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2017年03月23日

忘れえぬ街 その9

戦後復興の観光地 :シェムリアップ




 カンボジア内戦が終わってもポルポト軍の残党がまぎれる北部は、地雷が残りまだ戦争の匂いがしていた。子供達の多くは親を失い、笑うことを忘れ無表情であった。10年前、アンコールトムのバイヨンを訪れた時、出口に子供たちが陣取り、抱えた水頭症の赤ちゃんを見せ金をねだってきた。あまりの唐突さに驚き、誰に向かっていいかわからない怒りをおぼえ、その場を立ち去った。後ろからののしる声と小石が飛んできた。子供達は生きるための観光という手段を知り、ようやく喜怒哀楽の怒りの部分を表現するようになってきた時期だった。



 一日歩き疲れ腰に違和感を覚え、宿に帰り相談すると、近所からマッサージ師を呼んでくれた。やってきた女性はあまり慣れてないらしく 徐々に痛みに耐えられなくなり、もういいからと飛び上がると、彼女は手を合わせひた謝りながら、他に何もできないので、と今度は唄を歌い始めた。恐らくそれ以外のサービスを求める日本人男性客がいるのだろう。その人間的な所作と子守歌のような唄にホロりとなった。

働くこと、学ぶこと、奉仕することが人も物もまだ発展途上だった。



 街の北8kmにあるアンコールワットは既に世界の観光地になっていたが、空港と国道と遺跡が結ばれている以外はインフラが未整備だった。
街は汚く異臭がし、マーケット以外は街灯や店も少なく、夜歩きは危険だった。街の魅力は乏しく、郊外の崩れ行く遺跡の持つ焦燥感と夕日の沈み行く無常感の対比が際立って美しかった。



この頃私は宅地の価値を生み出すだけの日本の街づくりに辟易としており、人間が本質的に生活するための街を見直すべきだと思うようになっていた。むしろ、ここで一個の地雷を除去し、一歩の木を植え、一本の水路を引き、一本の道を結ぶ方がよほど、人の為、未来の世の為になるだろうと思考が逆転した思い出の街だった。




当初はこの街の計画にも携わりたいとの思いが強かったが、その後パラオの案件がありこの街に関わることはなかった。しかし、その後都市計画の案件もなくなり、街はどうなっているかずっと気掛かりであった。



 アンコールワットは、ユネスコ始め多くの先進国の機関が遺跡の整備に協力し世界有数の観光地となった。その起点となるシェムリアップは同様に発展していた。シェムリアップ川の東側にあるサクラハウスから市内に向かう道は街灯一つなく夜はこわかったが、今では観光客向けバザールとなり川はライトアップされていた。



オールドマーケットは市場周辺を除けば10年前の面影はなく、まるで欧米の観光地に似せた観光客向けのパブストリートとなっていた。以前は国際電話の使える電気店をマーケット内で探したが、今回はモバイルSIMを求め郊外まで続く商店街を500mほど歩いた。



街は信号制御の必要な車社会に突入していた。
シュムリアップ州の都市部の人口はこの10年間で70%増加し、市の人口は18万人に達していた。表面上は、物乞いも減り市民生活も豊かになったかに見える。一方、アンコールワット遺跡の観光客は毎年10万人単位で増え続け既に400万人を越え、総量は今後も増え続けるだろう。



市内の商店街は中国・韓国など海外資本の商店、海外観光客向けローカルの土産・飲食店が増え、市民の生活感のない観光の街に変わってしまった。ローカルの土産店は、品ぞろえの少ない同じ種類の店が何十店も軒を連ね魅力に乏しく、同じ店へのリピーターは望めそうにない。中国人観光客が大半を占めるアジアの他の観光地も、同様の構造的欠点を持っている。



2月からアンコ―ルワット遺跡群への入場料が2倍近い37ドルになっていた。隣国のバンコクやホーチミンからの交通費と変わらず、隣国からの観光客の伸びは期待できない。それでも世界遺産の観光地はリピーターが増えなくても、他の地域から新たな客が押し寄せて来る。
シェムリアップから北東40kmにあるベンメリア遺跡に、2時間近くトュクトュクに揺られ向った。この遺跡はアンコール遺跡群から離れており、前回は地雷かサソリを踏むからと入場できなかった。



 ベンメリアは『天空の城ラピュタ』の題材になったと噂され、近年日本人観光客が増えたという。ドイツの調査団が長年修復を行っているが、再築をあきらめこのまま保存しようと園内通路を整備している。現在は中国人の観光バスが押し寄せていた。



アンコールワット以前に造り始めた同規模の遺跡で謎も多く、城壁が崩壊した廃墟の姿は口や絵では説明できない憎しみによる破壊力を感じた。この破壊の意味はタプロ―ムを始めとする他のアンコールワットの遺跡のように、時とともに朽ち果て忘れ去られた遺跡でも、アユタヤのように宗教上の破壊でもなく、ポルポト軍が宗教遺跡に係わらず陣地として利用破壊したためであった。




 帰路、運転手は嵐が近付いていると、雷の鳴る暗雲を指差して、集落間の近道を通った。砂埃の舞う未舗装の凸凹道で、昔ながらの農村風景が広がっていた。観光には無縁の農村は地雷がなくなった以外は大きな変化は感じられない。



途中、突然の風雨で大木の下に避難し、市内に戻ると街は浸水で大変な騒ぎになっていた。商店主は路肩の排水溝のゴミを取り除いている最中だった。



乾季にこれだけの豪雨は珍しいが、この短時間のスコールで宅地が浸水するほどの降雨量でもなく、その証拠に河川の水位は低かった。つまり道路の排水が機能していないのである。排水整備計画を行ったJICAの報告では、建物移転を伴う河川の整備が都市災害を軽減させたことになっているが、浸水の原因は地球環境の変化だけでなく、住民の意識向上と都市整備が急激な都市の膨張に追いつかない結果であることは疑う余地がない。



日本をはじめ欧米の各機関は、この遺跡の歴史的価値を住民に教え保存活動を行いながら、自立するための教育・インフラの支援を行ってきた。一方、観光計画だけでなく住民自ら、インバウンドに対応できるように街の美観と衛生の向上に務めるべきだった。
インフラ整備を進め住民のルールを育てる前に、初期投資の少ない目先の観光収入に飛びついた結果がこの街の現在の姿なのである。
住民が遺跡の価値に気付くと同時に、世界遺産の商業的価値を国内外の観光ビジネスが飲み込んでしまった結果とも言える。




 宿泊施設や飲食店、土産屋など観光に従事する労働者はほとんどが10代20代の若者で、すでに外国人客とコミュニケイトできる会話能力を身につけている。
川に目をやるとゴミだらけで夜以外はきれいではなく、その川岸にいる家族の姿は貧富の格差が広がった都市の疲弊を表しているものの、悲壮感のない子供の笑顔が戻ったことがせめてもの救いであった。






  


Posted by Katzu at 23:56Comments(0)忘れえぬ街

2015年08月17日

忘れえぬ街 その8

夢のシャングリラ:香格里拉



日本人の住みやすい環境を探していくと、温暖なラオス・タイ・南中国から
チベットにかけての日本人起源説の一つに数えられる地域に重なってくる。
すると、同じ大乗仏教であるチベット仏教の街、その名も香格里拉あたりが
理想郷かもしれないという想いを抱いていた。



ナシ族の聖山玉龍雪山を越え、金沙江を渡るとチベット族の自治州に入る。
少数民族の多い雲南省にあっても、都市化とともに漢族との同化が進み、
観光以外にその違いを強く意識する機会は少なくなった。



国内観光客のあまりの多さと、招かざる外国人観光客の少なさに、
徐々にストレスと疎外感を感じ始める頃だった。
やがて谷が深くなり、狭い土地に農家が張り付きタルチョの旗が
見え始まると、田舎に近づくような安心感を覚えた。



中国人観光客は減り、外国人は少し増え、バスで3時間後、
標高3,300mの香格里拉に到着する。



 街は中国の普通の地方都市であるが、間もなく人々の眼差しと
態度が柔らかく好意的であることに気が付く。
注目されてきた観光地であり、外国人に慣れているせいもあるが、
道を聞いても親切に教えてくれ、英語が通じる割合が高い。
チベット族は仏教徒でもあり、控え目で表情もどこか日本人に似ている。




香格里拉古城の中心には、月光広場が整備され、隣接する大亀山公園に
大仏寺と世界一のマニ車があり、ここだけは観光バスが次々訪れる。




1日中回っているマニ車は人が回しているものだった。
日中は観光客でテーマパーク化してうんざりするが、朝夕は少なく
お祈りしながら回す信仰者だけで一緒に回すと神聖な気分になる。
ただ、人が徐々に減ると重くなり、最後はトレーニングのようになる。




 この周囲の旧市街地は昨年の大火事から復興する途中にあり、
予約した客桟は、100軒が焼失した境目に残ったものだった。
その時の状況を聞くと、日本語のわかる人を電話で呼び出してくれた。



街はいち早く、狭い路地の仏塔から復旧されていた。
新しい店の飾りは、手彫りの竜のデザインで統一されている。



集落の中心もこの仏塔が広場の役目を果たしているが、反面、
観光地の車社会は、マニ車を回せないほど駐車場化している。




 郊外にそびえる松賛林寺は、チベット仏教ゲルグ派の
ラサのポタラ宮に次ぐ、第二の寺院であると言われる。
チベット仏教寺院は初めてだが、十分感化されるものがあった。



僧侶たちは修行のみならず、寺の補修工事のために鉄骨を運び
廃材を処理する姿も見られ、開かれた生活感のある寺院である。



本堂に入ると絵の不思議さに眼開き、神聖な気分になる。
迷える子羊のごとく、先を行く人に従いひざまづく。
観音菩薩、文殊菩薩、阿弥陀如来、薬師如来、吉祥天など、
お馴染みの仏神が祀られており、一人ずつお祈りしていく。



日本と大きく違うのはダライ・ラマ14世の像が含まれ、
五体投地することくらいで、祈る態度に大きな違いはない。
シルクロードを通り中国経由で日本に渡った仏教と経緯は異なるが、
海を渡った果ての地に同じ神様がいることに、新鮮な感動を覚えた。



 松賛林寺の公衆トイレは雲南省で一番清潔であった。
案内板は英語、日本語、韓国語で併記されている。
英語で外人観光客に説明する僧侶もいて、ここが中国で一番、
精神的にも開かれた国際性豊かな場所であることがわかる。



 一方、チベット騒乱後も中国政府の抑圧政策により
僧侶の自殺が絶えない現実が、正しく外国に伝わることはない。
神秘的で自由な創造性を持ち合わせるチベット仏教と、古い唯物史観に
固執する党本部とは、方向性が異なることは誰の目にも明らかである。




地名はもともと中甸という名を、観光のために香格里拉(シャングリラ
:理想郷の意)に変えた観光地であり、実際の理想郷ではなかった。

しかし、中国の平原から奥地へ距離と高度を稼いできた者にとっては、
香格里拉は、チベットのシャングリラへの入口なのかもしれない。




この街から放牧地のナパの海を越えると、さらに険しい横断山脈がそびえる。



  


Posted by Katzu at 02:31Comments(0)忘れえぬ街

2014年06月18日

忘れえぬ街 その7

変わるファヴェーラ・変わらぬカリオカ:リオデジャネイロ



 1985年、ブラジルのリオに1か月ほど滞在した。
当時クビチェック大統領が推し進めたリオからブラジリアへの遷都は、すでに25年経っていたが
新都市の魅力への疑問と施設の維持管理にも支障をきたし、国内外からも批判が相次いでいた。
仕事でつきあいのあった市大の先生からは、都市計画の失敗を見るのも良い機会だと皮肉られ旅立った。
リオを離れることに反対する国家公務員は、ストをしてリオにとどまった結果、一介の地方公務員となった。
当時、他人の都市を計画することの限界を感じ悩んでいた自分は、リオの街の魅力に取りつかれるうちに、
新しく造ったブラジリアの都市計画への興味などはすっかり忘れてしまっていた。



 白いペレと呼ばれたジーコは、その年セリエAを退団し、リオのフラメンゴ復帰が決まり、
マラカナン競技場で『王の帰還』としてプレイすることが決まっていた。
その晩は20万人収容の世界一のスタジアムで彼のプレイを見る予定であったが、
ポン・ジ・アスカルの帰りのバスで、窃盗団にカメラを盗まれてしまった。
証明書をもらいに警察に行ったが、日本語はおろか英語を理解する警官はいなかった。
市警察は紳士的で、親切にもパトカーで市内各署をまわり探してくれた。



やっと見つけたコパカバーナ海岸に近い派出所のLA生まれの若い警官は、
『昇進したい奴は全員ブラジリアに移り、今ここに残っているのは
海とサッカーとサンバが好きなカリオカ(リオっ子)だけだよ。』 ともらした。
人の造った街などより、リオはよほど魅力的な街であることは明らかで、
その後の自分の街づくりに対する考えに大きな転機をもたらした。



ブラジリアを中心とするアマゾン開発は、国家プロジェクトでありブラジルの経済的発展を支え
日本もその経済的援助を担ってきたが、現在は中国のCO2排出量増大とともにブラジルの
CO2吸収量の減少が地球環境の急激な変化をもたらした主要因として批判の対象となっている。

 マニラのスモ-キーマウンテン、香港の九龍砦とならぶ世界3大スラムと言われるファヴェーラ。
他の2地区に比べても、麻薬闘争もあり危険で踏み込むことさえできなかったが、
山手のファヴェーラの住民は、世界一と言われるリオの港の夜景を見ることを自慢する。



確かに、他の世界3大美港(諸説あるが)の香港、シドニーと比べても、
自然地形と相まってリオの空間的美しさは特に際立っている。




160年の世界最古の歴史を持つ市街電車は、終点付近がそのファヴェーラの入り口にあたり、
カメラを構えるような雰囲気ではなく、すぐに逃げるように帰ってきた。数年前に脱線事故があり、
それと前後して水道橋から観光客が落ちて亡くなったが、亡骸からはカメラや金品が盗まれたという。



 Googleで街の様子を見た限りでは、30年前に比べ街は整備され治安も良くなっているようだ。
以前、観光客だけでなく一般市民もデイバッグは前に抱え、常に周囲を気にして歩いていた。
しかし、日本人のワールドカップ観戦者の一部はスリに会うだろう。
平和ボケというのも理由の一つだが、生活は豊かになってもスリというのは職業として残るからである。



 暴力と貧困のファヴェーラは変わりつつある。
オランダ人アーティストHaas&Hahnが立ち上げた『ファヴェーラ・ペインティングプロジェクト』は、
アートが街を変える趣旨で世界的にも高い評価を受けている。
     CNN 『世界で最もカラフルな街10』

一方で景観価値の高いファヴェーラは、リオ市当局による再開発が進行している。
開発はケーブルカー建設の観光目的で、すでに強制収用が行われ反対運動は過熱しているが、
この地から離れたくないというカリオカ気質は今も昔も変わらない。
ワールドカップに反対するデモも、市民生活を脅かす権力者に対する姿勢は同じである。




結局、マラカナンのジーコは見ることができず、その後の日本での活躍にも興味をなくしてしまった。
夕闇せまる頃、ワールドカップで盛り上がるリオの街並みをテレビでながめていると
セルベージャを飲み、マッチ箱でリズムを取ったセントロ付近のバールの雰囲気が懐かしく、
素晴らしきサンバの仲間たちに耳を傾けたくなる。

  


Posted by Katzu at 16:39Comments(0)忘れえぬ街

2013年11月17日

忘れえぬ街 その6

地球環境の変化に翻弄されるカヤンゲル



       

 パラオ共和国カヤンゲル州は、コロールから北60kmにある環礁の島々である。
州の人口は200人であるが、実際住む人は100人程度で、5つの集落が点在している。
集落内はヤシの木で覆われ、木洩れ日の森は昼も薄暗く涼しかった。



集落間は石の縁石の古道でつながり、環礁には珍しい古い井戸や
石のプール、謎の石鳥居の遺構もあった。
石貨で有名なヤップ島には、パラオから最も近く、
同じ石の文化が伝わったと言われている。



まだ、古い慣習や環境の残るパラオの離島の雰囲気がある。
森の中のパワーストーンを案内してくれた少年は、
これに触れてはいけないと身を挺するのであった。



2009年と2010年の2度この島を訪れたが、日本のODAによる港湾施設、上水設備、
発電設備などのインフラ援助が行われたこともあり、島民は親日的で我々が村を歩くと、
ヤシの実を取ってごちそうしてくれた。
カヤンゲル環礁は、ロックアイランドで有名なパラオの中では珍しい白砂の環礁で、
日本に最も近く、ビーチの美しさはマーシャルやモルジブの環礁にひけをとらない。



海水温の上昇は礁湖内のサンゴに多大な影響を与えたが、南の無人島は海鳥の
サンクチュアリでもあり、手つかずの自然が残っていた。
鏡面のような海水面は七色にきらめき、パラオ唯一の透明度を誇っている。



パラオ在住の邦人は、観光客の集まるロックアイランド周辺より、
のどかで素朴なこの島の方が、静かで美しいことを知っている。
週に一度の州政府のボートは休みが多く、渡海には何度も苦労したが、
最近、一般観光客用のデイツアーも入るようになった。



 現在、この島と村は地球規模の気候の変化のなかで、重大な危機にさらされている。
この島の標高は数mにすぎず、今世紀末、海に沈む島と言われるツバルと同様に、
地球環境の変化に最も敏感な島の一つである。
周囲の海岸線は浸食しつつ、ヤシの木の倒壊が目立つようになり、島の東部には
タロイモ畑があったが、海水の影響か生育も遅く、茎葉も枯れたものが多かった。



島のJFK小学校は1962年創立の、名前の通りアメリカ資金援助による学校である。
グランドは海面に近く、男女学年関係なくソフトボールに興じる姿があり、世紀末まで
海面上昇の影響を受けることなく、この地に残ることを願うばかりであった。




 先日の台風30号はこの楽園を直撃した。
ヤシの木はほとんど倒れ、集落の建物はすべて損壊し、
インフラはすべてストップしたと報じられた。
その中には、屋根の飛んだJFK小学校の写真があった。



ヤシの生育状況を見ると、半世紀ぶりの台風であったと推測される。
幸い全員無事で、コロールに避難したと伝え聞くが、
どの災害でも小さな離島は救助や復旧が遅れる。



日本政府もようやく援助を表明し、これまでと同じく
日本主導のインフラ整備が進むことが、自然の成り行きであろう。

  
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Posted by Katzu at 02:25Comments(0)忘れえぬ街

2013年01月13日

忘れえぬ街 その5

商農工住と変化する港町酒田



 山形県酒田市は、江戸時代に出羽内陸地方からの最上川の船運と、
京から蝦夷への北前船が行きかう交通の要所であった。
その交易による港町は、西の堺に対し、東の酒田とまで呼ばれた。

庄内平野は、最上川と鳥海山、月山の水と、日本一の地主と言われた
本間家の水田により、豊かな農村を築いてきた。
戦後の農地改革により、さらに米作の生産性は向上し、
戦後の飢餓時代の食糧事情を支えてきた。

 昭和40年代の高度成長時代には、5万トン岸壁の酒田北港や
工業団地が造成され、日本海有数の工業都市へと変貌しつつあった。
住軽アルミの立地や、電子産業の進出が相次ぎ、
本間ゴルフ、前田製管などの全国有数の地元企業も育った。
しかし、工業はオイルショックにより衰退し、撤退する企業も増えて行く。

 その高度成長時代が終焉した頃の1976年に、酒田大火が起きた。
大火の知らせは、帰省する際の上野駅の新聞で知った。
市内の商店街22.5haを焼失する大火であった。



火は日本海からの風に乗って広がったが、北の寺町で方向を変え、
火の勢いが東の新井田川の方向に進んで行ったという。
この周辺は社寺の密集地帯であり、広いオープンスペースと大木が
防火の役目を果たしたのであろうが、
今でも地元の人と大火の話をするとこの御利益の話になる。



 酒田の再開発は官民一体となり、県内のコンサルがかき集められ、
防災・緑道計画をコンセプトに、最短の2年間で街が完成した。
マニュアル通り進めると、このようなスピードで街はできないが、街の再興を願う
強い気持ちと、超法規的なものを認める行政の裁量が、それを可能にした。
阪神淡路大震災では、これを参考に比較的早期に完成できたが、
今回の東日本大震災では被災地が広すぎ、足並みをそろえる強力な力もなく、
まもなく2年がすぎようとしている。

 震災復興区画整理事業の後、中町商店街の復興と再開発事業に関わったのは、
中央のある事務所だったが、当時のモール計画としては高い評価を得た。
しかし、その後の新住宅地の開発による人の重心の移動が、
商店街の衰退につながり、交通の不便を助長する結果になってしまった。

復興市街地の境界にある徳念寺の住職と話をしながら、
雪の降る対照的な新旧の街を見ていると、変化し続ける
街の歴史が頭の中を駆け巡って行った。



 昔からこの街が好きで、海釣りに来たり、鳥海山に登ったり、
ラーメンを食いに来たりと、毎週のように来ていた時期があった。
その中でも、冬の田んぼに浮かぶ防風林のある集落の風景は、
なぜか自分の心象風景になっていた。
私の祖父は酒田出身だということは聞いていたが、
今まで興味もなく、どこの集落かも知らなかった。
正月に本家に行った時に、初めてその場所を聞いて納得した。
それは、酒田市の東の郊外の土崎という集落だった。
幹線道路から見ると、思い描いていた通り、
地吹雪の中から、駅舎と農村集落が浮かび上がってきた。



羽越本線の東酒田駅の隣の集落で、昭和初期に土地の有力者であった大伯父は、
駅を自分の家の前に引いたという話も、まんざら嘘ではないようだ。
現在も駅前には3軒の家が立っているだけで、周りには他の集落はない。
庄内地方には、平重盛の家来が落人となり、小松姓を名乗り移り住んだという
伝説を持つ集落もあり、自分のルーツさがしにも興味が湧いてくる。

 その後の酒田は、東北大震災の時は日本海側からの中継基地になり、
交通の大動脈となり、現在も運輸業のつながりを保っている。
まちの姿も、商農工住と変化しながら、またルーツに戻り、
現在は商業・観光の街を目指している。
  


Posted by Katzu at 17:09Comments(0)忘れえぬ街

2011年08月28日

忘れえぬ街 その4

日本人が造った街コロール
 パラオ共和国の中心都市で、1920年代、日本が南洋の
拠点として、近代的な都市を計画、市街地を形成した。
その街の骨格は現在も変わっていない。
現在人口は12,000人程度であるが、
戦争当時は軍属を除き20,000人が住んでいた。



 当時コロール1丁目~7丁目まであり、夕日が丘、本願寺通り、
芸者通り、港橋などがあり、その中には、
現在も使われている地名もある。

この町は戦前、南洋の東京とも呼ばれ、平和で美しい街であった。



現在の幹線道路は、23,000台が通過する渋滞もある道路だが、
信号はなく、交差点での一時停止はアイコンタクトが必要である。
裏通りは3間幅の、日本統治時代の面影を残す道路や、建物が残っている。
日本語表記や日本名も多く、日本語を話せる人もいる。
世界一の親日国と言われる所以である。

常夏の島で、朝夕1年を通じ、気温は27~29℃、湿度は60~70%である。
1日1回雨が降り虹がどこかで出る。
夕方、三線を弾いていると沖縄にいるように錯覚してしまう。
地理、自然、文化、歴史的にも、パラオは沖縄、東南アジア、
アメリカの中間的な位置にある。



 この日本人の造った街で、2年間街づくりに関する支援を行った。
当初は思い入れが空回りし、建設的な意見がでないことに
イライラが募った。
しかし、1年を過ぎた頃、彼らの心情が理解できるようになった。
それは、強国に囲まれた琉球王府の立場を考えれば、理解できる。

損得は意外にシビアで、商業の利権争いもある。
彼らは、温厚で時に日和見的な面もあり、
日本的だと感じることもある。

 朝から演歌を流していた同僚は、気を使ってくれているようで
嬉しくも、気恥ずかしかった。
でも彼はその唄が好きなだけだった。

ダイバーの多いコロールは観光地になり始めているが、
街角で互いが認識出来るようなスケールの、
昔のままの街であってほしい。

来月、1年ぶりにパラオに帰る。
  


Posted by Katzu at 00:30Comments(0)忘れえぬ街

2011年06月10日

忘れえぬ街 その3

40年後のボーンエルフ...オランダ デルフト
 1970年代、都市計画を学び始めた頃、ボーンエルフという
歩車共存の道路形態が注目された。
それは従来の歩車道分離の計画とは全く異なる交通理論であった。
国内でも住宅団地で取り入れようと試みる所も出始めていた。
しかし、公安協議がネックとなり、形態だけがとり残された。
いつしか、それはコミュニティロードと名を変え、
市街地の道路空間となった。
基本的に、日本のニュータウンは、歩車分離の思想に基づく安全な、
土地利用の分離された団地であり続けた。

ある種、都市計画の寵児となったボーンエルフ発祥の地である
オランダのデルフトであったが、その後40年経過してどんな街になったであろうか。
気がかりだったが、2年前にはじめて訪れることができた。



 デルフト市はオランダの南部にあるハーグに近い人口10万人の地方都市である。
有田焼に影響を受けたデルフトブル-と呼ばれるデルフト焼が有名である。
旧市街地は運河が至る所にあり、水上交通にも利用されていたが、
今でも街に潤いを与えている。
道の先には広場があり、寺院ランドマークとなっている。
商店街は歴史のある石畳みの路地にあり、色彩豊かな店には観光客があふれる。
主要道路は自転車帯があり、トラムが車と共に現れる。

ヨーロッパの旧市街地はどこも大体こんな感じで、
デルフトの街も自然体で同様な魅力にあふれる。



 駅の反対側のボーンエルフにはいると一変する。
6m程度の区画道路が中心であり、車と自転車が猥雑に移動する。
それはある種の感動で、邪魔とか危ない感じでない。
個人主義のヨーロッパゆえに最低限、自分の安全を意識して歩けばいい。
暴走族もいるだろうが、ハンプや遮蔽物のデバイスで危険性を取り除く。
このシステムはすたれることなくしっかりとこの街になじんでいた。
日本のニュータウンが、オールドタウンになったのとは大違いだ。

バザーや軒先の老人の佇まいをみていると、与えられた店やベンチは
愛着がわかず、自分達で育てたものは長続きするということである。

運河沿いの通路を歩くと、生活の場を歩行者に与えているような
温もりまで感じてしまう。
ボーンエルフ(生活の庭)とはそんな思想の街のことであった。



 デルフトに限らず、世界一の自転車の国は多くの示唆を与えてくれる。
幹線道路は歩車自転車分離である。
自転車が高い交通優先権を持つ。
歩道を渡る時横の自転車に注意しなければならない。
自転車はバイクと同じ専用レーンを30kmくらいのスピードで走り去る。
しかも右折車よりも直進自転車が優先される。
自転車は幹線道路でも、必ず右を走らなければならない。
自転車レーンに停車した車は、停車しただけですぐパトカーが来る。
自転車利用率は日本の2倍であるが、遠距離通勤に使う場合が多く、
平均距離はさらに長いはずである。



中途半端に歩車道分離を行い、歩道の自転車通行を許してしまった日本は、
このようなシステムを受け入れるにはまだ時間がかかる。
  


Posted by Katzu at 23:35Comments(0)忘れえぬ街

2011年06月03日

忘れえぬ街 その2

ウチナーアメリカの光と影:コザ
 1970年のコザ暴動から、沖縄が日本に復帰し海洋博覧会が行われ、
ベトナム戦争が終わった1975年、交通規制が変わった1978年、

70年代は、沖縄の街並みが大きく変わった時代であった。
1974年に沖縄市に変わったが、学生時代に行った7.30
騒動時のコザは、まだ日本のどこにもないアメリカの街だった。



日本円に切り替わったとは言え、店のメニューは$表示が残っていた。
街並みの看板は横文字が多く、街なかの4車線道路も珍しく、
街並みの雰囲気はアメリカンだった。
ベトナム戦争後とはいえ若い米兵が、ライブハウスにあふれ、
戦争の記憶を忘れようと、もがき泥酔する姿があちこちにあった。



友人数人と徒党を組んで緊張しながら、ゲート通りを歩いた。
軟弱な内地の大学生には、十分なカルチャーショックだった。

 朝鮮戦争以来の景気に沸いたコザの繁栄は、どの歴史にも
あるように、一瞬の輝きと騒乱であった。
当時泊まった京都ホテルも、
新婚旅行で泊まったシェラトン沖縄も今はない。
忘れ去りたい過去が、人々をこの町から遠ざけて
いるようにも思える。

最近、沖縄市の商店街は、他の日本の地方都市と同じく
シャッター街となったが、新しいまちづくりを模索している。

かつての繁栄と賑やかさを、独自の音楽文化に求め、
コザミュージックタウンをテーマに、若者を中心に進めている。

全国的に、中心市街地活性化事業が行われている。
国交省主導の補助金や、各種交付金で行われるケースが多いが、
十分な効果がなかなか上がらない。
箱モノを作り、造った当初はいいが、維持費が掛かり、
継続することが難しい例が多い。

コザのケースは、音楽に情熱を持つ若者が多くいるだけ、まだ希望がある。
街の伝統と文化を、新しいシステムに溶け込ませるかがカギであろう。

沖縄市の都市マスの目指す都市像は、国際文化観光都市である。

商業圏が北谷に奪われ、市の重心が東に移動するにつれ、
都市計画の統一性が取れていないことが気掛かりである。



コザ広域都市計画を見れば、その最大の原因は、皮肉にも
コザの経済を支えてきた嘉手納基地であることは、一目瞭前だ。

カデナエアベースが出来た時点で、コザの都市計画は閉ざされた
と言っても過言ではない。

しかし、基地無き後のコザの街を想像できる人は、
どれだけいるのだろうか。
  


Posted by Katzu at 19:34Comments(0)忘れえぬ街

2011年05月05日

魅力ある坂のある港町

黒いローマ:サルバドール 
 国内にある坂のある街は、函館、横浜、神戸、尾道、長崎、首里などが有名である。
海を見渡せ眺めがいい、風通しと日当りがいい。
反面アプローチが大変、宅地効率が悪い、土砂災害の危険など、
街づくり屋にとっては憂慮すべき条件がそろう。
ではなぜ好きなのか。港町が面白いのである。
海と山、人と文化が交錯するまちであるからなのだろう。

 サルバドールはブラジルの旧首都で、現在はバイーア州の州都である。
かつて奴隷貿易で栄えた南米一黒人の比率が高い都市である。
ブラジルには1985年、ジーコのフラメンゴでの引退試合とバイーア音楽、
フェジョアーダ料理のために訪れた。
その頃よく聞いていたカエターノ・ヴェローゾ、ガルコスタが、バイーア出身で
その歌からブラジルの原風景を想像していた。
 サルバドールの街の魅力は色と音である。
彩度の高い色のコロニアルな建物、黒人の修道女の白黒の対比、
色とりどりのミサンガに包まれたボンフィン教会のはでさ、
海の青と砂浜の白が眩しい海岸、
公園では観光客相手のビリンバウが聞こえ、
夕焼けがまちを赤く染める頃、サンバのバッカーダが胸に響きダンスが始まる。

光と音が空気にはじけ、1日で人生の喜びと悲しみを知ってしまうような港町であった。

 

 まち歩きは趣味だが、欧米の都市で感じる安心の中での満足感より、
びっくり箱を開けるようなワクワク感と、危うい期待感がこの街の魅力である。 
発展途上国で感じる、貧しくても楽しそうな人達の人生の楽しみ方を、
この街は教えてくれる。

食と音楽と風景、これに人と環境を足せば、魅力的な街ができあがる。
 
 街は海側と山側の二つの構成になっている。
この二つを結ぶのは、坂道とエレベーターとケーブルカーである。
確か10円程度の有料であったが、市民の足として、山の生活と
海の仕事を結ぶ交通機関である。
あの当時で100年近い歴史があり、現在も活用されている。



 その後、旧市街が世界遺産に登録され、観光地化し、
人口も200万を超える大都市となった。
世界遺産に登録されたことで魅力が増した街を知らないが、
代わりに安心度が増し、多くの観光客が訪れているはずだ。



 起伏のある港町は、住みづらい面もあるが、景観に優れた利点と
海と山の環境を享受できる点を、魅力ある街づくりに生かすことができる。
  


Posted by Katzu at 21:35Comments(0)忘れえぬ街