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Posted by TI-DA at

2017年07月14日

再生される海と失われる海

名護市の西海岸線を歩いていくと、コンクリート護岸と砂浜の入れ替わる箇所に出会う。片や港湾施設の高潮対策で作られた5mの高さの防波堤施設で、片や多自然型の人工海浜でコンクリートの防波堤はなく、宅地までは3mほどの高さしかない。



漁港の海岸保全区域として事業認可された違いはあるが、同じ住宅地に接し堤内地を守るという同じ目的を持ちながら、両者の設計思想の違いには大きな隔たりがある。



日本の公共構造物は、その時代時代で節操なく構造基準が変わる。特に近年の災害が多発する自然環境と、政権が交代する毎にインフラ整備の方針までが変わるためである。



 この城海岸は、戦前よりイルカ漁が盛んであったが、沖縄返還後、海洋サミットを前に海外からも批判をうけていた。その頃から護岸事業が始まり、浜は消波ブロックとコンクリート護岸で整備されて行った。港湾の高潮事業が完成したのが10年前であった。
その後、第一次安倍政権の時に『美しい日本』というあいまいな方針のもと、建設省や業界もこれに応えるべく多自然型の構造物が氾濫した。デザイン的に貧弱で自然になじまない白いガードレールは、茶色を基準とする旨の通達が出され、あるメーカーは製造ラインをすべて茶色にした。しかし、それは目立たないことにより安全性が失われるという、基本を忘れた本末転倒の設計方針でもあった。



コンクリートに対する焦燥感や自然回帰の意識は設計者も同じで、折りしもバブル期でグレードアップされた二次製品、自然素材を多投した。この多自然型の海浜公園が完成されたのが5年ほど前で、その時代差が港湾設計の大きな違いとなっている。
震災後はこの設計基準もまた変わり、現在では津波を考慮した防潮堤が検討されるであろう。



 この5年間、人工海浜公園の自然回復に大きな興味を持って見つめてきた。当初は台風が来るたびに砂が道路だけでなくマンションのベランダまで堆積した。設計者の意図とは裏腹に海岸線も後退し、砂浜は狭くなり水深が深くなり元の岩盤が露出し始めた。
一方、植物はグンバイヒルガオなどの海浜植物が繁茂し始め、クワデーサー、タコノキなども根付き留鳥も住み始めた。




潜堤は流砂防止となり波の弱いリーフを造った。ブロックにはサンゴが付き始め漁礁となり、小魚は護岸で守られた砂浜付近の元の岩礁に住み始め、小さなサンゴ礁となって再生した。



コンビニやファーストフードの店の裏に、クマノミの根がたくさんあることを知る人も少なく、このまま静かに見守りたいが、白化現象が進む近海にあってこの生命の再生する力の強さに驚いている。



ここは海水浴場ではないので泳ぐのも溺れるのも自己責任だが、週末は外国人を中心ににぎわい始めている。
手を加えすぎても、成果を急ぎすぎてもいけないのが海岸整備の難しさである。




 一方で、名護市には失われようとしている海がある。反対側の東海岸線は集落も少なく、地形も複雑で所々に砂浜が点在する。
図らずもウミガメやジュゴンが確認されたのは住民の入れない辺野古の浜で、ジュゴンが発見される前からウミガメの産卵が確認され、海浜での米軍の訓練を自粛する要請を行っていた。



今ここにフロートが設置され護岸工事が始まった姿を見ていると、同業者のアセスメントの間違いを指摘するまでもなく、2,100万㎥もの土砂を海に投棄する行為自体、大浦湾とここに運ばれる山は元には戻らないという事実に茫然自失となる。周辺環境の悪化だけでなく、人工島や干拓地自体、地震や津波にいかに脆弱かは、阪神淡路大震災や東日本大震災ですでに証明されている。他の海上空港との違いは、地元に利益を還元する交通施設ではなく、戦争になれば先に標的になる軍の施設である点である。沖縄戦で米軍が上陸した読谷飛行場、伊江島飛行場は真っ先に狙われ激戦地となったことを、地元の年寄り達は経験的に知っている。



環境や街づくりに関わった者なら故国のこの現状を悲しみ、学校で環境教育を受けた親達は国を守るという方便以外に子に伝える術がない。5年以上続くこの建設は明らかなまちがいで、いらないもの、とりのぞくものとして、工事が続く限り認識され続けることになるだろう。



  
タグ :海の環境


Posted by Katzu at 18:09Comments(0)海の環境