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Posted by TI-DA at

2016年08月27日

神々の古代都市をひもとく



メキシコのテオティワカン文明は、紀元前後世紀に隣のマヤ文明とともにメソアメリカ文明の一時代を築き、その後のアステカ文明にも影響を与えた。神々の都市を意味するテオティワカンは、独特の宗教観、自然観に基づいた謎の多い古代の計画都市である。
前日、メキシコシティの国立民族博物館に1日中いたが、テオティワカン文明とマヤ文明を調べ見ただけで、メソアメリカ文明の神秘性と多彩多様な遺跡遺物の数々に圧倒されたばかりだった。





明らかにされない謎の多くは、施設の構造、施設配置、都市の隆盛に関するものである。今までは、宇宙観や死生観、終末論やUFO伝説など、神秘性が強調されてきた面が強く、なぜかハード面からのアプローチがないのが不思議だった。自分ならどういう都市をここに計画するか、という視点で現地に立つと見えてきたものがある。




テオティワカンの圏域人口は、ピラミッド建設の労働力、経済力から想定し、最盛期で10万、あるいは20万人と言われている。



入口付近に居住地跡が発掘、再現されており、この住居クラスターが遺跡の周囲を囲ったと仮定すると、200人/haの人口密度でせいぜい遺跡周辺の人口は3万人程度である。


    再現されたケツァルパパロトルの宮殿

南の入口から入ると、『ケツァコアトルの神殿』があり、北側にはエジプトのギザのピラミッドと同規模の『太陽のピラミッド』があり、さらに奥の正面には『月のピラミッド』がある。




遺跡は幅員40mの『死者の道』と呼ばれる直線道路で結ばれ、南北に2km続いている。南側から北を眺めると、近くの大きな太陽のピラミッドと、遠く小さいはずの月のピラミッドが背後の山を控え、遠景近景が相似に見えるようにバランスよく配置されている。まるで遠近法を考慮した景観手法を想定し計画されたように感じる。




底辺220m、高さ65mの『太陽のピラミッド』に登る。
紫外線が強く乾燥して息が切れるため、高地登山のように感じたが、それもそのはず標高は2300mであった。



遠目にはロックフィルダムの構造のように思われたが、近寄ると表面石は小さく、コンクリート石積にコンクリートパイルの替わりに立石を埋めたような構造になっており、近代まで何度も補修、化粧が行われてきたようである。




このピラミッドの配置を決める『死者の道』の基軸は15度30分、東に傾いている。


 通りには調査のための測量基準点が多く残る。

これほど巨大で複雑な構造物を作り上げる測量技術を持ちながら、この南北軸のズレは長い間、謎とされてきた。しかし最近、太陽が真上に来る日に沈む太陽の位置により、直角軸が決められたと言われている。テオティワカン遺跡は壮大な宇宙を表したと言われているが、月と太陽のピラミッドの位置関係を証明できるものはない。



月のピラミッドに登り、太陽のピラミッドを望む。ほぼ南の太陽のピラミッドの左には、ナワトル語で『煙を吹く山』を意味する聖山『ポポカテペトル山』の山群が見えた。太陽のピラミッドはほぼ南方向にあり、同時に聖山を避ける絶好の位置にあり、もう一つの本当の意味の聖山への死者の道があるように感じた。



『死者の道』には2~3mの壁が何段か行く手をさえぎり、よく見るとプール状になっている。この施設は、用水路説、宗教施設、水面に星座を写す天体観測所、果ては地震予知施設まで様々な研究結果がある。
結論から言うと、底面にある暗渠構造、石積み構造、3段の池の配置から見れば、明らかに調整池機能を持つ配水池である。洪水が起きれば雨水を貯留し、飢饉時に3万人の喉を潤すためには、ちょうど同程度の10万㎥の配水池が必要である。



改めて地形を見ると、この遺跡は北側の山側からの雨水を受け、遺跡の中心から東西南側に傾斜している。テオティワカンを盛土造成したことにより、サンファン川が大きく東側に迂回し西に戻っていることからも伺いしうる。
サンファン川は、従来は現在の死者の道を通っていたものと思われ、テオティワカンを造成した時に、月のピラミッドの下に地下排水路を造り、広場から神秘的な水を演出したのであろう。『死者の道』の地下には、旧河跡か人工の地下排水路が造られているはずである。




都市の隆盛は、人口の増大とともに山林の伐採による裸地化が進み、洪水が煩雑に起こるようになり、雨水調整池の役目を果たすものの、やがて現在のような砂漠化により川は干上がり、配水池の役目もなくなり都市として機能を失い滅んだのではないか。



ケツァルコアトルの神殿は水路の下流にあり、雨乞いの生贄になった白い羽毛のヘビが祭られている。
農業神であるケツァルコアトルの神殿は、その後侵入したトルテカ人により破壊されたとされるが、天水を制御できなくなった神を民自ら葬ったのかもしれない。




後に入植したアステカ人はスペインのコルテスをケツァルコアトルの再来神と勘違いし、彼らを無防備に受け入れ征服され滅亡してしまう。
マヤ文明圏ではこのケツァコアトルにあたるのがククルカンで、春分・秋分の日にピラミッドに降臨すると言われる。2012年のマヤ暦の人類滅亡論で有名になったが、うるう年を考慮してなかったせいで、再計算すると、本当は来週の9月3日にあたるという記事があったが、多くの人はもう信じない。




テオティワカンでは7月25日正午に太陽が真上に来る。その1週間前の7月19日の正午近く、ケツァコアトル神殿にククルカンの降臨と同じヘビの姿に近いものが階段に現れるのではないかと仮定し、待ってみたが階段にヘビの影は現れなかった。




古代遺跡の解析には、幾万もの星を対象にした天文学や幾万もの算式をあてはめた数学的解釈から仮定され、先駆的な知識と紹介されることが多く古代のロマンを感じるが、むしろ現実的な土木や建築のモノづくりの立場から解明できることが多い。




  


Posted by Katzu at 22:54Comments(0)歴史遺産環境

2016年08月23日

イグアスの国境地帯




イグアス川の源流に近いクリチバ周辺は、標高1000m近い丘陵地にあり、アマゾンの密林ともサトウキビ畑とも違うコーヒー栽培に適したテラローシャの大地が広がる。





さらに西に向かうとやがて広大な牧草地に変わり、バスで10時間後にイグアスの国境地帯に着く。
ここは既に、アルゼンチンの広大なパンパのラプラタ流域の一部に属する。




イグアスの滝が自然地理の七不思議と言われる理由は、リオデジャネイロの岩山から続く標高1000m程度の海岸山脈から、大陸内部に行くに従い低くなり、標高200mの大地から一気に100m落下し、河口のブエノスアイレスまで0.006%の低勾配で1500kmを下り大西洋に達する。つまり、大陸の勾配差と滝の落差が同じという、生きた地球の営みがここに集約されているためである。




イグアスの滝を20km下ったイグアス川とプラナ川の合流地点は、ブラジル、アルゼンチン、パラグアイの三国国境地点となる。この国境の街はそれぞれフォス・ド・イグアス、プエルト・イグアス、シウダー・デルエステと呼ばれ、それぞれの国境を橋で結んでいる。三国境の例に漏れず、かつては下流のウルグアイを含め南米の火薬庫と言われた紛争地であったが、現在、国境の緊張感は全く感じられない。滝により国境が移動することもなく、下流の合流地点は狭窄谷となり小さな貨物船が行きかっていた。

   
      アルゼンチン側から 合流地点

ブラジル側のフォス・ド・イグアスは観光を主産業にする国際都市であるが、街中は無味乾燥で魅力と活気に乏しい。有色人種が少ない白人の多い土地柄であるためで、リズムのない街がブラジルらしさを打ち消していると思われた。



ホテルや店の警戒するそぶりに、偏見や差別さえ感じたが後日納得した。この街は青少年の殺人犯罪発生率はブラジル一で、特にパラグアイからの犯罪者や麻薬がらみの事件が多く、アルゼンチン側からは政治亡命者などの入国ルートとなっている。通り過ぎる観光客には知られず、世界の観光地と言えども国境地帯の都市はどこも危険度リスクが高い。




市内からバスで1時間、イグアス滝の公園に到着する。ブラジル側からは滝全体が見渡せる視点場があることと、遊歩道が整備され滝近くまで歩いて近づけることがポイントである。滝は横幅が2.7kmもあり、そのほとんどが『悪魔の喉笛』という亀裂に轟音とともに吸い込まれる。その様は、天下無比の壮観という言葉に尽きる。多くの人がブラジル観光の目玉として推薦するのも理解できたが、ほとんどの観光客は飛行機で来て2時間ほど見てせいぜい1泊して帰ってしまう。




翌日、バスでアルゼンチン側に入国する。
プエルト・イグアスはどこにでもあるアルゼンチンの田舎町で、街は静かでブラジル側よりのどかである。



イグアスの滝をじっくり見るには下流側のアルゼンチン側の方が良い。




観光列車もあり、遊歩道は5kmくらいあり半日はかかる。



滝の上は亜熱帯の樹林帯で、植生は沖縄のやんばるに似ている。



100m川底に降りると霧雨で寒く、植物も小さく日本本土の渓谷と同じくキノコやシダ類が多い。




国立公園内で目を引く珍しい動物は多く、サル、鳥類を始め、アライグマ科のハナグマが生息している。

興味深いのは、両国でその対応策と動物の性格が異なることである。



ブラジル側ではカフェテリアに来るハナグマは凶暴で、席に上がり食物を食べるので、追い返すためのマラカスが各席にあり、専門の人がモップで追い掛け回す。ハナグマの刺傷例も多く感染症もあり注意を呼びかけているが、公園内で何度も悲鳴を聞いた。



アルゼンチン側では客はエサを与え、アナグマもなぜかおとなしく感じる。
自然環境が変わらずとも、人間の環境が野生生物を変えること、たった200mとは言え国境を越えた人種の違いなど興味深い対比ができる。


イグアスの語源は先住民族のグァラニー語で『大いなる水』を意味する。降水量の多い1,2月は迫力がある一方泥の濁流となり、きっと洪水の災害現場を思い出すだろう。冬期は天気も安定し、流れ入る上流の川も澄み滝が白く輝く、この6,7月がベストシーズンであろう。




イグアス川は年々水位差が激しくなり、今年は少ない方だという。しかし、この渇水期でさえこの水量であり、上流のダムで排水制限が起きるような時は、アルゼンチンの穀倉地帯のパンパが干ばつの危機にある事態である。



  


Posted by Katzu at 22:06Comments(0)地球環境

2016年08月07日

ブラジルのサクラ



日系社会の象徴であるサンパウロのリベルダージ駅に来るとなぜか安心する。世界最大の日系社会が地球の裏側に存在するのは、不可逆的な必然性によるものではない。単に移住先がその地だったという訳ではなく、ブラジルという新しい国の歴史や気候や文化が日本人を受け入れる素地があり、日本人も親近感を抱きつつ、新しい夢を抱かさせる何かがこの国にはある。




リベルダージには、東北や九州の各県人会事務所が点在している。


     32年前のリベルダージ駅前

かつて、駅前の映画館隣に山形県人会があったが既になく、沖縄県人会事務所に行って新しい場所を聞き、日系社会の行事とサクラに関する情報を得ようとした。事務所は日本フェスの準備で忙しく詳しく聞けなかったが、専門の事務員が常駐し町内会と同じようなそのコミュニティの強さに驚いてしまった。




7月7日、リベルダージ駅前に赤い花が咲いていた。
沖縄の11月に咲くトックリキワタによく似た花だった。パイネイラはブラジル桜とも呼ばれ、トックリキワタと同種である。沖縄のトックリキワタはボリビア産を移入したものなので、少し種類がちがうのかもしれない。



沖縄ではトックリキワタの花が終わると1月末にヒカンザクラが咲く。
サンパウロの桜祭りは8月5日、開花までには1か月近くあった。ということは、ブラジルのヒカンザクラ前線は、南半球なので沖縄とは逆に北に移動するため、今は南で咲いているはず、と予想できた。




サンパウロから南西へ300km。70年代、南半球の計画都市として紹介されたクリチバ市は、用途別の高度制限や都市交通の歩車分離を実現した新しい都市として教科書にも載っていた。特にBRTシステムは先駆的で、観光客にもわかりやすい乗降場は現在もその利便性は高い。




しかし、郊外の住宅地が現れ、中心市街地の用途が混在し始め、商店街が疲弊し始める。30年の年月は交通の質を変えた。自転車が高速化し、それに対応するレーンが少ないことと、キックボードという新しい交通カルチャーが若者に生まれたことである。



一方、旧市街地と新市街地との間には多彩な機能の公園があり、すでに街の景観に溶け込んでいる。街の石畳みのプロムナードは、小洒落た桜並木になり、多くの人が足を止めていた。




花を繁々見ているとボランティアが近寄り、さらに美しい桜並木が郊外の公園にあることを教えてくれた。



植物園公園は、計画的な都市公園としては恐らく南米一の質であろう。多くの市民が訪れており、広い芝生広場と植物園を結ぶ桜並木は満開であった。




桜前線を予想した通り、この花は沖縄のヒカンザクラ、もしくはそれに近い種類である。南米へのサクラの移入は大正時代から始まった記録があるが、ソメイヨシノは根づかず、沖縄のカンヒザクラが広がったと言われている。



沖縄の緯度とほぼ同緯度のクリチバ市には、沖縄の1月の冬の開花から、半年かけ赤道を越え、南半球の冬の7月に到達したことになる。そして、ブラジル各地のサクラは、日系移民が郷愁に駆られ植えられたものであることに疑いの余地はない。



ブラジルの歌のキーワードはサウダージ(悲しみ)であるが、その意味するものは郷愁、思い出といった感傷の意味合いを持つ。30年以上の時が経ち街の景観に溶け込んだサクラと、日系社会の歴史を対比すると感慨深いものがある。


        リベルダージ大阪橋

オリンピックの開幕式でブラジルの歴史が演出されたが、ブラジルの人種の多種多様性を代表する移民として、アラブ商人と日系移民が表現されていた。戦争と平和という意味もあるが、誇らしくも嬉しい気分になったが、地元の日系の方は複雑な想いがあることも知っている。

リオデジャネイロにヒカンザクラがあるとすれば、今頃はちょうど満開になっている頃だろう。



       リベルダージ日本庭園  


Posted by Katzu at 18:57Comments(0)街の環境

2016年08月03日

ファヴェーラのまちづくり



リオデジャネイロの景観は、世界三大美港といわれる港とそれに続く砂浜、大都会と岩山との織りなす他に例を見ないコントラストにある。平坦な市街地は意外と少なく、背後にすぐ山が迫る。



その斜面を這うようにファヴェーラと呼ばれる貧困層の集落が、必ず市街地に連担して形成されている。


       Santa Marta

観光地のレブロン、コパカバーナやイパネマでさえ、背後にはファヴェーラの斜面住宅地があり、その数はリオ市内に1000以上あると言われる。


       Santa Marta

ブラジルの2010年国勢調査ベースで見ると、リオ市の人口6,323,037人のうち、ファヴェーラの人口は22%の140万人と推定される。さらに市街地の人口増加率3.4%に対しファヴェーラの人口は10年間で27.65%増加している。
ファヴェーラの歴史は、奴隷解放により都市部に流入した黒人貧困層が、自分達で築いたコミュニティがその始まりとされる。リオのイメージは、映画『黒いオルフェ』の影響もあるが、陽が落ちると山手に灯りがともりサンバが聞こえてくる情景が思い浮かぶ。



ファヴェーラはいわゆる食べることもままならない貧民窟でも、他者を排除する黒人コミュニテイでも、日本にあるような被差別集落でもない。街には水道も電気も入り、今では若者の9割がインターネットにアクセスし、肌の色の区別なく多くの住民が下界の都会に通勤している。性格的には、地価の高騰した都市部に生活できない低所得者層が集まった集落なのである。



ブラジル国民はCPFとう納税証明IDを持つことが義務化されている。持たないと、クレジットも、病院も、定期券も、選挙も、ネット予約さえできない。税金を払わない人間はCPFが持てず、ファヴェーラの地下生活に入るしか道はない。ファヴェーラが無くなるか、安全な街に変わらないのは、依然として麻薬密売組織の利権がこの街を牛耳っているためでもある。



一方、ファヴェーラは多くの誤解と偏見を受けている。特に都市を運営する立場からは、人口の定まらない地区への公共投資、市全体の防犯防災対策、都市開発の足かせとして排除する方向へと向かう。
今までリオ市当局も、集合住宅の建設と賃貸援助、ケーブルなどの公共交通の整備、警備組織の強化が図られ、道路やオリンピック関連の開発による移転を促してきた。



ファヴェーラは住宅と商店の併用が多く、狭い路地にバー、食堂、仕立屋、電機屋、雑貨屋、教会、学校、ホステルなどがある住商混合地区でもある。住民の立場とすれば強制移転や警官による誤射、暴力など都市開発は受け入れがたいものと感じている。


ファベーラ整備は世界で最も難しい街づくりとされる。



7月13日の夕方、ボタファーゴのSanta Martaに行った。
ここはオランダ人のデザイナーによるファヴェーラ・ペインティング・プロジェクトにより、世界のデザインとして紹介された街である。建物のペインティングによる街づくりは、観光ツアーが行われるほど有名になり治安も回復し、国内外から高い評価を受けた。しかし、昨年再び7年ぶりに麻薬組織との銃撃戦があり、また元の街に戻ったと報道された。



コパカバーナのホテルから1kmほど山手に行くとコルコバードのキリストを望む教会があり、ファヴェーラの入口に交番があった。警官に訳を話し入っていいか尋ねると、今から巡回に行くからと、手で、こいと合図された。



夕方の街の様子は、仕事帰りの買い物客や開き始めた居酒屋の準備などで少しあわただしく、よそ者に注ぐ視線は感じない。5m先を行く武装警官二人は、途中で路地に入って行ってしまった。



何度かテレビでも紹介された小さな広場は、さすがにペイントも古くなり、店は閉じ観光地の雰囲気はない。暇そうな若者が二人座って、トラブルを期待するかのように通りを眺めていた。



右手に人の列を見つけ向かうと、そこはケーブルカーの入口であった。登るつもりはなかったが、おばさんが今から暗くなるから行かない方がいい、みたいなことを忠告してくれた。ほんの1時間歩いただけで3回ほど声をかけられた。今日何かあるの?店はまだだけどサッカーを見に集まっちゃって、みたいな意味のことだったと思う。



テレビのファヴェーラの怖く冷たいイメージとは違い、むしろ東京の下町の雰囲気に近い。決して豊かな人達ではないが、下界の華やかだが冷たい観光地にはない田舎に近い人の温もりを感じる街だった。



ファベーラの入口には学校や病院もあり、児童公園が整備されていた。公園には使い古されたツアーの案内図などもあった。




彼らが『ファベーラを芸術で救おう』と始めたプロジェクトはペイントと同じく劣化したのではなく、公園に集まる子供やペットと遊ぶ家族を見ていると、違う形で実を結んでいると感じた。しかも、このファヴェーラはコルコバードの丘から、いつもキリストに見守られている幸運な街なのである。

  


Posted by Katzu at 23:19Comments(0)まちづくり