、ATM、ツアーデスクが現れ、定期的なナイトマーケットが開催されるようになった。アジア各国のナイトマーケットは、日本全国を回るテキ屋と同じで地域の個性が薄れ、国内観光客はすでに興味を示さない。通りを歩くのはほとんどが外国人観光客であった。




パーイの夜間人口は3万人だが、昼間人口の半分以上は外国人だろう。一方、インバウンド効果で海外観光客が増えるとインフラが必要になり、旧日本軍が造ったパーイ空港を整備し、一時途絶えた定期便が乗り入れするようになった。
ファランが歓迎されるのは経済効果をもたらすためだが、街の自然な発展とは合い入れない側面がある。



 計画的な街と違い、交通インフラと街のルールが整わない場面が多く見られる。河川の整備がなされないまま河岸にゲストハウスが立ち並び、雨期には浸水被害が顕著になった。ファラン達の昼の生活は、癒しの景色と静養に飽きるとレンタバイクで郊外に出るようになる。



彼らはかなりの割合で足に包帯を巻き松葉つえを突く者もいる。道路の陥没や未舗装路での転倒事故が絶えない様子で、集落に大きな病院は1院しかない。街中では夜遅くまでミュージックバーが営業し騒ぐため、規制がないままに静かな集落の相隣環境も一変している。




 ファランの語源は、ベトナムのフランス人(ファランセ)からきたという説もあるが、ベトナムの古都ホイアンもファランが作った街の典型である。世界遺産の街は古都の名の下に、外国人がプロデュ―スした観光地であることは計画する立場からみれば直ぐに見透せた。

その計画手法は

・ 街並みを同じ建物形式・同じ色で統一する。
・ メインの歩行者動線を歩専道にして通過交通を排除する。
・ 歴史的建造物と休憩エリアを同一スポットにして集客する。
・ 古い建物の更新、改築は新しい文化芸術の発信基地となる。



・ ウォーターフロントの開発。
・ ライトアップによる夜の街の演出。



・ 名物と食文化の拾い出し。
・ 教育機関とボランティア活動の連携。
・ 住人と街の統一的なイメージづくり。




この街が自然発生的に出来上がり、長い歴史を経て残され住民が保存したというのは表面上の話で、その背後には西欧の計算的な街づくり手法が取り入れられている。

ホイアンはこの街を訪れその魅力に気付いた観光客のファランと、この街を研究し世界遺産の指定を支援した研究者のファランと、この街を整備しコーディネートしたファランがいて、はじめて、地元の力を突き動かしこの街が出来上がったと見るべきだろう。





   


Posted by Katzu at 22:49Comments(0)まちづくり