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2011年09月30日

パラオ帰省

 台北からの入国は初めてだったが、自転車も無事で、
無料持ち込み、税関も問題なかった。
しかも、トランジットでないにも関わらず、
台北の税関内で預かってもらう裏技を使った。
ネゴシエイトの勝利である。

 空港は、到着便のため日本人は一人もなく、
知り合いの中国人に会っただけだった。
乗用車のトランクに入りきれない荷物も、
他の車で運んでもらった。

DWモーテルに泊まったが、その日は近くの1ドルショップと、
新しく出来ていたモグモグに行った。
ちょっと高級な鉄板焼き屋さんだった。
台北での1日分の食事代が消えた。

 次の日、Bikeを組み立てた後、コロール州政府にあいさつに行く。
入口付近に、キノコがたくさん生えていた。
ここ数年で一番多い生え方だ。
今年は雨が多かったのだろう。
1年前は給水制限もあった。
キノコはエノキシメジに似ていて食べられそうだが、
猛毒のヒトヨタケの傘に似たものもあるので、変種かもしれない。
今回はやめておこう。



 元の職場に沖縄のサーターアンダギーを持っていく。
なんだなんだ、と集まってきた。
パラオのタマと同じだと知って、神妙になっていた。



 遠くで手を振り、名前を呼ぶ人がいた。アダチ州知事だった。
手を広げ駆け寄り、笑顔であいさつしてくれる。
口の中をビンロウで赤く染めながら、こんな気さくな接し方をされると、
また帰ってきたくなる。
彼は人望も厚く、人気のある政治家である。

 突然の訪問で驚かせたが、通りすがりの1旅行者の方が
気楽だったかもしれない。
午後からは後任者との打ち合わせ、部長からは委員会の
食事会(打合せ会?)の話を受けた。
だんだん仕事できたような雰囲気になってきたけど、
1年間気掛かりだっただけに本望である。

 オリンピック委員会に行って、競技の情報を確認しに行く。
やはり、バイクレースとトライアスロンは中止になり、
今年はオーシャンスイムとカヌーレースだけらしい。
3日前にメンバーからメールをもらった。
いつも直前にならないと競技内容が公表されない、パラワンスタイルである。

 オーシャンスイムか、最近泳いでいないので、国立プールに泳ぎに行く。
前と変わらず、青い目のジュディとSimaさんが子供たちに教えていた。
久しぶりの姿に信じられない様子だった。
彼女はずっとパラオ人を指導し、Japan Openや国際大会に出場させながら、
オリンピック委員会で働く凄い人である。



日本の誰もいない殺風景な50mプールと、
少し濁っているが海に面し潮風を受け、
活気のあるこの25mプールとの違いは、
一体何なんだろう。

  
タグ :パラオ


Posted by Katzu at 16:45Comments(0)パラオ

2011年09月29日

台湾の日本建築物

 明治から昭和にかけて作られた建築物は、日本近代建築の黎明期にあり、
威厳を保ちながら、想像性や機知に富んだ建築物の傑作が造られた。
日本統治時代の建物は多くが壊されたが、台湾では残され維持されてきたものが多い。
その代表が台湾総督府である。



森山松之助の設計で、東京駅同様、辰野式建築物の代表作と言われる。
大正15年に造られ、赤煉瓦と白の配色が美しい。
真東からの正面景観は、他の国の首都建築物に引けをとらない。



監察院なども同様なデザインであり、
現存する公共施設は、一定の意匠統一がなされている。

 地方に行っても、日本統治時代の雰囲気を残す建物が多く残る。
これは花蓮市にある、松園別館と言われる
高級将校の招待所として使われていた建物である。



 現在は、お洒落なギャラリーとして利用されている。
蓮の花咲く池の前で、果実茶を飲んでいると、うたた寝してしまい、
自分がどこにいるかわからなくなってしまった。




 その近くの道を歩いていると、突然日本的な通りが現れた。
ガジュマルと生垣が美しい、南洋の日本の街並み。
現在は住んでいないが、統治時代の官舎がそのまま保存されていた。

 

 アジアの他の国々では、被支配者の立場から壊された建物が多いが、
台湾ではそれを今でも維持管理しながら、大切に保存している例が多い。
日本でも見ることの無くなった、戦前の木造平屋建ての官舎を歩いていて、
無性に感動してしまった。

 台湾は、恐らく世界で最も日本語が通じる国で、道に迷うこともトラブルもなく、
不快感もなく、安全に旅行できた数少ない国である。
そこに親日が加われば、感謝せずにはいられない。
  


Posted by Katzu at 22:01Comments(0)アジア

2011年09月29日

台湾の断崖



 台湾東部の太魯閣渓谷から太平洋に落ち込む断崖を見ていると、
台湾の国と民族の歴史が紐解けてきた気がする。
国立遺伝子研究所の指摘した、
DNA比較による台湾と沖縄の断崖のような違い、とは何か。

台湾東部海岸は、太平洋からほんの20kmの距離で、
3000m級の高山に到達する。
このように急な断崖の連続は、世界的にも
インドネシアのスメル山あたりしか見られない。
しかも、この山群は大理石の塊で、この土地の石文化を育んでいる。
白い岩肌と、そのカルシウムの解けたアルカリ性の青い水は
美しすぎて、魚類も育たない。



この周辺には阿美族や太魯閣族を含め、山岳少数民族が住んできた。
そしてこの自然環境は、長い間、漢民族の支配をのがれ、
日本軍も反抗に多大な犠牲を払った。

 最近、DNAの人種起源を探る研究が盛んで、
その特徴の一部を捉え、民族論を展開する主張も多く見かける。
アイヌ・大和・沖縄は同じDNA配列を持つとか、
日本人には朝鮮人にないDNA要素があるとか、
台湾人と漢民族には同じDNAの特徴がない、とかの類いである。

 断崖のような民族の違いを際立たせたのは、小サンプルのDNA鑑定である。
一方、断崖により人を遠ざけ、山岳少数民族の希少性を生んだのは、
この特殊な地理環境に他ならず、生活・音楽文化においても、
台湾の本省人・外省人・沖縄人との違いは際立っている。

小泉文夫の世界の民族音楽集大成の中の、『台湾の音楽』は、
アフリカやブルガリアンボイスにも通じる驚愕の1枚であった。



 短絡的に台湾と沖縄の断崖のような違い、ではなく、
台湾少数民族と多民族を区別した断崖が、その違いを生んだと解釈できる。


  


Posted by Katzu at 01:21Comments(0)アジア

2011年09月27日

台湾の交通事情

 那覇から台北に来て、アジアに戻った感じがする。
と同時に、沖縄はアジアへの入口だと改めて思う。

台湾は車中心社会である。特に特徴的なことは、交差点の優先権が車にあり、
歩行者は右左折車に注意する必要がある。
高速道路が片側5車線ほどもあり、現在も新線が建設中である。



台北市内はバイクが多く、自転車はほとんど見かけない。
路肩が狭く、バイクが車の間を縫って走り、車の先を行こうとする。
バイク専用の駐車場もあり、管理も整っている。
どの都会も同じで盗難は、多いのだろう。



 これが郊外に行くと、路肩も広く走りやすい。自転車の数も増える。
台湾は最近健康ブームと、メーカーの世界的台頭でサイクリングイベントも多い。
サイクリストをつかまえ話を聴いた。
台湾1周は約9日掛かるが、ゆっくり2週間がベストである。
市街地の多い西海岸より、東海岸が走りやすい。
最後に市内の道を聞かれ、地図で道を一緒にさがした。
サイクリングは、これから普及していくだろう。



 高速鉄道網は、日本の技術援助による西側の台湾新幹線はじめ、
東部も含め、ほとんど1周運行している。
台北市内の公共交通機関はMRTが発達している。
解かりやすく、清潔で、治安もいい。



台湾の交通計画は、内陸横断道路網の整備と2次アクセスの確保が課題であろう。

 治安は良さそうで、嫌な思いもなく旅行できるが、ひとつだけ気になることがある。
車の防犯ブザーが、街で何度も聞こえた。
2日間で4回鳴り続けていた。
多分、誤作動か、操作ミスだろう。

  


Posted by Katzu at 08:12Comments(0)アジア

2011年09月24日

奥ヤンバルの森

 沖縄本島の魅力は、手付かずの北方にもある。
観光客は辺戸岬くらいしか行かないが、ヤンバルの森は
観光客を寄せ付けない不思議な自然がある。
ヤンバルの森は広大な照葉樹林に覆われ、ヤンバルクイナやノグチゲラなどの
固有種も多く、世界遺産候補地にもあげられた。



 森はスダジイ、ヘゴ、ネムノキなど、形も色も濃い。
台風もすぎたばかりで、風があったが少し肌寒く感じた。
しかし、セミの声がうるさい程鳴いている。
初めて聞く金属音のカーンという鳴声は、たぶんオオシマゼミだろう。

 東村から大宜味村、国頭村と2日間に分け自転車でまわった。
奥ヤンバルの県道2号は、標高300m近くまで上って行くが、
延々と同じ風景が続く山道であった。
これだけ長い間山に居ると、動物に遭いそうだが、
特に出会わなかった。
道端にはたくさんのアゲハ類が羽を休めず、飛び回っていた。



 ヤンバルの自然が残った理由は、皮肉にも戦争の被害が少なかったことと、
国頭の森の3割が今だに、米軍の訓練場になっているからである。
道路だけが国有地の借地になっているところも多いが、
広々とした土地の真ん中を走っていると、
沖縄に居ることを忘れてしまう空間である。


 
  


Posted by Katzu at 00:43Comments(0)里山の環境

2011年09月21日

風の道

 家の前では、台風の影響を受け白波が立っている。
ここは屈指のカイトサーフィンエリアらしく、
風の吹く日はよく楽しんでいる姿を見かける。
ここは海風の通り道である。



 自転車ライフなので、近所のスーパーにデイパックを背負い出かける。
と言っても高低差50mなので、ロードレーサーでも少しきつい。
買物自転車では立ちこぎしないと無理である。
さとうきび畑の道を上って行くと、風にあおられ、よろける。
ヘルメットでなかったので、帽子が飛ぶ。
この風が自転車にとっては、かなりやっかいで危険である。
このような強い風圧は下り坂での経験があるものの、
自転車は前方からの風は受け流せるが、横風には弱い構造なのである。



 3日間近く台風15号が、沖縄近海を迷走している。
もうかなりの間、風雨と晴れ間が交互に現れ、長時間は外出できない。
雨だけの場合、あきらめが付くが、
車のない生活はかなりの不便を強いられる。
沖縄の人がシーチキンを箱で買う習慣も、
テイクアウトが増えるのも、この気候が生活に大きく影響している。

雨が多く、蒸し暑いというのも理由の一つだが、
東南アジアでは自転車の利用は多い。

 沖縄では台風と風が、自転車利用を阻害している。
台風15号の影響で、自転車だけの生活も1週間で中断し、レンタカーを借りに行った。
自転車を空港まで持っていく手立てがないためである。
公共交通の整備と、道路の段階的整備が必要だと感じる。
そして次世代には、脱原発と脱自動車社会というキ―を渡さなければならない。

 自転車の普及活動は、サイクリング協会がレース絡みで行っているが、
地元の交通安全教室はどう行っているのだろう。
歩行者、自転車のハザードマップを作りたいと考えていのだが、
帰国してからヒアリングしてみたい。

  


Posted by Katzu at 03:36Comments(0)エコ

2011年09月18日

沖縄自転車生活



 飛行機から見ると沖縄の島々は、
美しくも小さく平たく、移動が簡単そうに見える。

 沖縄に戻り、車のない生活を体験してみようと思い立つ。
那覇ならまだしも、バス以外の交通手段がない地方では、
絶対無理、考えられないと知人から言われた。

 コザに用事があったので、早速出かける。
隣町だがルート選択には苦心した。

その条件は
1、路肩幅が50cm以上の道路
2、高低差のないルート
3、交通量の少ない幅員6m以上のルート

これを地図上から探すのが大変で、先月車でシュミレートまでした。

 沖縄の歴史が特殊な交通環境を作った。
米軍用地は平地にあり、それを取り巻き都市が発展した。

幹線道路も基地を避け高低差がある峠を通っている。
これがくせもので、短距離でかなりの勾配がある坂がある。

 欧米の交通計画は、古典的ブキャナンレポートの歩車道分離の法則に
基づているが、日本ではいち早く沖縄に取り入れられた。
隅切り半径の大きな交差点、狭い路肩、段差のある縁石構造の
車道が一早く建設された。
しかし、歩車を分離しただけで、二輪車の通行レーンは全く
考慮されていない。しかも、危険な分離帯なしの4車線道路も多い。



 結局この日は雲行きも怪しくなり、石川経由で戻る。
都合64km、920kcal消費だった。
これだけ走ってかつ丼1杯、
しかし、バス代にすれば2000円、これは大きい。
しかも、9.6kgのCo2削減とでた。
CDMの排出量取引に合わせ計算すると、月約1000円程度である。
個人のCO2買取制度ができればいいのだが。
このワイヤレスサイクルメーターは安い割には、かなりの優れものだ。



かくして、沖縄でのエコライフが始まった。

しかし、沖縄で自転車が全く普及しない理由が明らかになる。
  
タグ :エコ自転車


Posted by Katzu at 22:30Comments(0)エコ

2011年09月16日

守られたホタルと変化した環境

 

 山形市東沢にホタルの里がある。
環境庁の日本のふるさといきものの里百選になっている。
梅雨の7月12日に行った時は、人と車が大勢で、
保存会の人はライトを消せとか、フラッシュをたくなとか、
ホタルに触るなとか、暗闇の中でのやり取りがあった。



1か所、沢に転げ落ちる箇所があるので危険だし、
観光地になった途端に自然環境は変化していく。

 この場所がホタルの里になった理由は3つある。

1、こつこつ積み上げた個人の努力と熱意
2、里づくりの地域サポート
3、蔵王ダムの建設と地球温暖化

 昭和30年代にこの場所は、年に一度川遊びに来ていた所で、
水温は冷たく、白い石が一面を覆い、ホタルに適した環境ではなかった。
むしろホタルは下流域か田んぼの小川に生息していた。
昭和40年代にできた蔵王ダムの影響で、川は水量が減り、
水温も上がっていった。
コケや葦の茂る馬見ヶ崎川の中流域では多くのホタルがいた。
一度、ホタルダマリがぶつかるのを見たことがある。
数は減ったが、現在では蔵王インター付近にも生息している。

 今回改めて現場を歩く。
現在の東沢の環境は、30年前の下流域の環境に似ている。
ブラックバスが生息できる沼のような河川環境の変化は、
蔵王ダム・林道の開発と地球温暖化によってもたらされた。



この周辺は、豊かな生物をはぐくむ広葉樹林が伐採され、
針葉樹の植林とともに、その管理林道が整備された。
林野庁主導の針葉樹林管理施策は、高度成長時代の材木需要を
見越したもので、現在は利権の継続になっている。
本来あった広葉樹林を、守り育てるべきであった。

 環境教育の名のもとに、自然を守ることは大切である。
しかし、人間が自然に手出して自然を作ろうとした時に問題が起きる。
ホタルを増やすことは東京の丸の内でもできる。
問題はホタルばかりか餌のカワニナを他の河川から持ってきたり、
違う池の環境で育てることで遺伝子撹乱が起きることである。

 実は4年前、ビオトープ(復元された野生生物空間)を
都市公園に設計し、失敗した苦い経験がある。
かつて農業水路は農家が管理し、ホタルも生息していた。
開発が進み、管理形態が都市公園になった途端、
地元の懇切な管理から離れ、泥上げもなく、水量管理が難しいため、
水を止める時期もあった。



 環境教育に利用したり、魚やタニシも生息したが、
白サギに食べられたり、ホタルに関しては遺伝子撹乱の問題に直面し、
それ以上は作れなかった。
何より地元のサポートと、率先するリーダーがいなかった。

 人間が手を加えなくても、生物環境は変化している。
沖縄には固有種を含め8種類のホタルがいるが、
いずれ本土にも上陸していくかもしれない。

だからなおさら、自然に手を加えるのは難しい時代になっている。

  


Posted by Katzu at 23:25Comments(0)里山の環境

2011年09月15日

音楽の力...定禅寺JAZZとMUSE

 日曜日、仙台で大学生に交じってTOEICの試験を受けた。
真剣な面持ちの学生に、英検を受けた自分の学生時代を重ね合わせた。

帰り、晩翠通りで渋滞に巻き込まれる。
デモ隊が1車線を占拠していた。
反原発のシュプレヒコールが打楽器とともに繰り返され、一緒に並走した。
一瞬70年代のドラマを、萱の外から覗き込んでいる気持ちになった。

曲がることもできず進むと、今度はジャズのリズムが聞こえてきた。
定禅寺ストリートJAZZフェスティバルであった。
前振り付きの千載一隅となった。



 何ヶ所にも分かれたステージで、ジャズのみならず、ブルース、
ロック、カントリー、クラシックと何でもありで、
音楽好きにはたまらない環境であった。



 本格的かつマニアックな音楽が多く、それを知る音楽ファンなら、
モンク風だとか、憂歌団風だとか、オールマン風だとか、
理解できて狂喜乱舞できたが、それを知らずとも、
足を止め楽しんでいる一般客が多かった。

2日間で746組、約4900人、79万人!ウッドストックの約2倍?
の観客人出だったという。



 大震災のこともあり、全国から集まったミュージシャン達は
気持ちが入って、どこも感動的なステージばかりであった。
こんな文化的なイベントをやれる仙台市は、進んだ都会だといつも思う。

街からの視点に立てば、早期復興は叶うと感じた。

 1979年, スリーマイル島原発事故をうけ、ジャクソンブラウンら
ウェストコーストのミュージシャンによる「ノー・ニュークス(反原発)」が行われた。
60年代よりアメリカでは、プロテストソングに代表される
社会変革の精神が若者の心に根付いていた。

でも、歌によって社会は変わらなかった。

我々は、反捕鯨のこともあり対岸のことと受け止め、
儲けや売名のためと影口をたたく者もいた。



 しかし、その行為に感動し、活動する人間が育ったことが
彼らの成果であり、社会の財産になった。
改めて歌の数々を聴き返してみると、色あせないどころか、
この間、自分は何をやってきたんだろうと胸を突かれる。

 32年後、MUSE Benefit For Japanがサンフランシスコで先月開催された。
彼らの主張が正しかったことは、今の現状をみれば明らかである。
欧米人と接する機会が増えた今、
彼らの精神は個人主義である一方、デモクラシー、公共の福祉という
教育環境に基づいたものであることが、ようやく理解できるようになった。



 イデオロギーという言葉が途絶えて久しいが、
大震災後、再びそれが人々をまとめ動かす環境が整いつつある。

 それはかつての五感を刺激する音楽なのか、
内に入るり込む宗教なのか、
知的好奇心を即時刺激するTwitterなのか、
グローバルに増やすFacebookなのか、
今はわからない。
  
タグ :音楽環境


Posted by Katzu at 18:05Comments(0)街の環境

2011年09月14日

紫に染まる山

 秋の飯豊山は紫色の花で染まっていた。
みちのくの高山は9月の上旬とは言え、既に秋の気配がする。
ナナカマドなどは色づき始めている。
白黄赤色の夏の花の季節が終わると、青や紫の個性的な花が咲き始める。
光合成の関係か、虫との関係か、温度の関係か、
色彩学で証明できるのかはわからない。


        ミヤママツムシソウ


        ハクサンチドリ


        ハクサンフウロ


        ハクサントリカブト

集まる蝶や花アブを見ると、冬の死の世界を
粛々と迎えようとしているようでもある。





 次の朝、気温は8℃に下がり、朝焼けも不気味な赤紫に染まり、
天候も下って行った。



 飯豊のリンドウというと、固有種のイイデリンドウが有名だが、
個人の百名山ブログなどを見る限り、勘違いも多い。

東北全体に咲くオヤマリンドウは、不思議な花である。
紫のつぼみを見せながら、その花が咲くのを見たことがない。
咲く前に雪が覆ってしまうからだ。

桜のような浪花節的な派手さはないが、
100%満たされることのない美学を感じてしまう。


     ハクサンイチゲとミヤマリンドウ


        オヤマリンドウ

 原発事故後、この山の南側、福島県側の放射線飛散量は、
近隣の平地よりも高い値であった。
水溶性のセシウム137が集まる湖沼は、
これからも継続的なモニタリングが必要であろう。


  
タグ :高山植物


Posted by Katzu at 00:03Comments(0)山の環境

2011年09月11日

震災復興計画その22

 震災6カ月後の被災地の復旧状況は、地域により大きな差がついている。
しかし、表面上はがれきが撤去された地区でさえ、
元の生活に戻る道筋がついていない。
被災状況の把握から分析が進行し、有効な土地利用や防災施設の計画が
遅まきながら議論されている。
現制度下での事業化の遅れ、利権、政治の混迷など、
従来通りの目先の議論に時間だけが経過してきた。
震災1カ月後に概略の復興計画案を提案したが、
悪い予想は当たってしまった。



 この日、閖上の被災地、名取市役所に行き、
コンサル仲間の話から今の状況を把握する。
 閖上地区を例にとると、被災地は整然としつつあり、
盛土の搬入も行われ、全地区でも最も早く撤去が完了しつつある。



 復興案については、既にコンサルと名取市役所が作成した
パブリックコメントを住民に数案提示している。
集落によっては移転を決め除々に計画を進めている。
しかし、他地区の場合、コンサル仲間は多くの計画案を提出しているが、
基本はマスタープラン案であって実施計画までは至らず、
担当者共々なす術がない。

 その理由は

1、現行の防災集団移転促進事業、被災市街地復興土地区画整理事業では
  財政負担、補助対象、即効性において不十分である。

2、宅地に対する国の姿勢が示されていない。

3、被災者の現実の生活再建と将来構想のギャップを埋められず、
  移転の判断が付かない被災者が多い。

 1については、ようやく国交省が宅盤の嵩上げ盛土の補助対象を拡充したが、
それだけでは不十分で、事業全体のシステムを考える必要がある。
新しい事業制度の創設が望まれる。
それは従前の土地評価に見合う土地を選択できる新しい事業制度である。
空間土地区画整理事業か土地の拡充債権化である。
区画整理事業は最低3年を要するので、その間の生活維持が課題である。

 2については、特に宅地についての方針を国が表明していないことである。
被災農地について鹿野大臣が元の農地に戻す旨と被爆農作物の補償を表明した。
建築物は別としても、国土を元の住める宅地にするか、
供給するか方針を示すことは国の義務でもあると思う。

 3については、被災民は既に生活再建に入っている。
しかし、自分の土地がどうなるか、方向性が見えない状態で
将来計画の意思を表明することは難しい。

専門家は、除染可能か、住める土地か、新たな宅地開発に何年かかるか、
勇気を持って公表する必要がある。

 この三すくみの状態で、この間を埋めることができるのは、
地域に密着して行動できるボランティアや市民の声、支援者の輪であろう。



この日、台風の影響で高波が壊れた防波堤に打ち寄せていた。
9.11テロの被害者家族の痛みが、グランドゼロの跡地計画が
進まない理由であることと同様、あの記憶が再建を遅らせている。




※空間区画整理事業:現行の従前従後の土地を同じにする区画整理ではなく、
離れた地区を事業対象にする創設区画整理事業。

  


Posted by Katzu at 09:11Comments(0)震災復興計画

2011年09月09日

北パラオ村

 宮城県蔵王町遠刈田温泉に北原尾という集落がある。
戦前、パラオには瑞穂村、大和村、清水村などの開拓村があり、
多くの日本人が入植していた。
終戦と共に日本人は全員引き揚げ、東北地方出身者を中心に
新たな開拓地を蔵王に求めた。
彼らはそのことを忘れないように、北原尾(北パラオ)と名付けた。



 平成13年当時のレメンゲソウ大統領がその話を聞き、
北パラオ村を訪問し労をねぎらった。
私もパラオに行く1週間前、代表の工藤静雄さんに話を伺った。
彼は山形県出身で、5歳の時パラオを離れたが、もう一度
パラオに行ってみたいと話していた。

そして、1年後その夢は叶い、訪問団とともにパラオで再会した。



元大統領やコロール州知事との面会も実現した。
ただ、元の農地はジャングルの中で確認できなかった。

 一昨日、名取市での打合せ後、北原尾に立ち寄る。
工藤さんの自宅に着くと、庭にいた野生のタヌキが立ち上がって、
こちらを見ていた。
奥さんが私を覚えていてくれて、笑顔で迎えてくれたが、
あいにく静雄さんは、熊狩りのオリを確認しに出かけ不在だった。



 この村は震災の影響も少なかった。
大変な苦労をしてきた分、風光明媚で温泉も近く、
平和な北のパラダイスに近づいている。
故郷を追われ、新しい村づくりを強いられた歴史は、
今回の震災にも共通するものを感じる。

 パラオでは2年間の滞在だったが、今だにその繋がりは絶えない。
今日も、州の建設部長からメールが来た。
契約は終り、後任がいるので義務はないが、
街づくりが進まないならば協力したいと思う。

他の用事もあるので、月末に再びパラオに向かう。
  


Posted by Katzu at 16:23Comments(1)パラオ

2011年09月05日

日本人のルーツ

 大学時代、地質学の守谷教授が、地層の花粉より
沖縄とアイヌの地質的同一性を説いた。
柳田國男の海上の道にも多いなる興味を持った。
二ライカナイ思想を信じ、南洋に探し求めた。

 近年、DNAによる人類の起源の研究が盛んになり、
私の興味も佳境に入った。

 母系遺伝子はミトコンドリアDNA,父系遺伝子はY染色体
その痕跡が刻まれる。
その双方に共通する遺伝子を類型すると、
日本人のルーツに関して、以下の特徴があげられる。



1.人類の起源はアフリカである。その中には3つのグループがあり、
  それぞれ世界に分化していった。
2、日本人のDNA配列はアフリカの3つの要素がすべて含まれる。
3、この3グループに合致しないパターンが
  台湾少数民族から見いだされた。

 特に3については、南太平洋から台湾に至る人の移動に関する
研究が現在注目されている。

 遺伝子工学は、歴史、文化人類学の領域まで影響を与えている。
これまで日本民族は世界で例を見ない単一民族であると言われてきた。
しかし、アフリカから出た3つの人種はそれぞれ変化を遂げるが、
多民族の交わる海洋国家の日本に至り、オリジナルの遺伝子が
混合進化したと解釈される。

 
日本人のルーツを示す3つの流れとは、
 A.旧石器時代、バイカル湖周辺からカムチャッカに移動、
   縄文人、アイヌとなる。
 B.新石器時代、朝鮮半島経由で渡来人がはいった。
   弥生時代、金属稲作の伝播とともに、本土日本人となった。
 C.南中国、台湾経由あるいは太平洋南方から沖縄に
   文化がもたらされた。



 日本人はDNA上、多民族であるが、最も近い民族は朝鮮民族である。
でも、似たもの同士、互いに認めようとせず兄弟げんかしている。

C についての遺伝子工学上の証明はなされていない。
少なくとも台湾原住民と琉球人との遺伝子の共通点は全くない。



沖縄の港川原人は縄文人というより、パプア・オーストラリア原人系
に近いが、絶滅した可能性も強い。



むしろ、人類の到達点が与那国島と台湾の間にあるとすれば、
周辺地域において大いなる民族同士の同化・隔絶があったと
考えるべきだろう。

A、B2重構造論についてはかなりの理解を得られているが、
Cの沖縄ルートについては専門家の意見は、今だ分かれている。

南方と沖縄を繋ぐ研究は、始まったばかりである。


資料:国立遺伝学研究所、NHK驚異の小宇宙

  
タグ :文化環境


Posted by Katzu at 13:50Comments(1)歴史遺産環境

2011年09月03日

震災半年後

 一昨日、那覇でO先生と飲んでいた時の話。
沖縄では震災の映像を見て、マブイ(魂)を落とした年寄りが
たくさんいたと言う。
近所の婆さんは腰を抜かし立てなくなって、泣いたあと気を失ったとか、
驚いて声を失い、それ以後テレビを見れなくなったとか、
純粋に傷ついた方が大勢いたらしい。
多くの人が亡くなった沖縄戦を経験したから、なおさらなのであろう。

かく言う私は、2日間の停電で、ラジオも乾電池が切れ、
生活するのに精いっぱいであった。
実際近くで見たら、冷静でいられたか自信がない。
その後1週間は放射能拡散のニュースが外国サイトで飛び交い、
生活用具を買い回る人達を尻目に、家の中に退避していた。
津波の映像に接したのはその頃であった。
10日後現場で見た光景は、戦争そのものだった。

 戦争の話になると、先生は思い出したのか、言葉に詰まり、
感極まってしまった。
情を唄に込める人なればこそと思う。
店を出たのは明け方近くだった。

 ティダのあがった数時間後、民間機と自衛隊機の並走する
危険極まりない那覇空港から、1か月前にようやく運行し始めた
那覇仙台便で仙台空港に向かう。



台風12号をギリギリかすめての航行であった。
このいつもの綱渡りを止めようと思うが、運命だから仕方ない。
機上から海を見るとあの津波の映像が蘇ってくる。
防砂林は同じ方向に倒れたままであった。
滑走路も歪みとクラックが目立つ。
旧共産圏や開発途上の国と同じサービスレベルであるが、
地域全体がそれだけのダメージを受けた証明である。
空港アクセス鉄道もようやく全線開通予定である。
空港周辺の施設の回復は進まない。



人が来ても、地盤の変化がインフラ整備を遅らせ、
宅地化が進まない理由である。

 人々は粛々と生活を始めている。
被災地無視の政治劇も一段落したが、新内閣が土地問題に
どこまで踏み込めるかが、震災復興のキ―である。
  


Posted by Katzu at 23:28Comments(0)大震災

2011年09月02日

やちむん通りは文化のクロスロード

 那覇に行く度に、壺屋やちむん通りに通うようになった。
壺屋は奇跡的に戦災から免れた町で、
古い那覇の佇まいを感じるからである。



知人から土産のシーサーを頼まれたこともあり、
帰郷する前日に各店をまわる。
シ―サーだけを見て、調べるほどにその深み、
面白さ、に魅了される。

 シ―サーの原型はエジプトのスフインクスと言われる。
このライオン像は中国を渡り、琉球にたどり着いた。
シンガポールのマーライオンのように、アジア全般で獅子像は
見られるが、左右対称で、対になっているとは限らない。

 一方、狛犬は、同じオリエントの獅子像を起源としつつ、
仏教の守護獣となり朝鮮半島から、日本に入ってきた。
狛犬は朝鮮半島の高麗犬が原型という説もある。
日本の狛犬はシ―サーと同じ、左右非対称の場合が多い。

 沖縄のシ―サーはオリエントのライオンを起源としながら、
朝鮮半島から日本経由の狛犬の影響を受けて、
創作されたと考えるべきだろう。

 もう一つのシ―サーの特徴は、素焼きが基本であることである。
中国の影響で釉薬を使った陶器が増えているなかで、
赤い土色は瓦同様、沖縄の焼物を象徴する色である。
これは南洋を起源とする素焼きの土器と同じで、
1000℃以下の焼成温度で焼いたものである。
八重山地方のパナリ焼は、南洋の古い土器と同じく、
赤っぽい素焼きに近い土器であった。




やちむん(焼物)の歴史は、16世紀の琉球王朝時代に始まると
言われるが、南洋から伝わった土器の長い歴史があって、
はじめて開花したものであろう。

 中国経由の獅子像、朝鮮日本経由の狛犬、南洋経由の素焼き土器、
この3つのルートがクロスしたのが、那覇の壺谷やちむん通りである。



 シ―サー探しは、本来の美しさを探すうちに、多くの選択肢がでてきた。

 現在、市街地での登り釜は都市計画法上、違法となり、
多くは読谷村などに移転したが、ギャラリーの多くはここが中心である。
窯元の作風の違いや、競合を生み出す状況は、観光のみならず、
文化継承にめぐまれた環境と言える。





  


Posted by Katzu at 15:46Comments(0)歴史遺産環境